春日から渡されたボールを右手で弾ませながら、蓮はハーフラインを越えた。
即席で組まれたチームだけに、味方となった上級生がどんなプレーを好むのかはまだ分からない。シュートを打ちたい位置も、得意な走り方も知らなければ、当然ながら決め事もなかった。それでも蓮に焦りはなく、正面で腰を落とした春日を見ながら、ゆっくりとドリブルを続けていた。
「銀城。最初から上級生相手だからって遠慮すんなよ」
「してないですよ」
「そうか? 随分のんびりしてるけどな」
春日はそう言いながら間合いを詰めた。ボールだけを追うのではなく、蓮の腰や肩の向きから進路を絞りながら、背後の選手へ出るパスまで警戒している。先ほどの基礎練習だけでは分からなかったが、実際に正面へ立ってみれば、正邦の先発PGを任されている理由は十分に感じられた。
【右から抜けるぞ】
『まだ始まったばっかりだろ』
【だから何だよ。抜ける時に抜きゃいいだろ】
『今はその必要ないよ』
蓮は春日と向き合ったまま、左手へボールを移した。
視線は正面に向いている。それでも意識の中には、春日以外の選手たちも既に入っていた。右のウイングには味方が一人、その守備についている選手は蓮からのパスを警戒して僅かに中央へ寄っている。左のコーナーにも味方がいるが、その前には十分な距離を保った守備が立ち、ゴール下では岩村が身体を張ってスペースを消していた。
誰か一人だけを見ている感覚ではない。コートに立つ十人の位置と身体の向き、それぞれが向かおうとしている先までが、一つの景色として蓮の中に収まっている。
「銀城、こっち!」
右から味方の声が飛んだ。
蓮はそちらへパスを出さなかった。要求に反応した春日が僅かに右へ重心を移し、その背後にいる守備もウイングとの距離を詰める。パスを要求した味方は一度諦めかけたものの、ゴール下に生まれ始めた隙間へ気づき、身体の向きを変えようとしていた。
その足が床を蹴るより先に、蓮の右手からボールが離れた。
「え?」
低く放たれたバウンドパスは、その選手の現在地から大きく外れていた。誰もいない空間へ向かって床を叩き、一見すれば単純なパスミスにも見える。
ところが次の瞬間、走り始めた味方の進路とボールの軌道が重なった。
「うおっ……!」
本人も驚きながらボールを受け取る。その時には守備が一歩遅れており、残っているのはゴールまでの短い距離だけだった。踏み込んで放ったレイアップが、そのままネットを揺らす。
「ナイスです」
蓮が声を掛けると、得点した上級生は喜ぶより先に、不思議そうな顔で振り返った。
「いや、今の……俺が走る前に出したよな?」
「そうでした?」
「そうでしたって、お前……」
何と説明すればいいのか分からない様子で、上級生は笑いながら守備へ戻っていく。
コート脇で見ていた津川も首を傾げていた。入部初日に一年生が上級生相手にアシストを決めたことより、誰もいない場所へ出したはずのパスが結果的に完璧な位置へ届いたことの方が気になったらしい。
「たまたまかな」
津川の近くにいた一年生が呟く。
「どうだろ。狙ってやったっぽくない?」
「走る前だぞ?」
「だからおもしろいんじゃん」
津川は楽しそうに笑いながら、蓮から目を離さなかった。
一方、正面であのパスを見ていた春日は何も言わない。たった一本で判断するつもりはないのか、蓮を一度だけ見てからボールを受け取り、次の攻撃へ移った。
春日がボールを運ぶ。
蓮は腰を落とし、今度は守備としてその正面へ入った。春日のドリブルは派手ではなかったが、無駄が少ない。蓮との距離を測りながら右へ一度身体を揺らし、僅かに反応したのを見て逆方向へ切り返す。
フェイクから本命へ移る流れは速かった。それでも春日が左へ踏み出した時には、蓮も既に身体を戻していた。
「……へえ」
進路を塞がれた春日は無理に突破せず、外へボールを逃がした。
【今の抜かせてから取れたぞ】
『危ないことしなくていいだろ』
【危なくねえよ】
『君にとってはね』
パスを受けた選手から、さらにボールが動く。蓮は自分のマークを追いながら周囲の配置を確認していたが、最後はゴール下へ入った岩村へボールが渡った。
岩村は接触を受けながらも軸を崩さず、身体を反転させてシュートを決める。
その一連の動きを見ながら、蓮はすぐに次の攻撃を組み立て始めていた。岩村がゴール下にいる限り、単純に中へ入るだけでは潰される。それなら無理に勝負するより、岩村自身を動かした方がいい。
エンドラインからボールを受け、再び春日と向かい合う。
先ほどより距離が近い。
「今度は好きに出させねえぞ」
「頑張ります」
「そこは抜いてやるくらい言えよ」
「パス出せるなら、別に抜かなくてもいいので」
春日が一瞬だけ目を丸くし、その後で笑った。
「変なPGだな、お前」
【ほら。変だって言われてんぞ】
『君のせいじゃない?』
【なんでだよ】
頭の中の声を聞き流しながら、蓮は左へドリブルを進めた。春日はぴったりとついてくるが、蓮は突破しようとはせず、守備を引きつけながらコート全体へ意識を広げていく。
右側では味方がスクリーンを使おうとしている。その動きを警戒して岩村が半歩だけゴール側へ下がり、左奥の守備もボールと自分のマークを同時に見られる位置へ移ろうとしていた。
その一つ一つは、まだ大きな変化ではない。しかし選手の身体の向き、重心の置かれ方、視線が向かう先を重ねていけば、その次にどこへ動こうとしているのかが少しずつ形になっていく。
左奥にいる味方が、右へ走ろうとしている。その選手を追えば守備も右へ動き、そこへ別の味方が入れば左側が空く。岩村はゴール下を守るために内側へ寄らなければならない。
蓮がそこまで読んだ時点では、まだ誰も動き始めていなかった。
それでも迷わず、左側の空間へパスを放つ。
「またそこか!」
春日が反応する。
ボールの先には誰もいない。しかし先ほどとは違い、春日はパスミスだとは考えなかった。
直後、右へ走った選手を守備が追い、その背後から別の味方が左側へ入り込んでくる。走り込んだ選手の手にボールが収まった時には岩村も反応していたが、ゴール下へ寄ったことで別の場所が空いていた。
受け取った選手もそれに気づく。短いパスが中へ通り、最後はフリーになった味方がシュートを決めた。
春日はすぐにはボールを追わなかった。
最初の一本だけなら偶然で済ませられる。だが二度続けて、味方が動き出すより先にその到達地点へボールを送った。しかも今度は、そこから先の守備の動きまで利用する形で得点に繋がっている。
「銀城」
守備へ戻ろうとしていた蓮が振り返る。
「はい?」
「お前、今のパス出した時、あいつがあそこに来るって分かってたのか?」
「たぶん来るだろうなとは」
「たぶん?」
「絶対じゃないですよ。違う動きすることもあるので」
蓮にとっては当たり前の返答だった。
相手が人間である以上、予想した通りに必ず動くわけではない。それでも姿勢や視線、重心の移り方を見れば、選択肢はある程度まで絞ることができる。その情報を一人ではなく、コートにいる全員から拾っているだけだった。
「じゃあ、さっきのも?」
「はい」
春日は少し黙ってから、「そうか」とだけ返した。
蓮はそれ以上何も聞かれなかったため、そのまま守備へ戻っていく。その背中を見送りながら、春日の表情から笑みが消えた。
ゲームが続くにつれ、銀城と同じチームに入った上級生たちの動きが少しずつ変わっていった。
最初は蓮がボールを持っていても、自分が完全に空いてからパスを要求していた。しかし何度かプレーを重ねるうちに、要求する前でも蓮なら見ていると分かり始める。今は守備がついていても、次に空くと思えば迷わず走るようになり、その動きによって別の選手のためのスペースまで生まれていった。
蓮自身が細かく指示しているわけではない。それでも一度ボールが蓮の手へ渡ると、即席で組まれたはずのチームが自然と動き始める。
右側の味方がゴールへ向かって走れば、その守備も内側へ引っ張られる。空いた外側へ別の選手が動き始めるより先に、蓮からのパスがそこへ向かう。受け取った時には既にシュートを打てるだけの空間があり、守備が慌てて寄れば、今度はその背後へ別のパスが通った。
特別派手なドリブルで相手を抜いているわけでもなければ、難しいシュートを決め続けているわけでもない。それなのに、銀城がボールを持つたびに守備の方が後手へ回っていく。
「またかよ……」
春日が思わず呟いた。
自分もPGだからこそ、単にパスが上手いだけではないことはもう分かっていた。普通なら、味方が空いたことを確認してからパスを出す。それでは守備にも反応する時間が残るため、PGは少しでも早く味方の動きを察知しようとする。
銀城は、そのさらに前だった。
味方が空く前どころか、本人がどこへ動くか決め切るより先にボールを出すことすらある。それでもパスは不思議なほど正確に、数瞬後に生まれたスペースへ味方と同時に到着していた。
春日は蓮の手元ではなく、その顔を見るようになっていた。
灰銀色の瞳は正面を向いている。しかし、どう考えても正面だけを見ている選手のプレーではない。
「岩村」
近くを通った岩村を呼び止める。
「何だ?」
「銀城のこと、どう思う?」
岩村も既に気づいていたらしく、すぐには答えなかった。ちょうどその時、蓮が右側へパスを送り、受け取った選手が迷わずシュートを決める。
「あのパスか?」
「それもある。けど、たぶん本質はそこじゃねえ」
春日は蓮から視線を外さないまま答えた。
「あいつ、味方が空く場所を先に見つけてるんじゃない。誰がどこへ動いて、守備がどう動いた結果、どこが空くのかまで読んでる」
「一年がか?」
「二本や三本なら偶然で済ませるけど、もう何回目だよ」
岩村の表情が僅かに険しくなる。
正邦は全国を目指す強豪校だ。これまでにも優れた選手とは何人も対戦してきたし、通常では考えられないほど広い視野を持つPGが存在することも知っている。
だからこそ、単に「視野が広い」で終わらせるには違和感があった。
春日はしばらく黙って蓮を見ていたが、やがて確信したように目を細めた。
「岩村。あいつ――眼、持ってるぞ」
「眼?」
「ああ。普通に周りが見えてるってレベルじゃねえ」
その言葉を聞き、岩村も改めて蓮を見る。
ちょうどボールを受け取ったところだった。
春日が正面へ入るより先に、蓮の視線がコートへ広がる。誰か一人を追っているようには見えないのに、味方が動くたびに迷いなくボールが動き、その先では必ず守備の綻びが生まれている。
春日たちは、その眼の名をまだ知らない。
海の向こうでは、既に一つの呼び名があった。
アメリカのストリートコートで銀城蓮とボールを交わした者たちが、いつしかそう呼び始めた。
――《天瞰眼》。
パノラマ・ヴィジョン。
蓮が自分で名乗ったわけではない。コート全体を上から眺めているかのように捉え、まだ誰もいない場所へ放ったパスが数瞬後には味方の手へ収まる。その光景を何度も見たストリートボーラーたちの間で、自然と定着していった呼び名だった。
そして、その眼の厄介さは広く見えることだけではない。
視界に収めた選手の姿勢、重心、視線、進行方向。そこから次の動きを読み、十人が動いた先に生まれるコートの形を先に捉える。その予測と蓮自身のパス精度が重なることで、まだ存在していないはずのパスコースが生まれる。
【バレたんじゃねえの】
『何が?』
【眼だよ。あいつらさっきからお前の顔ばっか見てんぞ】
『別に隠してないだろ』
【つまんねえな。もっと焦れよ】
『なんで僕が焦るの』
蓮は頭の中で呆れながら、戻ってきたボールを受け取った。
正面には春日がいる。その後ろでは岩村がゴール下を守り、他の選手たちも先ほどまでとは少し違う位置を取っていた。何度も同じように崩されるつもりはないらしく、蓮のパスを警戒して守備全体が変わり始めている。
それを見た蓮の口元に、自然と笑みが浮かんだ。
【何笑ってんだよ】
『だって、おもしろくなってきたから』
【だったら代われ。俺の方がおもしろくできる】
『それは嫌』
【即答すんな】
もう一人の不満を聞きながら、蓮はゆっくりとドリブルを始めた。
春日は今までより半歩だけ距離を詰めている。蓮自身を抜かせないためというより、自由にコートを見渡す時間を与えないための守り方だった。さらに他の四人もパスを受ける選手だけを見るのではなく、蓮と味方の間に身体を置こうとしている。
対策されている。
その事実が、蓮には嫌ではなかった。
「さっきまでみたいにはいかねえぞ」
春日が言う。
「はい」
「……嬉しそうだな」
「ちょっとだけ」
春日は呆れたように笑ったが、その足は止めない。
蓮が右へ動けばついてくる。左へ切り返しても離れず、味方が横切っても簡単には視線を奪われない。正邦の守備もそれに合わせて動き、先ほどまで見えていたパスコースが次々と消されていった。
【だから抜けって】
『もう少し見たい』
【何をだよ】
『この人たちが、どこまで合わせてくるのか』
春日だけではない。岩村も蓮の視線と味方の動きを見ながら位置を修正し、その声に反応して他の選手も僅かずつ立ち位置を変えている。
個人ではなく、五人で守ろうとしていた。
蓮が左へ身体を向けると、守備もそちらへ寄る。すぐに右へ戻せば、今度は逆側が狭くなる。一つの動きに一人だけが反応するのではなく、それをきっかけに全体が連動して形を変えていく。
だからこそ、別の場所が空いた。
ほんの一瞬だった。
蓮は春日の横から右手を伸ばし、身体の向きとは反対側へボールを弾いた。
「なっ――」
春日が振り返る。
パスの先には、やはり誰もいなかった。
しかし今度は誰もパスミスだとは思わない。
左側で守備を引きつけていた味方が、その瞬間に中央へ切り込んだ。ボールは走る選手の前へ滑り込み、受け取った勢いのままゴールへ向かう。
岩村がすぐにカバーへ入った。
その動きまで、蓮の中では既に繋がっていた。
「外!」
蓮の声に反応し、ボールを受けた味方が迷わずコーナーへ返す。
そこには、つい数秒前まで守備が立っていた。
今は誰もいない。
待っていた上級生がシュートを放ち、ボールが綺麗な弧を描いてリングへ落ちた。
「よっしゃ!」
声が上がる。
決めた選手より先に、春日は小さく息を吐いた。
「マジかよ……」
止めようとすればするほど、次の場所を使われる。
春日が蓮の視界を狭めようとすれば、そのために変わった守備の配置を利用される。岩村がカバーへ入れば、その瞬間に空いた場所へ別の選手を使われる。
何より厄介なのは、銀城自身が得点を欲しがっていないことだった。
シュートを打たせないように守るだけでは止まらない。突破を封じても構わずボールを離し、味方が得点できる形があるなら迷いなくそちらを選ぶ。
「PGか……」
春日は誰にも聞こえない程度の声で呟いた。
同じポジションだからこそ、少しだけ腹が立つ。
そして、それ以上におもしろかった。
やがて松元の笛が体育館に響いた。
「そこまで!」
張り詰めていた空気が緩み、選手たちが一斉に息を吐く。蓮も足を止めると、額に浮いた汗を腕で拭いながらベンチへ向かった。
【終わりかよ】
『練習だからね』
【結局一本もまともに勝負してねえじゃねえか】
『勝負してたよ』
【パスばっかじゃねえか】
『点入ってたじゃん』
【そういう話じゃねえ】
まだ文句を言い続けるもう一人を無視して、蓮は置いてあったボトルを手に取った。
「銀城」
呼ばれて顔を上げる。
春日と岩村が立っていた。
「はい?」
「お前、アメリカでもずっとPGだったのか?」
「ずっとってわけじゃないですけど、PGが多かったですよ」
「ストリートでも?」
「はい」
春日は岩村と一度だけ目を合わせた。
「じゃあ向こうでも、その眼使ってたのか?」
ボトルを口元まで運びかけていた蓮の手が止まった。
ほんの僅かな間だったが、春日は見逃さなかった。
「やっぱ眼なんだな」
「……分かるんですか?」
「分かるっていうか、普通じゃねえことくらいはな」
蓮は少し考えてから、困ったように笑った。
「向こうでも似たようなこと言われました」
「似たようなこと?」
「名前まで付けられてましたよ」
春日の眉が上がる。
「何て?」
蓮にとって、その名前に特別な思い入れがあるわけではない。自分で考えたものでもなければ、最初に誰が言い始めたのかさえ覚えていなかった。
それでもアメリカのストリートコートでは、いつの間にか誰もがその呼び名を知っていた。
「パノラマ・ヴィジョン」
「パ……ノラマ?」
「全体が見えてるみたいだから、らしいです」
春日は何度かその言葉を頭の中で転がすように黙り込んだ。
「そのまんまだな」
「僕もそう思います」
「けど、視野が広いだけじゃねえだろ」
今度は岩村が口を開いた。
「お前、あいつらが動く前からパス出してたよな」
「少し先なら、だいたい分かります」
「どう動くかが?」
「絶対じゃないですけど」
蓮はそこで一度コートを振り返った。
練習を終えた選手たちがボールを拾い、次のメニューへ向けて動き始めている。その何気ない動きでさえ、蓮の眼には一人一人が独立して映っているわけではない。
「みんなが今どこにいて、どっち向いてて、どこを見てるか。それが分かれば、次にどこへ行きそうかも何となく分かるんです」
「十人全員か?」
「試合中なら、まあ」
さらりと返された答えに、岩村が黙った。
春日はしばらく蓮を見つめたあと、小さく笑う。
「とんでもねえ一年入ってきたな」
「そうですか?」
「自覚ねえのかよ」
【あるに決まってんだろ】
『黙ってて』
【お前が言わねえなら俺が言ってやろうか?】
『聞こえないだろ』
【代われって言ってんだよ】
『嫌だよ』
内側で騒ぐ声とは裏腹に、蓮はいつも通りの表情でボトルの水を飲んだ。
春日たちが気づいたのは、まだ一つだけだった。
銀城蓮が、普通の選手にはない眼を持っていること。
――アメリカのストリートで《天瞰眼 パノラマ・ヴィジョン》と呼ばれていたその眼が、正邦のバスケットをどこまで変えるのかは、蓮自身にもまだ分からない。
そして同じ身体の内側に、その眼とはまるで違う形でバスケットを支配するもう一人がいることを、この体育館ではまだ誰も知らなかった。