第4Qが始まって最初に変わったのは、誠凛の動きだった。
45点差を背負っている。それでも足は止まっていない。伊月がボールを運び、黒子が正邦の視線から消える。日向が外へ開けば水戸部が中で身体を張り、その間を火神が一気に走り抜けた。
「火神君!」
黒子から飛んだボールを受け、火神がそのまま踏み切る。正邦の守備が寄るより早くリングへ叩き込み、99-56。着地した火神は声を上げることもなく、すぐに守備へ戻った。
「次だ!」
日向の声が飛ぶ中、正邦も落ち着いてボールを運ぶ。銀城が下がっても、前半まで戦っていたチームそのものが消えたわけではない。春日が試合を整え、岩村が中を支え、津川も火神へ食らいつく。坂本と大室も空いた場所を埋め、45点のリードを守るために無理をすることなく試合を進めていった。
それでも、第3Qとは明らかに違った。
誠凛の攻撃が通る。黒子の《視線誘導》に正邦の守備が僅かに遅れ、その隙を伊月が使う。日向の外角が決まり、水戸部もゴール下で一本を押し込んだ。何より火神が止まらない。銀城を相手にしていた時には一つの得点を奪うだけでも全力を要求された男が、今度はその身体能力を正邦の守備へ容赦なく叩きつけていく。
ベンチからそれを見ていた蓮が、楽しそうに笑った。
【やっぱ強えじゃん】
『火神君?』
【ああ】
蓮は背もたれへ身体を預けたまま、コートを走る火神を目で追う。
【あれぐらいじゃねえとな】
『さっきまでその火神君をずっと止めてたけどね』
【だから楽しかったんだろ】
表の蓮は何も返さなかった。
第4Q残り7分26秒、正邦103-64誠凛。点差は39点まで縮まった。松元は得点板を確認すると、予定通り岩村と坂本を下げていく。大会はまだ続く。第3Qで45点のリードを作った以上、ここで主力を消耗させる理由はなかった。
一方の誠凛は主力を残した。勝敗だけを考えれば既に極めて厳しい。それでもリコは火神も黒子も下げず、日向も伊月も水戸部もコートに立ち続けている。
「最後まで行くわよ!」
「はい!」
誰も試合を捨てていない。その姿を蓮はしばらく黙って眺めていた。
『いいチームだね』
【まあな】
『認めるんだ』
【弱えとは言ってねえよ】
蓮の目が黒子へ向く。黒子は走り続けていた。第3Qであれだけ差を広げられ、自分たちのバスケットボールを正面から叩き潰されても、やることは変わっていない。味方を活かし、火神へ繋ぎ、日向を空けるために自分の存在を薄くする。
【あいつも面白えな】
『黒子君?』
【自分じゃほとんど何もできねえのに、いるだけで全員変わる】
『僕とは全然違うタイプだね』
【お前も似たようなもんだろ】
『全然違うよ』
【俺からしたら一緒だ】
表の蓮が少しだけ不満そうに黙り、その反応がおかしかったのか裏の蓮は小さく笑った。
試合はそのまま進んだ。誠凛が一本返せば正邦も一本を返す。銀城がいた第3Qのように一方的ではなく、むしろ時間が進むにつれて誠凛の方が得点のペースを上げていった。それでも45点という差は、残された時間で簡単に消せるものではない。
第4Q残り3分08秒、正邦113-75誠凛。火神がまた一本を決めると、着地と同時に得点板を確認した。
「あと38点!」
「点差数えてんじゃねえ! 次止めるぞ!」
日向に怒鳴られ、火神はすぐに守備へ戻る。その横を走りながら、黒子は一度だけ正邦ベンチを見た。
銀城は出てこない。椅子に座ったまま、こちらを見ている。
第3Qではコートにいるだけで恐ろしかった。どう守っても答えがなく、自分たちが信じているチームプレーすら通用しないと思わされた。それでも今は、黒子自身がもう一度あの選手と戦いたいと思っている。勝てると思ったわけでも、答えが見つかったわけでもない。ただ、このまま終わりたくなかった。
その視線に気づいた蓮が僅かに眉を上げる。
【なんだ?】
『こっち見てるね』
【出てほしいんじゃねえの】
『まさか』
【火神もさっき同じ顔してただろ】
蓮は笑ったが、立ち上がることはなかった。監督に下がれと言われた以上、自分から試合へ戻るつもりはない。
残り時間は少しずつ削られていった。誠凛は最後まで攻め続け、正邦も試合を壊さずに応じる。やがて得点板は119-82となり、残された時間は十数秒。正邦がボールを持つと春日はもう攻めず、ドリブルを続けながら時計を見た。誠凛もファウルには行かない。日向が膝へ手をつき、伊月が大きく息を吐き、水戸部も肩を上下させている。その中で火神だけは、最後まで得点板を睨んでいた。
119-82。37点差。
時計が0を示し、ブザーが鳴った。
「試合終了! 119対82、正邦高校!」
正邦ベンチから選手たちが立ち上がる中、火神はその場からしばらく動かなかった。拳を強く握り、俯く。悔しいという言葉だけでは足りない。自分がもっと強ければと思う。それでも今日の相手との差が、そんな一言だけで埋められるものではないことも分かっていた。
「火神君」
隣に黒子が立つ。
「……負けたな」
「はい」
「クソッ。……次は勝つ」
「はい」
黒子の返事は短かったが、その声に迷いはなかった。
整列を終えて両校の選手たちが離れ始めると、火神は正邦ベンチへ戻ろうとしていた蓮を見つけ、その前へ真っ直ぐ向かった。
「銀城」
「あ?」
「次は絶対ぶっ倒す」
蓮は一瞬黙った後、口元を上げる。
「次?」
「あるだろ」
「知らねえよ。勝ち上がってこいよ」
「勝ち上がる」
「じゃあその時な」
火神は一歩も引かず、蓮を睨んだ。
「今度は最初から本気で来い」
その言葉に蓮の笑みが深くなる。
「お前がそこまで来れたらな」
「……絶対言ったこと後悔させてやる」
「楽しみにしとくわ」
火神が背を向けると、その先に黒子が立っていた。黒子は蓮の目をじっと見る。前半に見た柔らかな目ではない。第3Qから続いている、鋭く真っ直ぐな視線だった。
前半と後半では、あまりにも違う。それでも黒子には、一つだけ同じものが見えていた。どちらの銀城蓮も、自分一人だけで勝とうとはしていなかった。
「銀城君」
「あ?」
「また、戦いたいです」
蓮が少しだけ目を細める。
「お前も?」
「はい」
「変な奴」
黒子は否定せず、そのまま続けた。
「次は、今日より強くなります」
「そう」
蓮は黒子の後ろにいる火神を一度見てから、再び視線を戻す。
「じゃあ二人で来いよ。今日みたいに、二人で俺を倒しに来い」
黒子の目が僅かに見開かれた。
「……はい」
蓮はそれ以上何も言わず、正邦の仲間たちの方へ戻っていった。
黒子はその背中を見送る。圧倒的な個の力を持ちながら、五人で戦う選手。自分が《キセキの世代》に取り戻してほしいと願っているものを、既に持っている選手。そして前半と後半でまるで別人のように変わり、まだ何かを隠しているように見える選手。
黒子は今日初めて、銀城蓮という存在を知った。
敗北とともに、その名前は強く記憶に残った。