自分は全力でやっている。それなのに、この男からはまだ底が見えない。
火神がそう感じたのは、銀城の息がほとんど乱れていなかったからだけではない。追いつけば、その先を見せられる。速さに対応すれば切り返しが変わり、切り返しについていけば接触の使い方が変わる。空中まで追えば、今度は空中で体幹をずらしてくる。何より腹が立つのは、銀城がそれを楽しんでいることだった。
「火神君」
黒子の声で、火神が視線を動かす。
「一人で行かないでください」
「……分かってる」
「本当ですか?」
「分かってるっつってんだろ!」
声を荒げてから、火神は一度息を吐いた。熱くなっている自覚はある。銀城を止めたい。抜きたい。一本返したい。その気持ちが強くなるほど、目の前の相手しか見えなくなっていた。
「悪ぃ。けど、どうすんだよ。あいつ」
黒子はすぐには答えず、守備へ戻っていく蓮を見た。
「一人で止める必要はありません。銀城君は強いです。ですが、バスケットボールは一対一ではありません」
「……それ、あいつ自身が一番分かってんじゃねえか?」
「はい。だから厄介です」
正邦の攻撃が始まる。春日がボールを運び、蓮は左サイドへ開いた。火神も迷わずついていくが、今度は一人ではない。伊月が少し内側へ寄り、水戸部もリング下から一歩前へ出る。完全な三人がかりではない。それでも銀城が動けば、すぐに二人目、三人目が進路を塞げる位置だった。
春日から蓮へボールが入る。
「来いよ。今度は一人じゃねえぞ」
火神が腰を落とす。蓮は周囲を一度だけ見た。伊月が右、水戸部が奥。黒子も視界から消えようとしている。火神を抜いても、その先にはまだ守備がある。
「ふーん。だから?」
蓮が踏み込んだ。
火神はその初速に反応した。さっきまで何度も食らった一歩目にも、今度は最初から遅れない。右を塞ぎ、蓮が左へ切り返したところへ伊月が寄る。さらにその奥から水戸部が前へ出て、三人で蓮の進路を消した。
「今度こそ止める!」
「別にいいけど」
次の瞬間、蓮の右手からボールが消えた。
黒子が振り返る。逆サイドでは完全に空いた津川が既にボールを受けており、日向が慌てて戻るより先にシュートを放った。ボールはリングを通り、得点板が83-48へ変わる。
「てめえ……!」
「あ?」
「勝負しろよ! パス出したじゃねえか!」
「津川が空いてたからな」
「三人でも抜けただろ!」
「ああ」
即答だった。火神がさらに何か言おうとしたが、蓮はその前に首を傾ける。
「津川に出した方が早えだろ」
それだけ言って守備へ戻っていく蓮を、火神は何も返せず睨んでいた。
黒子もまた、その背中を見ていた。
今の銀城なら、おそらく三人でも行けた。少なくとも本人はそう思っている。第3Qが始まってから実際に複数人を突破している以上、それが強がりではないことも分かる。
それでもパスを出した。
勝つために、その方が早かったから。
誠凛の攻撃に移る。伊月から日向へ渡り、黒子が正邦の視線から消えながら走る。火神も動き出し、日向から入ったボールを黒子が振り向かないまま背後へ弾いた。
「おおっ!」
受けた火神の正面には蓮がいる。火神は右へ大きく振り、蓮が反応した瞬間に左へ切り返すと、さらに身体をぶつけるように前へ出た。蓮の足が僅かに遅れる。
「行ける!」
火神が抜けた。リングまで二歩、そのまま踏み切る。だが直後に背後から蓮の手が伸び、ボールを叩いた。
「っ!?」
火神は空中で強引に抱え込み、そのまま身体を捻ってリングへ向ける。しかし蓮はもう反対側へ回り込んでいる。右を塞がれた火神が左へ持ち替えれば、蓮もそこへ来る。最後はリングへ背を向けたまま強引に放ったが、ボールはバックボードからリングの縁を回って外れた。
「リバウンド!」
水戸部が飛び込むより早く岩村が身体を入れ、ボールを掴む。
「今のでもダメかよ……!」
火神が歯を食いしばった時には、蓮はもう前へ走っていた。岩村から春日、春日から蓮へ繋がり、黒子が進路へ入ろうとする。だが蓮は黒子を一度見ただけで横を走る坂本へ預け、黒子の意識がそちらへ向いた瞬間にリターンを受けた。
火神が追いつく。
「させるか!」
リングへ踏み込んだ蓮に火神が並び、その奥から水戸部まで出る。二人が同時に伸びた瞬間、蓮はシュートへ行かず、リング下へボールを落とした。
「ナイス!」
受けた岩村がそのまま叩き込み、85-48。
「またかよ……!」
「二人来てんのに打つ必要ねえだろ」
蓮はそれだけ言って戻っていく。
黒子は、その背中から目を離せなかった。
銀城蓮という選手がどこまで強いのか。それなら既に嫌というほど見せられている。火神はついていけている。今まで銀城と向き合った誰よりも、その速さを捉え、跳躍についていき、身体をぶつけるところまで届いている。それでも止められない。
けれど、黒子の胸を締めつけ始めたものは、その強さそのものではなかった。
銀城は、パスを出す。
当たり前のことのはずだった。バスケットボールは五人でやるスポーツなのだから、味方が空いていればパスを出す。それは黒子自身が何より大切にしてきたことであり、かつて同じコートに立った彼らにも、もう一度思い出してほしいと願っていることだった。
帝光中学で、黒子はあまりにも大きくなった才能を見てきた。一人で決められる。一人で止められる。一人で試合を変えられる。強くなればなるほど仲間へ頼る必要がなくなり、いつしか五人で戦うはずのバスケットボールが、それぞれの力を競うものへ変わっていった。
黒子は、それが嫌だった。
だから誠凛へ来た。仲間を信じ、五人で戦い、チームで勝つ。そのバスケットボールで彼らと戦い、いつかもう一度、バスケットボールをチームで楽しんでほしいと思っていた。
その願いを、目の前の敵が既に体現している。
「……そんな」
僅かな声が漏れた。
「黒子?」
伊月が振り返ったが、黒子は小さく首を振った。
「いえ……何でもありません」
何でもないはずがなかった。
銀城を一人で守れば、銀城自身が決める。火神でさえ一人では止められない。二人で守れば一人が空き、三人で守れば二人が空く。そして銀城は、その空いた味方へ何の躊躇いもなくボールを渡す。
圧倒的な個の力を持ちながら、仲間にパスを出す。
それは黒子が、かつての仲間たちに取り戻してほしいと願っているバスケットボールそのものだった。
もし、《キセキの世代》ほどの個人能力を持つ選手が、最初から仲間を信頼し、勝つために五人で戦うことが当然だと思っていたら。黒子は何度も想像したことがある。
けれど、それを敵として相手にした時、これほど恐ろしいものになるとは考えたことがなかった。
しかも銀城には、前半がある。
前半の銀城は《天瞰眼》でコート全体を捉え、味方自身がまだ気づいていない場所へすらボールを送り込んでいた。自分が点を取るよりも、五人の力を最大まで引き出すことを選ぶポイントガードだった。
今の銀城はまるで違う。火神を抜き、止め、複数人に囲まれても自分で抜ける。だが、自分で抜くことに固執しているわけでもない。味方が空けば渡し、その方が勝利へ近いなら、自分が決めることさえ簡単に捨てる。
黒子には二人の銀城が別人だとは分からない。だからこそ、余計に理解できなかった。個人で試合を支配できるほどの力と、五人で勝つことを躊躇わない思考。その両方を、一人の選手が持っているようにしか見えない。
それは、黒子が望んでいたはずの姿だった。なのに今、その理想が誠凛を追い詰めている。
「……どうすれば」
誰にも届かないほど小さな声だった。
人数をかければ味方を使われる。人数をかけなければ銀城自身に抜かれる。チームで対抗しようとしても、相手もまたチームで戦っている。そしてその中心にいる選手の個人能力は、火神ですら届かない領域にある。
答えが出なかった。
その間にも試合は進む。誠凛は諦めていない。日向が一本返し、伊月も水戸部との連係から得点を作る。黒子が入ったことで攻撃そのものは第3Q序盤とは比べものにならないほど動いていた。
それでも正邦が止まらない。火神が蓮へつけば春日がゲームを動かし、黒子が蓮へ意識を向ければ坂本や津川がその空間を使う。守備を広げれば蓮が自分で来る。縮めれば、空いた場所へボールが飛ぶ。
第3Q残り2分12秒、89-52。
点を取っている。第3Qの最初のように、一点も取れないわけではない。それなのに差は36点まで広がっていた。火神も戻り、黒子も戻った。むしろ今の誠凛は第3Q開始時より明らかに強い五人で戦っている。それでも足りない。
「火神君」
黒子が隣へ並ぶ。
「まだです」
「……分かってる」
「終わっていません」
「ああ」
火神が顔を上げる。視線の先には蓮がいた。
「まだやれるって顔してんな」
「当たり前だろ。何点離れてようが、終わってねえんだよ」
蓮が笑う。
「そういうとこは嫌いじゃねえよ」
「上から言ってんじゃねえ!」
誠凛の攻撃が始まった。伊月が運び、黒子が動く。火神は蓮を振り切るために一度外へ開き、黒子の動きと交差して一気に中へ切り込んだ。パスを受けた時には、蓮が半歩遅れている。
「今度こそ!」
火神はそのまま踏み切った。正邦の選手たちの視線まで引き上げるほどの跳躍から、ボールをさらに高く掲げる。蓮も追って跳んだが、火神は伸びてきた手を空中で身体を開いてかわし、さらにもう一度ボールを引いた。
蓮の手が空を切る。
「取った!」
今度こそ抜いた。そう思ってリングへ腕を伸ばした瞬間、火神の視界から蓮の姿が消えた。
「――え?」
下だった。一度上へ伸びた身体を空中で畳み、火神の腕の下へ潜るように姿勢を変えている。次の瞬間、下から伸びた手がボールを叩き、火神の手から弾き出した。
転がったボールを春日が拾う。
「走れ!」
正邦が一気に前へ出る。
火神は一瞬、その場から動けなかった。今のは考えていた。銀城が二度、三度と空中で対応してくることまで想定し、それでも届かない場所へ持っていったつもりだった。そのさらに先へ来られた。
春日から坂本へ渡り、最後は津川が決める。
91-52。
「……届かねえ」
火神の口から、初めてその言葉が漏れた。
黒子が振り返ると、火神は強く拳を握ったまま蓮を睨んでいた。
「見えてんのに……追えてんのに……なんで届かねえんだよ……!」
黒子は答えられなかった。自分も同じだった。銀城を見ている。考えている。誠凛の五人で戦おうとしている。それでも、どうすれば勝てるのかが見つからない。
第3Q残り1分を切っても、蓮はそんな二人を見ながらまだ笑っていた。
『二人とも、まだ諦めてないね』
【そりゃそうだろ】
『嬉しい?』
【まあな】
蓮は火神を見る。
【こっち側のやつが、こんぐらいで折れたらつまんねえだろ】
表の蓮が少しだけ黙る。
『……でも、かなり差がついたよ。このまま行けば、もう――』
【勝つよ】
迷いのない声だった。
【だから手ぇ抜かねえ】
その言葉と同時に蓮は守備へ戻る。
黒子はその背中を見ていた。
自分が望んできたものが、そこにある。圧倒的な才能を持っていても、一人で戦わないこと。仲間を信じ、仲間にパスを出し、五人で勝つこと。いつか彼らにも、もう一度そうなってほしいと願っている。
だからこそ分かった。
もし《キセキの世代》ほどの力を持つ選手が、本当にチームで戦ったなら、これほど恐ろしい。
火神一人では届かない。五人で囲めば、正邦の五人に変わる。自分たちの武器であるはずのチームプレーでさえ、銀城を相手にすれば逃げ道にはならない。
黒子は初めて、自分が望んできたバスケットボールを――敵として見ていた。