四月。満開だった桜も少しずつ花を落とし始め、正邦高校へ続く道の端には薄桃色の花びらが積もっていた。
銀城蓮は真新しい制服のポケットへ片手を入れながら、校門の前で一度だけ足を止めた。今日から三年間通うことになる校舎を見上げてみても、特別な感慨が湧いてくるわけではない。日本の高校へ通うのは初めてなのだから、懐かしさを感じるはずもなかった。
【ここが正邦か。思ってたより普通だな】
『高校に何を期待してたの』
【もっとこう……強そうな感じだよ】
『建物見て強いかどうか分かったらすごいね』
【朝からうるせえな】
『話しかけてきたの君だろ』
いつも通りのやり取りを交わしながら校門を抜ける。入学式を終えて教室へ入る頃には、蓮の意識から学校そのものへの興味はほとんど消えていた。
担任による説明が終わると、教室の空気は一気に緩んだ。まだ互いの名前すらまともに知らない新入生たちが、近くの席に座った者同士で探るように話し始める。銀色がかった髪に加えて帰国子女という肩書きまである蓮は目立ったらしく、気づけば何人かの男子生徒が机の周りへ集まっていた。
「銀城ってアメリカにいたんだろ? どの辺?」
「何ヶ所か住んだけど、一番長かったのはロサンゼルスかな」
「英語ペラペラ?」
「生活してたから、一応」
「すげえな。じゃあ向こうの学校にも行ってたんだ?」
「うん。日本の学校より向こうの方が長いよ」
質問には普通に答えているものの、蓮自身から積極的に話題を広げることはなかった。それでも無愛想というほどではなく、聞かれれば答えるし、冗談を振られれば笑う。その程度の距離感がちょうどよかった。
【いつまでこいつらの相手すんだよ】
『別にいいだろ。クラスメイトなんだから』
【バスケの話しろよ】
『僕に言わないで、みんなに言えば?』
【俺の声は聞こえねえだろ】
『じゃあ我慢して』
蓮が頭の中で笑っていると、机の前にいた男子生徒が「そういや」と話題を変えた。
「銀城、部活は?」
「バスケ部に入るつもり」
「マジか。経験者?」
「うん。アメリカでもやってたよ」
その答えを聞いた途端、周囲の反応が少し変わった。正邦高校のバスケットボール部が強豪であることは、新入生でも知っている者が多いらしい。
「正邦でバスケやるなら結構ガチじゃん。東京三大王者だろ?」
「そうらしいね」
「そうらしいって、お前知らないで入ったの?」
「知らないわけじゃないよ。高校決める時に調べたから」
東京三大王者の一角、北の王者・正邦高校。毎年のようにインターハイ予選を勝ち上がる強豪で、独特の身体操作を取り入れた守備を武器にしている。進学先を決める際に調べたため、その程度の知識は蓮にもあった。
ただ、所属している選手の名前まで一人ずつ覚えようとは思わなかった。実際に同じコートへ立てば、どんな選手なのかは分かる。蓮にとっては、その方がずっと確かだった。
【で、強い奴いるのか?】
『いるんじゃない? 強豪なんだから』
【適当だな】
『今日行くんだから、その時見ればいいだろ』
【それもそうか】
珍しく素直に納得した声を聞きながら、蓮は窓の外へ目を向けた。校舎の向こうに体育館の屋根が見えている。
放課後まで、あと数時間だった。
授業がすべて終わると、蓮は教室に残っていたクラスメイトへ軽く手を上げ、そのまま体育館へ向かった。
近づくにつれて、閉じた扉の向こうからボールが床を叩く音が聞こえてくる。それまで静かだった頭の中で、もう一人の意識が露骨にこちらへ向いたのが分かった。
【やっとか】
『朝からずっと待ってたもんね』
【学校なんかどうでもいいからな】
『それはどうかと思うけど』
【三年間も毎日座って話聞くとか正気じゃねえだろ。それより早く入れよ】
急かされるまでもなく、蓮も扉へ手を掛けた。
体育館の中では、既に何人もの選手が練習していた。一定のリズムで続くドリブルの音に、シューズがフロアを擦る甲高い音が重なる。奥のコートでは五対五らしき練習も行われており、蓮は入口の脇へ移動して邪魔にならない場所からその様子を眺めた。
最初に目についたのは、ゴール下にいる身体の厚い選手だった。高校生として極端に長身というわけではないが、接触を受けても軸がほとんど揺れず、リバウンドを奪うと周囲へ短い声を飛ばしている。別の場所では、やや小柄な選手がボールを運びながら味方へ指示を出していた。
個人だけを見ても上手い。しかし蓮が興味を持ったのは、それよりもチーム全体の動きだった。
『……ちょっと変わってるね』
【ああ。普通の走り方じゃねえ】
同じことを感じたらしい。
正邦の上級生たちは、走る時も守る時も余計な上下動が少なかった。重心の移動にも独特の癖があり、一歩目から身体が滑るように前へ出る。何をしているのかまでは分からないが、単純な身体能力だけで生まれている動きではなさそうだった。
【おもしれえじゃん】
『うん。思ってたよりね』
もう少し見ていたかったが、一人の部員がこちらに気づいた。練習から外れていた上級生らしい男が歩み寄ってくる。
「一年?」
「はい。入部希望で来ました」
「経験はあるか?」
「あります。ポジションはPGです」
蓮が答えると、男は軽く頷いてからコートの奥を確認した。
「今日は一年も練習に入れるって監督が言ってたから、着替え持ってるなら参加できるぞ」
「持ってきてます」
「なら更衣室教えるから、ちょっと待ってろ」
「ありがとうございます」
男が離れていく。その背中を見送っていると、少し離れた場所から「なあ」と声を掛けられた。
振り向いた先にいたのは、蓮と同じ新入生だった。まだユニフォームではなく制服姿で、表情には妙に人懐っこい笑みが浮かんでいる。
「お前も一年だよね?」
「うん」
「俺、津川智紀。俺もバスケ部入るんだ」
「銀城蓮。よろしく」
差し出された手を軽く握る。津川はそのまま蓮を眺め、身長を測るように視線を上げた。
「でかいね。何センチ?」
「185」
「いいなあ。ポジションどこ?」
「PG。津川は?」
「SG。点取るのも嫌いじゃないけど、守る方が好きかな」
「へえ」
「相手がさ、全然抜けなくてだんだんイライラしてくるの見るの、おもしろいんだよね」
あまりにも楽しそうに言うものだから、蓮は返事に困った。
【こいつ、性格悪そうだな】
『君がそれ言うの?』
【俺は別に性格悪くねえだろ】
『自覚なかったんだ……』
【おい】
思わず口元が緩んだ蓮を見て、津川が首を傾げる。
「何笑ってんの?」
「いや、何でもないよ」
「変なの」
初対面の相手へ遠慮する様子もなく、津川は笑った。
そこへ先ほどの上級生が戻ってきて、二人まとめて更衣室へ案内された。
練習着へ着替えて体育館へ戻ると、一年生の入部希望者がコート脇へ集められていた。蓮と津川もその列へ加わると、先ほどゴール下で目についた大柄な選手が前へ出る。
「三年の岩村努だ。バスケ部の主将をやってる」
近くで見ると、やはり身体の厚みが目立った。声も低く、ただ立っているだけで一年生たちの私語が自然と消える。
「経験者も未経験者もいるだろうが、今日は細かいことまで教えるつもりはねえ。まずは上級生と同じメニューをできるところまでやってもらう。正邦のバスケがどういうもんかは、その中で見て覚えろ」
一年生たちの返事を聞いてから、岩村が隣へ視線を向ける。そこには体育館へ入った時、ボールを運びながら指示を出していた選手が立っていた。
「春日隆平。俺も三年だ。ポジションはPG」
PGという言葉に、蓮の視線が自然と春日へ向かった。それに気づいたのか、春日も蓮を見る。
「お前、さっき入部希望で来てた一年だよな。ポジションは?」
「僕もPGです」
「名前は?」
「銀城蓮です」
「銀城か」
春日は少しだけ蓮を眺めたが、そこに敵意らしいものはなかった。むしろ新しい玩具を見つけたように口元を緩めると、近くに転がっていたボールを片手で拾った。
「じゃあ後で一緒にやろうぜ。PGなら、実際にコート入った方が分かりやすいだろ」
「はい。お願いします」
【こいつが今のPGか】
『みたいだね』
【なら奪えばいい】
『何を?』
【決まってんだろ。スタメン】
蓮は頭の中でため息をついた。まだ練習すら始めていないのに、もう一人は随分と気が早い。
『別に今日決めることじゃないだろ』
【勝負なんだから上手い方が出りゃいい】
『そういう問題じゃなくて――』
「銀城、始めるぞ」
岩村の声に意識を戻し、蓮は短く返事をして列へ加わった。
ランニングから始まり、ストレッチ、フットワーク、ボールを使った基礎練習へ移る。メニューそのものに奇抜なものはなかったが、上級生たちの動きを近くで見るようになると、入口から眺めていた時に感じた違和感はさらに強くなった。
走る時に身体がほとんど上下しない。切り返しても軸が崩れず、守備では相手との距離を詰める一歩が妙に速い。単純な脚力だけなら、アメリカでもっと優れた選手を何人も見てきた。それでも正邦の動きには、身体能力だけでは説明できないものがあった。
【やっぱ変だな。力の入れ方か?】
『たぶん。重心の動かし方も普通と違う』
【真似できそうか?】
『今見ただけじゃ無理だよ。それに、別に真似しなくてもいいだろ』
【使えんなら使った方がいいだろ】
『僕らには僕らのやり方があるよ』
考え方は違っても、二人とも上級生の動きを注意深く見ていることだけは同じだった。
やがて基礎練習が一区切りつき、上級生たちがゲーム形式の練習へ移る。一年生は一度コート脇へ集められたが、その中で春日が蓮の名前を呼んだ。
「銀城。お前、こっち入れ」
予想していなかったわけではない。それでも初日から上級生の中へ放り込まれるとは思わず、蓮は僅かに眉を上げた。
「僕ですか?」
「PGなんだろ? 基礎練習だけじゃ何ができるか分かんねえよ」
春日はそう言って、手にしていたボールを蓮へ投げた。
胸元へ飛んできたボールを両手で受ける。視線を上げると、既にコートの中では上級生たちが位置につき始めていた。
【いいじゃねえか。やろうぜ】
待ちきれない様子の声が頭の奥で響く。
蓮はボールを右手へ移し、ゆっくりとフロアへ落とした。乾いた音とともに跳ね返ってきたボールが、掌へ馴染む。
コートへ足を踏み入れながら周囲を見ると、選手たちの位置だけでなく、身体の向きや視線、次に使おうとしている空間までが少しずつ頭の中で繋がり始めた。初めて一緒にプレーする相手ばかりなのに、不思議と戸惑いはない。
『うん。やろうか』
春日が、岩村が、そしてコート脇に残った津川が銀城蓮を見る。
正邦高校での最初の一本が、始まろうとしていた。