準決勝進出を決めた誠凛高校にとって、次の対戦相手の名前には特別な意味があった。
正邦高校。
昨年のインターハイ予選で敗れた相手であり、誠凛の二年生たちにとっては忘れようとして忘れられる学校ではない。独特の古武術を応用した動きに翻弄され、最後まで自分たちのバスケットをさせてもらえないまま大会を終えた。その経験があるからこそ、準決勝の相手が正邦に決まったと聞いても、日向たちの表情に驚きはなく、代わりに昨年の記憶を呼び起こすような緊張が走った。
試合を終えて控室へ戻ると、相田リコはさっそく次の対戦へ向けて情報を整理し始めた。昨年から残る岩村、春日、坂本、大室については実際に対戦した経験があり、正邦特有の動きについてもある程度は分かっている。しかし、今年の正邦を昨年の延長として考えることはできなかった。
理由は、新しく加わった二人の一年生にある。
一人は津川智紀。SGとして相手の中心選手へ執拗につき、簡単には自由を与えない守備を見せている。正邦の強固なディフェンスへ一年生ながら自然に入り込んでおり、リコも警戒すべき選手として名前を挙げていた。
そして、もう一人。
「銀城蓮。一年、185センチ。PG。アメリカからの帰国子女よ」
その経歴を聞いた瞬間、それまで黙っていた火神が顔を上げた。
日向たちの視線も自然と火神へ集まる。火神もまたアメリカでバスケットをしてから日本へ戻ってきた帰国子女であり、日本の中学バスケットではほとんど知られないまま高校へ入ったという点まで銀城と似ていた。
「……俺は知らねえぞ」
聞かれる前に火神が答える。
アメリカにいた選手を全員知っているはずもなく、それ自体は当然だった。それでも火神は、先ほどまでより明らかに銀城という名前へ興味を向けていた。
日本の中学では無名だった一年生が、高校へ入ってすぐ強豪の正邦でPGを任されている。しかも正邦には昨年から春日というPGが残っているにもかかわらず、今年は銀城がゲームを作り、春日が別の位置へ回る形まで使われていた。
その事実だけでも、普通の一年生ではないことは分かる。
リコが最も警戒していたのは、銀城のパスだった。
味方が完全に空いてから出すのではない。守備と味方の位置を見た時点で、その数瞬後に生まれるスペースへ先にボールを送っているように見える。受け手が動き切る頃にはボールが届き、守備が気づいた時には一歩遅れている場面が予選では何度もあった。
その説明を聞いて、最も強く反応したのは伊月だった。
伊月自身、《イーグルアイ》によってコートを上空から俯瞰するように捉える特殊な視野を持っている。だからこそ、単純に「視野が広い」「周囲を見るのが上手い」という説明だけでは、銀城のプレーを片づけられないことが分かった。
「……そいつ、眼を持ってるんじゃないか?」
伊月の言葉に、リコも否定しなかった。
《イーグルアイ》と同じものかどうかは分からない。それでも複数の選手を同時に捉え、まだ生まれていないスペースへ迷いなくボールを送るには、普通の視野とは異なる何かがあると考えた方が自然だった。
ただし、伊月にはもう一つ引っかかる部分があった。
《イーグルアイ》ならコート全体の配置を広く捉えられる。しかし、見えていることと、その先まで分かることは同じではない。銀城のパスが本当に味方の動きより先へ出ているのなら、広く見ているだけでは説明が足りなかった。
「見た上で、次まで読んでるのかもしれないな」
伊月が呟く。
味方と相手の位置だけでなく、身体の向きや走る方向から次の配置まで予測しているのなら、銀城がまだ存在しないスペースへパスを送れることにも説明がつく。
もちろん、誠凛はまだ《天瞰眼》という名前を知らない。
銀城が特殊な眼を持っていることさえ確定したわけではなく、予選で見せたプレーから可能性を推測しているにすぎない。それでも《イーグルアイ》を持つ伊月が違和感を覚えたことで、銀城の視野は誠凛が対策すべき要素の一つになった。
さらに厄介なのは、それだけではなかった。
パスを警戒して受け手を消そうとすれば、銀城自身がドリブルで守備を破る。シュートもディフェンスも一年生として見るような水準ではなく、リコが確認できた範囲だけでも、パスしかできないPGとして守れば簡単に破られるだけの個人能力を持っていた。
むしろリコが気にしていたのは、それだけ自分でできるにもかかわらず、銀城が最初から一対一を優先していないことだった。自分で行くより味方を使った方が得点につながるなら迷わずパスを選び、守備が味方を警戒して自分を空ければ、今度は自ら守備を破る。
何ができるかではなく、何を選ぶかでプレーを決めている。
その説明を聞くうちに、火神の興味はパスよりも銀城自身の動きへ向いていった。
「一対一してるところ、もっとねえの?」
リコが持っている情報では、それほど多くなかった。正邦が予選を早い時間で決めていることに加え、銀城自身が必要以上に個人技を使わないためだった。
それでも僅かなプレーを確認した火神には、少し気になるものがあった。
日本とアメリカでバスケットそのものが別物になるわけではない。しかし、対人での間合いや身体の使い方、ストリートで身につくボールの置き方には、長く向こうでプレーした者だから感じ取れる癖が残ることがある。
「……やっぱ、ちょっと向こうっぽいな」
火神はそう言っただけで、それ以上うまく説明しようとはしなかった。
プレースタイルは自分とまるで違う。それでも銀城がアメリカでバスケットをしていたという情報を聞いたあとで見ると、相手と向き合った時の距離やドリブルの入り方に納得できる部分がある。
どこで、どんな相手とバスケットをしていたのか。
火神にとって銀城は、単なる正邦の新しいPGとは少し違う意味で気になる相手になり始めていた。
その時、それまで静かに話を聞いていた黒子が口を開いた。
「銀城君は、今日の試合を見ていました」
黒子は観客席にいた銀城へ途中から気づいていた。
最初は誠凛全体を見ていた銀城の視線が、黒子のパスを境に変わった。一度見つけただけではなく、その後も何度も位置を確認し、どの瞬間に自分が認識から外れるのかを確かめるように見ていた。
黒子自身、観客席から見ていた銀城がミスディレクションをどこまで理解したのかまでは分からない。実際にプレーしながら追うことと、外から観察することでは条件が違う。それでも、初見で違和感を持ったあとに自分を追い始めた選手は気になった。
リコもその話を聞き、銀城が持つかもしれない「眼」と黒子のミスディレクションの相性を考えた。
広い視野を持っているから黒子を捉えやすいのか。それとも全体を見ようとするからこそ、意識を逸らす黒子の動きに引っかかりやすいのか。今の情報だけでは答えを出せない。
それは実際にコートで確かめるしかなかった。
誠凛には火神と黒子がいる。
正邦には津川と銀城がいる。
昨年の結果だけで今年を測る意味は、もうなかった。
準決勝当日。
試合会場へ入った誠凛の選手たちは、アップを始める前にコート脇で正邦の選手たちと顔を合わせた。
昨年対戦した岩村と日向たちが挨拶を交わす一方で、一年生たちは互いに初めて近い距離から相手を見ることになった。
津川が真っ先に興味を示したのは火神だった。観客席から見た時と同じように楽しそうな顔で身体を眺め、「今日、君につくかもしれないからよろしく」と声をかける。初対面から妙に嬉しそうな津川を、火神は怪訝そうに見返していた。
その少し後ろでは、蓮も誠凛の選手たちを見ていた。
観客席から見た火神は近くで見るとさらに身体が大きく感じられ、肩や脚のつき方からも一年生離れした出力を持っていることが分かる。内側では、もう一人の蓮がすでに楽しそうに火神を眺めていた。
【やっぱいい身体してんな】
『見るところそこなんだ』
【バスケするんだから当たり前だろ】
『まあね』
表の蓮が探していたのは、もう一人だった。
水色の髪を見つけ、意識してその存在を捉える。前の試合で特徴を理解したため完全に外すことはなかったが、誠凛の選手たちの中へ混ざると、近くで見てもやはり不思議なほど存在感が薄かった。
その黒子も蓮を見ていた。
視線が合い、蓮が軽く会釈すると黒子も同じように頭を下げた。
「銀城蓮です」
「黒子テツヤです」
名前を知らなかった蓮は小さく頷き、先日の試合を見ていたことを伝えた。黒子から「知っています」と返されると少し驚いたが、途中から自分が黒子ばかり追っていたのなら、向こうに気づかれていても不思議ではない。
「今日、ちゃんと見失わないようにするよ」
「僕は、見失ってもらうためにプレーします」
黒子の返事に、蓮は楽しそうに笑った。
「じゃあ勝負だね」
静かなやり取りだったが、二人とも相手に興味を持っていることだけは分かった。
そこへ火神が近づいてくる。
目の前で見る銀城は、火神が事前に想像していた選手とは少し違った。強豪の正邦で一年からPGを任されるほどの選手なら、もっと自己主張の強いタイプかと思っていたが、話し方は柔らかく、立っているだけなら強烈な威圧感もない。
「お前、アメリカにいたんだって?」
「うん。火神も?」
「ああ」
蓮の表情にも僅かに興味が浮かんだ。
同じ一年生で、自分と同じようにアメリカから日本へ戻ってきた選手がいるとは知らなかった。観客席から火神を見た時には圧倒的な身体能力に目が向いていたが、経歴まで似ているとなれば少し印象が変わる。
「向こうでもずっとバスケしてた?」
「ああ。お前は?」
「僕も。ストリートでも結構やってたよ」
その言葉を聞いた火神が、蓮の立ち方を改めて見る。
「やっぱりな」
「何が?」
「ちょっと向こうでやってた奴っぽいと思った」
「まだ一緒にやってないのに?」
「今日やりゃ分かるだろ」
火神が笑う。
内側では、それまで黙っていたもう一人の蓮が同じように笑っていた。
【こいつ、分かってんじゃねえか】
『何が?』
【向こうでやってた感じだよ】
『僕のプレー見て言ってるんでしょ』
【同じ身体だろ】
『そういう時だけ一緒にするよね』
火神はまだ知らない。
目の前で穏やかに話している銀城も確かにアメリカでバスケットを覚えた選手だが、同じ経験からまるで違うものを吸収したもう一人が、その内側にいることを。
表の蓮がアメリカのコートで磨いたのは、十人の位置と空間を見て、味方を生かしながら試合そのものを動かすことだった。それに対して裏の蓮が磨いたのは、目の前の相手を抜き、接触を受けても身体とボールを支配し続ける技術である。
同じ場所で、同じ身体でバスケットをしてきたにもかかわらず、二人が持ち帰ったものはまるで違った。
「お前も自分で来いよ」
火神が言う。
蓮が首を傾げると、火神はパスだけではなく一対一でも勝負しろという意味だと続けた。
「必要なら行くよ。僕が行った方が勝てるなら」
その返答に火神が笑う。
「じゃあ、お前が行かなきゃならねえようにしてやるよ」
どうやって、と蓮が尋ねると、火神は迷わず答えた。
「お前のパス、全部止める」
蓮も思わず笑った。
「それは困るな」
【困るなら俺に代われ】
『僕が自分で行けばいいでしょ』
【それでも止められたら?】
『その時考えるよ』
【絶対代われよ】
『約束しない』
火神には聞こえないところで、もう一人の蓮はすでに試合へ出たがっていた。
やがて両校の選手はそれぞれアップへ戻り、試合開始の時間が近づいていく。昨年の試合を知る二、三年生には再戦の意味があり、今年入った一年生たちには初めてぶつかる相手への興味がある。その中でも火神と銀城には、日本の高校へ入る前にアメリカでバスケットをしていたという、他の一年生にはない共通点があった。
ただし、似ているのは経歴までだった。
火神がその違いをどこまで感じることになるのか。そして火神がまだ知らない銀城のもう一つの顔が、同じアメリカ帰りの相手を前に何を見せるのか。それは試合が始まってから分かることだった。
松元が正邦の選手たちをベンチ前へ集める。
先発はPG銀城、SG津川、SF坂本、PF大室、C岩村。ここまでの予選と同じく春日はベンチから入り、必要になればいつでもゲームへ加われる形を取った。
「去年勝ったことは忘れろ。向こうは去年と違う。こっちも去年とは違う。今日の正邦と、今日の誠凛で勝負するぞ」
選手たちの声が揃った。
反対側ではリコも最後の確認をしていた。正邦の古武術、津川の守備、銀城のパスと個人能力。それぞれへの注意を短く伝えたあと、黒子には銀城がどこまで自分を捉えられるのか最初から決めつけず、実際の反応を見てプレーするよう指示する。
そして最後に、火神だけは名指しされた。
「アメリカ帰り同士だからって、勝手に銀城君と一対一始めない!」
「何で俺だけなんだよ!」
「やりそうだからよ!」
日向にまで「絶対やる」と言われ、火神が文句を言い始める。その横で黒子は向かい側のコートへ視線を向けた。
銀城もこちらを見ていた。
正確には黒子一人だけではない。味方も相手も、審判もボールも含め、これから始まるコート全体を捉えようとしている。
黒子はその視線を見ながら、先ほど交わした言葉を思い出した。
これまで黒子が戦ってきた相手の多くは、まず黒子の存在に気づくところから始まった。しかし銀城はすでに黒子の存在を知り、その上で自分がなぜ認識から外れるのかを探ろうとしている。
それでも実際にコートへ立てば条件は変わる。
黒子も、見つけられたままで終わるつもりはなかった。
両校の選手がコートへ入ると、センターサークルでは岩村と火神が向かい合い、その外側へ八人が散っていった。津川はすでに火神へ視線を向け、伊月は自分と同じPGの位置へ入った銀城を警戒するように見ている。
その視線を受けながら、蓮は誠凛の五人と味方四人をまとめて《天瞰眼》の中へ収めた。
十人の位置が、一つのコートの上で繋がっていく。
『黒子、ちゃんといる』
【そいつより赤いの見ろよ】
『僕はPGなんだから全員見るの』
【早く始めろって】
内側から聞こえる声には、もう退屈そうな響きがなかった。
同じ一年生で、同じアメリカ帰り。それでも火神と銀城が身につけたバスケットはまるで違う。そして伊月が感じ取った銀城の「眼」と、黒子が武器にする認識の外側も、この試合で初めて正面からぶつかることになる。
審判がセンターサークルへ入り、ボールを構えた。
昨年、正邦が勝った試合の続きではない。
火神と黒子を加えた今年の誠凛と、津川と銀城を加えた今年の正邦。その二校が、ここから初めてぶつかる。
ボールが宙へ放たれた。
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