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タイムアウトを告げる笛が鳴っても、火神は座らなかった。71-43。第3Q開始から3分19秒、誠凛は一点も奪えていない。ベンチへ戻ってきた伊月たちの表情を見れば、数字以上に何が起きているかは分かる。銀城一人に攻撃の起点を潰され、その銀城を止めようと人数を割けば、今度は空いた正邦の選手に決められる。前半とはまるで違う方法で、試合そのものを握られていた。
「監督、出してくれ」
「4つよ」
「分かってる」
「次やったら終わり。銀城君がそれを狙ってくる可能性だってある」
「それでもだ。このまま座ってたら、俺が退場するより先に試合が終わる」
リコはすぐには答えなかった。間違ってはいない。火神を残すためにベンチへ置いているのに、その間に12点差が28点差まで広がった。しかも誠凛は第3Qに入ってからシュートを一本も決められていないどころか、まともに打たせてもらえてすらいない。
「……黒子君。あなたも行ける?」
「行けます」
黒子は即答した。リコはコートの反対側を見る。正邦ベンチでは銀城が座りもせず、タオルを肩へ掛けたままこちらを見ている。その視線が誰へ向いているのかは、考えるまでもなかった。
「火神君。絶対にファウルしないで。ブロックに行く時も、ドライブを止める時も、無理だと思ったら捨てなさい。5つ目を取られたら本当に終わるわ」
「分かった」
「本当に分かってる?」
「分かってるって!」
いつもの火神なら、そのまま勢いで言い返していたかもしれない。だが今は違った。返事をした後、もう一度コートの向こうを見ると、銀城と目が合った。蓮が笑う。
「……あいつ、絶対俺待ってやがった」
「おそらく、そうだと思います」
「分かんのか?」
「第3Qが始まってから、何度もこちらを見ています。それに今の銀城君は、前半までとは明らかに違います」
「んなもん見りゃ分かる」
「はい。だから問題です。僕たちは、今の銀城君が何をできるのかほとんど知りません」
火神は一瞬黙り、それから口元を上げた。
「だったら、やりゃ分かるだろ」
リコが小さく息を吐く。
「……行ってきなさい」
「おう!」
火神が立ち上がり、黒子もその横へ並んだ。
正邦ベンチでは、松元が誠凛の動きを見ていた。
「来るぞ。火神だ。黒子も来る」
春日が誠凛ベンチへ視線を向ける。その横で蓮は何も言わなかった。必要がなかった。さっきまでより明らかに機嫌がいい。
「銀城」
「あ?」
「目的は達成したみたいだな」
「まだだろ」
「何?」
「あいつをコートに出すことが目的じゃねえよ」
蓮はタオルをベンチへ投げ、立ち上がった。
「出てきたあいつを潰すために、引きずり出したんだ」
松元が僅かに目を細め、その横で春日が苦笑する。
「ほんと、分かりやすいな」
「うるせえ」
コートへ向かおうとした蓮へ、岩村が声をかけた。
「銀城。火神は4つだ」
「知ってる」
「なら――」
「狙わねえよ」
岩村の言葉が止まる。蓮は振り返らないまま続けた。
「ファウルアウトさせて何が面白えんだよ」
そのままコートへ歩いていく。
『やっぱりそうなんだ』
【何が】
『火神君の5つ目。勝つだけなら、狙った方が楽じゃない?』
蓮の足が一瞬だけ止まった。
【だから何だよ】
『え?』
【あいつが立ってんだろ】
視線の先で、火神がコートへ入ってくる。
【だったら正面から潰す】
表の蓮は何も返さなかった。ただ少しだけ笑った。
タイムアウトが明け、誠凛は火神と黒子を戻した。正邦は変えない。春日、津川、坂本、蓮、岩村。スコアは71-43、第3Q残り6分41秒。火神がコートへ入った瞬間、真っ先に蓮を見る。蓮も見ていた。
「遅えよ」
「……てめえ。好き勝手やりやがって」
「お前が座ってるからだろ」
「何?」
「つまんねえんだよ」
蓮の笑みが深くなる。
「早く来いよ。相手してやる」
「……上等だ!」
伊月が慌てて火神の肩を叩く。
「挑発乗んな! お前4つなんだからな!」
「分かってる!」
答えながらも、火神の目は蓮から離れない。笛が鳴り、誠凛ボールで試合が再開した。
伊月が運び、黒子がすぐに動き出す。坂本の視界から消れ、火神が右から中へ切り込む。銀城が今の状態になってから初めて使う、黒子を絡めた誠凛本来の攻撃だった。伊月から入ったボールを黒子は持たず、触れた瞬間に方向を変える。《加速するパス》が一気に火神へ飛んだ。
「火神!」
「おおっ!」
火神が受け、そのままリングへ一直線に踏み切る。岩村が寄るより早い。だが、一歩以上後ろにいたはずの蓮が踏み切りの瞬間には横へ並んでいた。
「なっ!?」
二人が同時に跳ぶ。火神の高さが一気に上がり、蓮の目が細くなった。ここまで誠凛の誰にもなかった高さ。それでも蓮の手は、振り上げられた右手のボールへ届く。
「うおおおっ!」
火神は空中で気づいた。そのままでは叩かれる。身体を捻り、右手のボールを左へ逃がしてリングの反対側へ腕を伸ばす。蓮の右手が空を切り、ボールがバックボードへ向かった。
かわした。火神がそう確信した直後、蓮の身体が空中で動いた。右手を振り切られた状態から肩が回り、身体の軸が組み直される。振り切られた右腕ではなく、反対の左腕がリングの裏側へ伸び、その指先がボールへ触れた。
「なっ――!」
軌道を変えられたボールがリングの外へ落ち、岩村が掴む。誠凛はまた無得点。着地した火神はすぐに戻れず、自分の手を見た。最初のブロックはかわした。空中で持ち替え、完全に銀城の手を外したはずだった。それなのに、もう一度来た。
「……ははっ。」
蓮も着地し、初めて少し楽しそうに火神を見る。
「お前はやっぱこっち側か」
「……あ?」
「まぁまだまだ弱ぇけどな」
火神のこめかみに青筋が浮かぶ。
「ナメんな!」
「だったら止めてみろよ」
春日がボールを受け取り、正邦が攻撃へ移る。蓮はもう前を向いていたが、火神が追いついてその正面へ入り、腰を落として両腕を広げた。
「今度は俺が止める」
蓮は一度だけ火神の足元を見て、笑った。
「そうこなくちゃな」
春日からボールが入る。蓮が受けた瞬間、火神の全身に緊張が走った。一歩目に火神が反応する。土田とは違う。蓮が左へ切れば火神もついてくる。急停止にも遅れず、そこからの再加速にも横へ跳んで正面へ戻った。
誠凛ベンチでリコが目を見開く。
「ついてる……!」
ここまで一歩目だけで置き去りにされていた銀城に、火神がついている。蓮の口元が上がった。
「いいじゃん」
「ナメんなよ……!」
火神はさらに距離を詰める。
「俺が止める!」
「やってみろ」
次の瞬間、ドリブルが低く落ちた。蓮が右へ振り、すぐ左へ切り返す。火神はどちらにも反応する。さらに蓮の身体が沈み、三度目の切り返しが来ても離れない。
「おおおっ!」
火神が再び正面へ戻った瞬間、蓮はかわすのではなく真正面から踏み込んだ。肩が触れ、火神も押し負けまいと身体をぶつけ返す。接触したまま一歩。火神がさらに押し返そうとした、その瞬間だけ蓮の身体から抵抗が消えた。
「っ!?」
力を受け止めるつもりだった火神の重心が前へ流れる。その横を蓮が抜けた。
「待て!」
火神はすぐ振り返った。速い。それでも追う。蓮がリングへ踏み切れば、火神も後ろから跳ぶ。
「行かせるかああっ!」
伸ばした右手が届く。蓮もそれを見ていた。空中で身体を傾けて火神の手を外すが、火神もさらに腕を伸ばして追う。それでも蓮の身体は崩れない。リングへ背を向けるほど身体を捻り、右手から左手へボールを移すと、そのままバックボードの高い位置へ放った。
火神の指先が数センチ届かない。ボールがネットへ落ちた。
73-43。
二人が着地する。火神は追いついた。最初の一歩にも、切り返しにも、接触にも、最後の跳躍にも。今まで銀城と向き合った誠凛の誰より、確実についていった。
それでも止められなかった。
「……クソが」
火神が歯を食いしばる。蓮はそんな火神を見て、さっきまでとは違う笑みを浮かべた。
「いいな、お前」
その声から、退屈そうな響きが消えていた。
「やっと力入れて相手するやつがきたわ」
その言葉に火神の眉が跳ねた。30点差をつけている人間の台詞ではない。だが言い返している暇はなかった。誠凛ボールで試合が再開すると、伊月がすぐに黒子を探し、火神も前へ走る。黒子が坂本の視界から消れ、伊月から受けたボールを一瞬で火神へ送った。
火神は止まらなかった。蓮が追ってくることは分かっている。それでも速度を落とさずリングへ入り、踏み切る直前に一度だけ後ろを見る。銀城はいる。なら、さっきと同じように空中でかわす。
「おおっ!」
火神が跳んだ。蓮も一拍遅れて床を蹴る。右から伸びてきた手を見て、火神は空中でボールを左へ移した。さっきはそこからさらに追いつかれた。だから今度はすぐに打たない。左へ逃がしたボールをもう一度右へ戻し、蓮の身体が反応した逆側からリングへ押し込んだ。
ネットが揺れる。
73-45。
「よし!」
誠凛ベンチから声が上がった。第3Qに入ってから初めての得点。それも、銀城を相手に火神が真正面から奪った一点だった。
「行けるぞ、火神!」
小金井の声に、火神は拳を握る。さっきは止められた。だが今度は決めた。速さにもついていける。空中でも対応できる。前半までとは別人のように変わった銀城を相手にしても、自分なら戦える。
そんな火神を見ながら、蓮は小さく笑っていた。
『嬉しそうだね』
【そりゃな】
『火神君、今の決めたよ』
【だからいいんだろ】
春日からボールを受け取るために前へ出ながら、蓮の視線が火神へ向く。
【これぐらいやってくれねえと、力入れる意味ねえじゃん】
火神が正面へ入った。さっき一度抜かれたことで、今度は距離を僅かに広く取っている。初速に反応できるだけの間合いを残しながら、シュートには出られる位置。蓮が右手でボールを突き、火神は腰を落とした。
「来いよ」
「あ?」
「次は止める」
蓮の笑みが深くなる。
「じゃあ、ちょっと上げるわ」
火神が眉を寄せた。
「何を――」
言い切る前に、蓮が消えた。
「っ!?」
反応できなかったわけではない。右へ出たのは見えた。火神の身体も動いた。だが次の瞬間には、蓮の肩が自分の横を通り過ぎている。
速い。
さっきまでと違う。
火神は強引に床を蹴って振り返った。置き去りにはされない。二歩目、三歩目で距離を詰め、リングへ向かう蓮の背中を追う。蓮が踏み切った瞬間、火神も跳んだ。
「まだだあっ!」
高さなら負けない。後ろから伸ばした手がボールへ迫る。
蓮が空中で振り返った。
「おせえよ」
身体が傾いた。火神の腕を避けるためだけの動きではない。上半身を倒しながら下半身を逆へ流し、空中で身体の向きそのものを変える。リングから離れていくように見えた姿勢のまま右腕だけが伸び、ボールがバックボードへ放たれた。
火神の手は届かない。
75-45。
「……っ」
着地した火神が振り返る。その横を蓮は何事もなかったように守備へ戻っていった。
誠凛の攻撃。黒子が入ったことでボールの流れは明らかに変わっていた。伊月から日向へ渡り、黒子が視界の外から走り込む。日向が一瞬だけそちらを見たことで正邦の守備が揺れ、火神が空いた中央へ飛び込んだ。
「火神!」
パスが入る。
今度は蓮が正面にいた。
「どけえっ!」
火神は止まらない。正面から踏み込み、身体をぶつける。銀城の《身体操作》がどれだけ異常でも、身体そのものの強さなら押せる。そう考えて肩を入れた。
だが、手応えがない。
「なっ――」
蓮は衝突の瞬間だけ身体の軸を僅かにずらしていた。火神の力を真正面から受けず、流しながら横へ回る。火神がボールを守ろうとした時には、蓮の手が下から伸びていた。
乾いた音が鳴る。
ボールが消えた。
「っ!?」
「力入りすぎ」
蓮が奪ったボールをそのまま前へ運ぶ。火神もすぐに追ったが、春日と津川が既に走っていた。伊月が春日へ寄り、日向が津川を見る。蓮には土田が戻る。
蓮は止まらない。
「銀城!」
土田が正面へ入った瞬間、一歩で抜いた。火神が後ろから追いつき、リング手前で再び蓮へ迫る。
「させるか!」
火神が横へ並ぶ。蓮は火神を一度見ただけで、そのまま身体をぶつけた。
「っ!」
今度は流さない。
真正面から押した。
火神の身体が僅かに外へ弾かれる。
「な――」
驚いた一瞬で蓮が前へ出る。火神はすぐに追おうとしたが、足が半歩遅れた。その半歩を蓮は返さない。リングへ入り、そのまま片手で叩き込んだ。
77-45。
着地した火神が息を吐く。
「……なんなんだよ、こいつ」
同じ接触なのに、さっきとは違う。受け流したと思えば、次は真正面から押してくる。速さだけでもない。力だけでもない。動くたびに、身体の使い方そのものが変わっている。
黒子もそれを見ていた。
「火神君」
「あ?」
「銀城君の動き……先ほどより速くなっています」
「分かってる」
「それだけではありません。接触した時の姿勢も、跳んだ後の身体の動きも、毎回違います」
「……ああ」
火神が蓮を見る。
「でも、見えねえわけじゃねえ」
黒子が僅かに目を見開いた。
「追える。だったら、まだやれる」
誠凛ボール。火神は自分からボールを要求した。
「伊月さん!」
受けた瞬間、蓮が前へ出る。今度は火神が仕掛けた。右へ強く踏み込み、蓮が反応した瞬間に左へ切り返す。蓮の身体が右へ流れた。
抜いた。
「行ける!」
火神が一気に加速する。
その横に、蓮がいた。
「――は?」
一度振られたはずだった。重心も右へ動いていた。それなのに次の一歩で軸を戻し、もう火神の進路へ身体を入れている。
火神は止まれない。接触する。
蓮が耐えた。
火神が押す。
動かない。
「くっ……!」
「どうした?」
蓮が火神の目を見る。
「抜いたんじゃねえの?」
「っ……!」
火神が強引に身体を回す。ボールを守りながら反対側へ出ようとした瞬間、蓮の手が伸びた。ボールだけを正確に叩き落とす。
また奪われた。
蓮が拾う。
「クソッ!」
火神が追う。今度は最初から全力だった。蓮の一歩目に食らいつき、二歩目にも離されない。三歩目で僅かに差が開く。それでも火神は床を蹴り、もう一度詰める。
速い。
高い。
強い。
火神の身体能力は間違いなく、このコートにいる他の選手とは違った。
だからこそ、蓮も止まらない。
「ははっ!」
楽しそうな声が漏れた。
火神が追いつくたび、蓮はもう一段だけ動きを変える。急停止から逆へ切れば火神も戻る。ならば次は止まらず身体だけを傾ける。火神がそれにも反応すれば、接触して軸をずらす。火神が力で耐えれば、その力を利用して逆へ抜ける。
何度食らいついても、その先がある。
「おおおおっ!」
最後まで追った火神が跳ぶ。蓮も跳ぶ。リング前で二人の身体が並び、火神の手が今度こそボールへ届いた。
指先が触れる。
「取った!」
火神が叫ぶ。
その瞬間、蓮の手首が返った。
触れられたボールを空中で一度引き、火神の腕の下へ通す。身体を捻りながら逆手へ持ち替え、そのままリングへ放った。
ボールがネットへ落ちる。
79-45。
火神の顔から笑みが消えた。
ついていけている。
見えている。
触れるところまで来ている。
なのに、一度も止められない。
第3Q残り4分を切ったところで、誠凛はようやく日向の外角で追加点を奪った。79-48。それでも流れは変わらない。次の正邦の攻撃では蓮が火神を引きつけて春日へ出し、春日から岩村へ繋がって81-48。誠凛が黒子を使って火神へ通せば、今度は蓮が後ろから追いついてシュートを叩き落とす。
火神が戻ってから、誠凛は点を取れるようになった。
それでも点差は縮まらない。
むしろ広がっていく。
「なんでだよ……!」
火神の息が荒くなる。ベンチに座っていた時間がある分、体力は残っている。それでも銀城を追うたびに脚へ負荷が溜まる。全力で走り、全力で跳び、全力でぶつかって、ようやく追いつける。
その銀城は、まだ笑っていた。
『楽しそう』
【楽しいよ】
『結構動いてるけど、大丈夫?』
【あ? こんなんで?】
蓮は呼吸を整えることすらせず、火神の方を見る。
【まだ八割ぐらいだぞ】
表の蓮が少しだけ黙った。
『……火神君相手でも?』
【だから八割まで上げてんだろ】
蓮の口元が吊り上がる。
【こいつは、こっち側のやつだからな】
火神には聞こえない。
誠凛にも、正邦にも聞こえない。
ただ一人、火神だけが目の前の銀城を睨みながら感じ始めていた。
おかしい。
自分は全力でやっている。
なのに、この男からは――まだ、底が見えない。