誠凛との試合を終えて控室へ戻った正邦に、勝利の余韻へ浸っている時間はほとんどなかった。
インターハイ東京都予選Aブロック準決勝を突破した。それは同時に、このあと行われる決勝へ進むことを意味している。相手は既に決まっていた。秀徳高校。東京三大王者の一角であり、今年はそこへ《キセキの世代》の一人まで加わっている。
「次は秀徳だ」
松元の言葉に、控室の空気が変わった。岩村も春日も、その名前が意味するものを知っている。去年までなら同じ東京三大王者として並べられていた相手だが、今年は事情が違う。全国でも指折りの戦力を持っていたチームに、さらに規格外の一年が入った。
「緑間真太郎か」
春日が名前を口にすると、タオルで汗を拭いていた津川が顔を上げた。
「また帝光の人とやるんだ」
「そうか。お前は中学で帝光とやってるんだったな」
「うん。あの時は黄瀬君についてたから、緑間とはほとんど直接やってないけどね」
津川にとって《キセキの世代》は噂だけの存在ではない。中学時代、実際に帝光中とコートでぶつかっている。特に黄瀬とは長い時間マッチアップし、その攻撃を苦しめた経験があった。
「どうだった?」
大室に聞かれ、津川は少し考える。
「強かったよ。すっごく」
「軽いな、お前は」
岩村が呆れたように言うと、津川は笑った。
「でも、守れないとは思わなかったし」
その一言に、蓮の視線が津川へ向いた。
壁際の椅子に座っていた蓮は、第3Qで大きく身体を使ったとはいえ、表情に濃い疲労は見せていない。それよりも《キセキの世代》と実際に戦ったことがあるという津川の話の方が気になったらしい。
「津川」
「ん?」
「黄瀬って強かった?」
「強かったよ」
「俺とどっち?」
「えー?」
津川が困ったように笑い、春日が横から口を挟んだ。
「比べる必要ないだろ。お前は今から別の一人とやるんだから」
蓮は一瞬黙ったあと、笑った。
「それもそうっすね」
次の相手を思い浮かべながら、裏の蓮は内側へ声を向けた。
【やっとか】
『《キセキの世代》?』
【ああ。火神も面白かったけど、本物は次だろ】
『緑間君はシューターだったよね』
【らしいな】
『興味ある?』
【あるに決まってんだろ】
アメリカから帰ってきて以来、何度も耳にした名前だった。同世代の日本人の中で突出した五人。中学バスケットボールを支配した帝光中の怪物たち。その一人が、次のコートに立つ。
松元はホワイトボードへ秀徳の名前を書きながら、選手たちを見回した。
「詳しい話は試合前にする。ただ一つだけ言っておく。さっきまでの試合とは別物だと思え」
誰も軽く受け取らなかった。銀城が入ったことで正邦は昨年とは違う。それでも秀徳もまた、昨年とは違う。互いに新しい一年を加えた東京三大王者同士が、Aブロックの一枠を懸けてぶつかる。
蓮だけが、どこか楽しそうに笑っていた。
同じ頃、秀徳の選手たちも決勝へ向けて準備を進めていた。
「いやー、とんでもねえのいたな」
高尾和成が笑いながら言ったものの、その声ほど表情は軽くなかった。正邦対誠凛。秀徳の選手たちも次の対戦相手となる試合を確認していた。最終スコアは119-82。正邦の快勝だったが、高尾の頭に残っているのは37点という最終的な差ではない。
「第3Q、ヤバかったっしょ。あの銀城って一年」
緑間真太郎は左手の指に巻かれたテーピングを確認しながら答える。
「見れば分かるのだよ」
「いや、そうだけどさ。前半と後半で別人みてーだったじゃん」
前半の銀城は司令塔だった。コート全体を把握し、味方が動くより先にボールを通す。高尾自身、広い視野を武器にするポイントガードだからこそ、その異常さはよく分かった。
「あの眼、俺の《鷹の眼》と似てるようで全然違うんだよな」
「違う」
緑間が即座に答え、高尾が横を見る。
「真ちゃんもそう思う?」
「高尾、お前はコートを広く見ることができる。だが、あいつは見えているだけではない」
「……やっぱそこだよな」
高尾の笑みが少し薄くなる。銀城のパスは、空いている味方へ出しているだけではなかった。今はまだ空いていない場所へボールを送り、そこへ味方が入ってくる。現在の配置を広く捉える高尾とは、同じ俯瞰型の視野でも使い方が違う。
「で、後半になったら眼どころか、ほとんど一人でぶっ壊し始めるし。なんなんだよ、あいつ」
大坪泰介が腕を組んだまま口を開く。
「銀城だけじゃない。津川もいる」
「ああ、あいつな」
高尾もすぐに思い出した。
中学時代、帝光と対戦した守備のスペシャリスト。キセキの世代の黄瀬を相手に食らいついた一年が、今は正邦にいる。
緑間も津川の存在は覚えていた。
「津川の守備力は高い。だが、問題はそこではないのだよ」
「銀城?」
「ああ」
緑間は眼鏡を押し上げる。
「正邦を銀城一人のチームと考えるのが間違いだ。岩村たちは元々、去年から東京三大王者の一角を担っている。そこへ津川と銀城が加わった」
「去年よりだいぶ面倒ってことね」
「そういうことだ」
宮地と木村も黙って話を聞いていた。正邦を銀城一人のチームと見れば足元をすくわれる。それは誠凛との試合を見れば十分理解できる。
それでも緑間の態度は変わらなかった。
「誰が相手でも関係ないのだよ。人事を尽くした以上、俺のシュートは落ちない」
「出たよ真ちゃん」
「何か文句があるのか」
「ないない。むしろ頼りにしてますよ、エース様」
高尾が笑う横で、緑間はもう銀城のことを口にしなかった。ただ、忘れたわけではない。銀色の髪をした一年。帝光にいた記憶はなく、中学時代から名を聞いていた選手でもない。それにもかかわらず、火神大我を正面から圧倒した。
何より緑間の目に残っていたのは、銀城が最後まで本気を出し切ったようには見えなかったことだった。
小休止を挟み、Aブロック決勝の時間が近づく。
先にコートへ姿を見せた秀徳へ、会場から大きな声が上がった。東京三大王者の一角。その中央にいる緑間の姿は、一年でありながら既に周囲とは違う存在感を放っている。
少し遅れて正邦が入場した。岩村を先頭に春日、坂本、大室、津川が続き、その中を蓮も歩いていく。先ほどまで誠凛と40分を戦っていたばかりだが、足取りに重さはない。
『あれかな』
【聞かなくても分かるだろ】
内側からの問いに答えながら、裏の蓮は一人へ視線を止めた。
秀徳のユニフォームを着た長身の一年。眼鏡をかけ、左手の指には丁寧にテーピングが巻かれている。
【あいつが緑間か】
ほぼ同時に、緑間も蓮を見た。二人の視線がコートを挟んでぶつかるが、緑間は表情を変えず、蓮も笑わないままその姿を眺めていた。
「銀城」
春日に呼ばれ、蓮が視線だけを動かす。
「アップ始めるぞ」
「はい」
返事をして歩き出そうとしたところで、内側から表の声が聞こえた。
『どう?』
【まだ分かんねえよ】
『珍しいね。すぐ何か言うと思った』
蓮は一度だけ振り返り、緑間を見る。
【だから今から確かめんだろ】
その口元が、ゆっくり上がった。
【《キセキの世代》が、どれぐらい強えのか】
『じゃあ、最初は僕に返して』
裏の蓮が歩みを止める。
【お前がやんのかよ】
『僕も見たいんだよ。緑間君がどんな選手なのか。それに、最初は僕がPGでしょ』
【……また一人で楽しむ気か】
『必要になったら蓮の番も来るよ』
【勝手に決めんな】
不満そうな声だった。それでも、今回は身体を押さえ込もうとはしなかった。
蓮が一度目を閉じる。再び開いた時には、緑間一人へ向いていた視線が、その周囲へと広がっていた。僅かに上がっていた顎が下がり、肩の力も抜ける。表へ戻った蓮は、秀徳の五人とアップを始めた味方たちを見渡してから、春日の後を追った。
【止められたら代われよ】
『まだ始まってもないでしょ』
内側から聞こえる声に返しながら、蓮はボールを受け取った。
正邦高校対秀徳高校。
インターハイ東京都予選Aブロック決勝。
銀城蓮にとって初めての、《キセキの世代》との試合が始まろうとしていた。
通常の投稿ペースに戻ります。