84-86。第3Q終了を告げるブザーが鳴ってからも、得点板には秀徳の2点リードが刻まれていた。
正邦のベンチでは、松元が選手たちを集めながら第4Qの指示を出している。緑間が自陣からでもシュートを狙える以上、前半のように津川一人へ任せるだけでは足りない。しかし二人で追えば、高尾を中心とした残り四人に広大なスペースを与えることになる。
「緑間だけを見すぎるな。撃たせたくないのは当然だが、あいつ一人に二人持っていかれたら秀徳の思うつぼだ。津川は引き続き緑間について、銀城は全体を見ろ。必要な時だけ助けろ」
「はい」
蓮はタオルで汗を拭きながら答えた。30分間出続けた身体にはそれなりの疲労があるものの、動けないほどではなく、《天瞰眼》の精度が落ちている感覚もない。緑間がオールレンジを解禁した第3Qでさえ正邦は30点を取り、最後の一本を決められてなお2点差だった。
残り10分。このまま自分で戦える。
『まだ僕でいけるよ』
【知ってるって言ってんだろ。お前が無理だから代われって言ってんじゃねえよ】
『じゃあ何?』
【俺にもやらせろ】
内側から返ってきた声には、苛立ちよりも楽しさが滲んでいた。
【三十分も見てたんだぞ。あいつがどっからでもポンポン入れんのも、お前がそれに食らいついてんのも、ずっと中から見てた。もういいだろ。俺も《キセキの世代》とやりてえ】
蓮はすぐには答えなかった。自分が退く理由はないし、正邦の攻撃も機能している。《天瞰眼》なら秀徳の守備をまだ崩せるし、第3Qでは自分の3Pも十分に通用した。
だからこそ、これは逃げるための交代ではない。
『……分かった。でも、勝つよ』
一瞬の間があり、裏の声が低く笑った。
【当たり前だろ】
「銀城?」
松元の声が聞こえ、蓮は顔を上げる前に一度だけ目を閉じた。短く息を吐いて再び開いた時、それまで広くコート全体を捉えていた灰銀の目は真っ直ぐ前へ向けられていた。
椅子から立ち上がる。同じ身体のはずなのに僅かに顎が上がり、肩が開いたことで立ち姿まで違って見える。
「……銀城?」
「聞いてるよ」
声まで変わっている。隣にいた津川がその顔を見て、すぐに笑った。
「あ。そっちになった」
「そっちってなんだよ」
「だって分かりやすいし」
「うるせえ」
蓮はそう返しながらコートへ視線を向けた。その先には緑間がいる。
「先生。そのままでいい。津川は緑間につけといて」
松元は一瞬だけ蓮を見つめた。銀城が時折こうなることには、もう正邦の誰も驚かない。普段の司令塔とは別人のように攻撃的になり、自分から相手を壊しにいく。それでも理由までは誰も知らない。
「分かった。ただし一人でやろうとするなよ」
「あ? 俺がいつ一人でやったよ」
松元が僅かに笑う。
「それならいい」
第4Q開始のブザーが鳴った。
正邦の最初の攻撃で岩村からボールを受けた蓮を見た瞬間、高尾はすぐに違和感を覚えた。第3Qまでの蓮は味方と相手の位置を確認しながら一定のリズムでボールを運んでいたが、今は腰を深く落とし、身体のすぐ横で強くドリブルしている。視線も高尾の後ろへ散らず、最初から目の前の一人だけを捉えていた。
「……銀城?」
「なんだよ」
「いや、なんか――」
言い終えるより先に蓮が仕掛けた。
一歩目から高尾の反応を上回る加速で右へ入り、高尾が合わせた瞬間にはドリブルの高さと重心を変えて切り返す。高尾も完全には振り切られず追ったが、蓮は崩れかけた姿勢からさらに身体を前へ送り、横へ並ばれる前に半歩だけ先へ出た。
「速っ……!」
宮地がヘルプへ入っても、蓮は速度を落とさない。正面から進路を塞がれる直前に身体の軸を僅かにずらし、接触寸前の狭い隙間へ肩から入り込む。その先では大坪まで両腕を上げて待っていた。
高尾、宮地、大坪。三人が自分へ集まったのを見て、蓮の口元が上がる。
「三人?」
そのまま大坪へ向かって跳んだ。
空中で身体がぶつかり、蓮の軸がリングから外れる方向へ流される。それでも姿勢は崩れ切らず、腰を捻って右腕だけをリング側へ残すと、下から掬い上げるようにボールを放った。
バックボードに当たったボールがリングへ落ちる。
86-86。
着地した蓮が何事もなかったように守備へ戻り始める横で、高尾はしばらく動けなかった。
「……やっぱ違うだろ、お前」
「何が?」
「さっきまでと」
「知らねえよ」
蓮は笑ったまま戻っていく。秀徳側でも宮地と大坪が顔を見合わせていたが、緑間だけは何も言わず、その背中を見つめていた。
続く秀徳の攻撃では、高尾がボールを運ぶ一方で緑間が再びセンターラインより後ろへ下がり、津川も迷わず追った。蓮にはもう《天瞰眼》がないため、十人全員の次の配置を先回りして捉えることはできない。それでも高尾が右へ動けば身体能力と反応だけで正面へ入り、切り返されても大坪のスクリーンに触れた身体をすぐに立て直して再び追いつく。
「……こっちはこっちで面倒だな!」
高尾は無理に抜くことを諦め、緑間へ送った。津川が離れずについていたため緑間はすぐに撃てず、ボールが再び高尾へ戻る。
そこで大坪が動いた。
表なら、その動きまで含めて先に配置を読めた。しかし今の蓮が気づいた時には、高尾から大坪へボールが渡っている。岩村が寄れば宮地が空き、高尾は迷わずそこへ展開した。
宮地が決めて86-88。
「なるほどな」
『見えてないでしょ』
【うるせえ。分かってるよ】
『僕なら今のは――』
【お前ならな。だから面白えんだろ】
蓮は岩村からボールを受けると、再び高尾へ向かった。今度は秀徳も最初から準備しており、高尾の後ろでは宮地が内側へ寄り、大坪もゴール下から進路を見ている。
それでも蓮は迷わず仕掛けた。
高尾を一歩目で抜き、宮地が寄ってもさらに中へ入る。大坪まで前へ出たことで三人の守備が完全に蓮へ集まった瞬間、右コーナーへ走り込んでいた津川へ鋭くボールを送った。
「津川!」
「おっ」
津川が受け、そのままシュートを沈める。
89-88。
「パスすんのかよ!」
思わず叫んだ高尾に、蓮は振り返って眉を上げた。
「そりゃするだろ。お前らが三人も俺んとこ来てんのに、空いてるやつに出した方が早えじゃん」
「いや、その感じで来たら自分で行くと思うだろ!」
「勝手に思ってろよ」
高尾が呆れたように息を吐く横で、緑間の目が僅かに細くなった。
前半までの銀城は、十人の配置を捉えながら最も確率の高い場所を作り続ける司令塔だった。今の銀城は自分自身を攻撃の起点にして、高尾一人なら抜き、二人目が来ても突破しようとする。それでも三人目まで集まり、味方を使う方が早いと判断すれば何の迷いもなくパスを出した。
「……真ちゃん」
「分かっている」
「あいつ、さっきまでと全然違うのに、結局やってることは――」
「正邦を勝たせようとしている。それだけは変わっていないのだよ」
高尾は改めて蓮を見て、苦笑した。
「それ、一番めんどくさいやつじゃん」
第4Q残り8分36秒、89-88。まだ始まって1分半ほどしか経っていないにもかかわらず、試合の空気は第3Qまでとは明らかに変わっていた。
秀徳の次の攻撃では、高尾が大坪との連係から一度蓮をずらし、緑間へボールを送る。津川も離れずについていたが、大坪のスクリーンによってほんの一瞬だけ遅れた。
「撃たせんな!」
岩村の声と同時に津川が前から跳んだものの、緑間はその手より高い位置からシュートを放った。蓮も軌道を見上げ、ボールが長い放物線を描いてリングへ向かうのを追う。
【また入んだろ、これ】
『多分ね』
【腹立つな】
予想通りネットが鳴り、89-91。緑間は当然のように守備へ戻ろうとしたが、その進路へ蓮が入った。
「おい、緑頭」
「緑間なのだよ」
「どっちでもいい」
「よくないのだよ」
蓮は楽しそうに笑った。
「やっと俺の番だ」
「……何?」
「さっきまで見てただけだからな」
緑間は返事をせず、蓮の顔を見つめた。高尾が感じていた違和感を、緑間も既に感じている。顔も身体も同じ銀城蓮なのに、立ち方も視線も声も、バスケットそのものまで変わっていた。
「意味の分からないことを言うな」
「分かんなくていいよ」
蓮は岩村からボールを受けると、高尾ではなく緑間を見たまま前へ進んだ。
「それより、一回俺につけよ」
その言葉に緑間が足を止め、高尾も思わず振り返る。
「お前がどんだけ強えのか、シュートだけじゃ分かんねえんだよ」
数秒だけ二人の視線がぶつかったあと、緑間が高尾へ目を向けた。
「高尾」
「え、マジでやんの?」
「一度だけなのだよ」
緑間が蓮の前へ出たことで、観客席のざわめきが少しずつ大きくなっていく。《キセキの世代》No.1シューターの緑間真太郎と、30分間コートを支配していた司令塔とはまるで違う姿を見せ始めた銀城蓮が、初めて真正面から向かい合う。
蓮は目の前に立った緑間を見ながら、ゆっくりとドリブルを低くした。
『嬉しそうだね』
【当たり前だろ】
緑間が重心を落とすのに合わせ、蓮も僅かに前傾する。
【やっと《キセキの世代》と、一対一でやれんだからな】
第4Q残り8分12秒、89-91。
高尾に代わって緑間が正面へ立つと、蓮は低くドリブルしながらその構えを眺めた。身長は自分より高く、手足も長い。シューターという印象があまりに強い選手だが、目の前に立ってみれば守備の構えにも隙は少なく、少なくともシュートだけで《キセキの世代》と呼ばれているわけではないことはすぐに分かった。
「へえ」
「何なのだよ」
「いや。ちゃんと守れそうじゃん」
緑間の眉が僅かに動く。
「当たり前なのだよ」
「じゃ、遠慮いらねえな」
言葉が終わるのとほとんど同時に、蓮が右へ強く踏み込んだ。緑間もすぐに反応して進路へ身体を入れたが、蓮はぶつかる直前にドリブルの高さを変えて深く重心を沈め、そこから左へ切り返す。緑間はそれにもついてきた。
速さだけなら反応できている。それを確かめた蓮は楽しそうに笑うと、左へ移した重心を戻し切る前にもう一度右へ出た。本来なら一度身体を立て直さなければ力の乗らない姿勢から、足首、膝、腰の向きを滑らかに組み替え、そのまま次の加速へ繋げる。
「っ……!」
さすがの緑間も僅かに遅れた。それでも完全には抜かせず、長い脚を使って一歩を取り戻すと横から蓮へ追いついてくる。
「おっ。やっぱ強えじゃん」
「当然だと言っているのだよ!」
高尾なら今の動きで半歩以上置いていけた。それでも戻ってきた緑間に対し、蓮はもう一度切り返して振り切ろうとはせず、そのまま速度を上げて肩からぶつかった。
緑間も簡単には弾かれない。接触によって蓮の身体が僅かに外へ流れたものの、次の一歩では既に軸が戻っており、横に緑間を残したままペイントへ入る。そこへ大坪まで前へ出てきたことで、蓮の進路は二人に挟まれた。
それでも蓮は止まらず跳んだ。
正面から大坪が腕を上げ、横からは緑間が追いついて手を伸ばす。空中で逃げ場を消されたように見えたが、蓮はボールを右手から左手へ移しながら上半身だけをリングの反対側へ逃がし、大坪の腕を通り過ぎさせる。緑間の指先まで外したところで身体は既に落ち始めていたが、その姿勢から左手で放ったボールはリングの裏側からバックボードへ当たり、そのままネットへ落ちた。
91-91。
着地した蓮は、すぐに緑間を振り返った。
「強えな、お前」
「得点した側が言う台詞ではないのだよ」
「褒めてんだよ。あそこまでついてきたの、お前が初めてだし」
緑間は何も返さず、エンドラインへ向かう。その背中を見送りながら、蓮は満足するどころかますます楽しそうに笑っていた。
『満足した?』
【まだ一本だろ】
『やっぱりそう言うと思った』
続く秀徳の攻撃では、高尾がボールを運び、津川はこれまで通り緑間へついた。蓮も高尾の正面へ戻ったが、その守り方は第3Qまでとはまるで違う。《天瞰眼》で次の展開を先回りして潰すのではなく、高尾自身の動きを見てから身体能力と《身体操作》で追いついていく。
高尾が右へ振ってから大坪のスクリーンを使って逆へ抜けても、蓮は接触でずれた軸を一歩のうちに戻し、再び正面へ入り直した。
「だから戻ってくんの早すぎだって!」
「遅えんだよ」
「さっきまでそんな守り方してなかっただろ!」
「知らねえって」
高尾は苦笑しながら緑間へボールを送った。津川が密着しているため緑間は一度高尾へ返し、その瞬間に位置を変える。大坪の身体を壁にして外へ出た緑間へ再びパスが通り、津川もすぐに追った。
蓮が気づいた時には、既に緑間がボールを胸元から上へ運んでいる。表ならパスが出る前から到達地点を読めた場面だったが、今の蓮に《天瞰眼》はない。それでも見えてから一気に距離を詰め、緑間が跳ぶのに合わせて後ろから追いすがるように跳んだ。
その跳躍を見て、緑間の目が僅かに開く。後から反応したはずの蓮の手が、シュートへ届きそうなところまで迫っていた。
それでも緑間は止めない。
最高到達点から放たれたボールは蓮の指先の僅か上を抜け、長い軌道の先でネットを鳴らした。
91-94。
「……今のでも入んのかよ」
着地した蓮が呆れたように言うと、緑間は眼鏡を押し上げた。
「当然なのだよ。お前こそ、後から来てあそこまで届くとは思わなかったがな」
「次は触る」
「無理なのだよ」
「やってみねえと分かんねえだろ」
「分かる。俺は人事を尽くしている」
蓮は一瞬黙ったあと、面白そうに笑った。
「いいねえ」
次の正邦の攻撃では、高尾が再び本来のマッチアップへ戻った。一度直接対峙したことで、今の銀城を一人で止めるのが難しいことは分かっている。それでも緑間との一対一に付き合い続ける必要はなく、秀徳として守るなら高尾が蓮を受け持つのが自然だった。
蓮が右へ仕掛けると、高尾は最初の一歩には反応したものの、その後の急激な減速と再加速で半歩置いていかれる。宮地がすぐにヘルプへ入り、さらに大坪もゴール下から前へ出た。
二人目まで来ても蓮は止まらず、宮地との接触を肩で受けながら身体の軸をずらして横を抜ける。しかし大坪まで進路へ入ったところで、蓮は無理に三人目へ突っ込まず、空いた岩村へ鋭くボールを送った。
「岩村さん!」
受けた岩村がそのままリングへ叩き込み、93-94。守備へ戻る蓮へ、高尾が呆れたように声を飛ばした。
「またパスかよ……!」
「だから空いてんだろ」
「その前に二人抜いてるから言ってんだよ!」
表のように味方が空く未来を先に読んでボールを届けるわけではない。裏の蓮は自分自身で守備を引き裂き、その結果として生まれた空間を使う。二人でも三人でも突破できる自信はあるが、味方へ出した方が早く確実に点が取れるなら、そこに意地を張る理由などなかった。
その後も点差は開かない。緑間が3Pを沈めれば正邦は蓮の突破から返し、高尾が蓮へのヘルプを利用して宮地や大坪を使えば、正邦も岩村や津川を絡めて得点する。表から裏へ変わったことで攻撃の作り方は大きく変化しているのに、正邦が五人で得点を重ねていることだけは何も変わっていなかった。
第4Q残り6分24秒、99-101。
秀徳が2点をリードした場面で、高尾は大坪を呼んで蓮をスクリーンへ誘導した。蓮が接触を避けながら追う一方、その背後では緑間が津川を大坪の身体へ引っかけるように動き、逆方向へ開いていく。
高尾がボールを上げた。
「緑間!」
津川の声が飛ぶ。
緑間が受けた時点で、蓮との間にはまだかなりの距離があった。表なら緑間がそこへ出る前に気づき、パスそのものを潰すために動けただろう。しかし今の蓮が緑間へ意識を向けた時には、既にボールが手元へ届いている。
それでも、蓮は走った。
最初の一歩から身体を限界まで前へ送り、二歩目でさらに加速する。緑間がボールを構えて膝を曲げる間にも距離は急激に縮まり、シュートへ跳び上がった時には蓮もその後を追うように床を蹴っていた。
緑間の腕が伸び切る。
ボールが指先から離れる。
その寸前、横から伸びてきた蓮の指がボールを叩いた。
「なっ――」
緑間の目が見開かれ、軌道を失ったボールが横へ飛ぶ。そこへ反応した津川が拾った瞬間、蓮は着地しながら前を向いた。
「走れ!」
津川がすぐに前へ送る。
蓮は既に加速していた。
高尾と宮地も全力で戻り、二人が先にゴール下へ入ろうとする。それでも蓮はトップスピードを落とさずペイントへ踏み込み、高尾が横から身体を入れるのと宮地が正面へ出るのを同時に受けた。
普通ならそこで軸が潰れる。
蓮は接触した瞬間に腰を捻り、ボールを背中側へ隠しながら二人の力を受け流した。リングの外側へ身体が流れても姿勢を立て直そうとはせず、その動きそのものを利用して最後に右腕だけを伸ばす。
バックボードに当たったボールがリングを回り、ネットへ落ちた。
101-101。
会場の音が一段大きくなる中、蓮はゴール下から戻りながら反対側にいる緑間を見た。口元には、抑える気もない笑みが浮かんでいる。
「触ったぞ」
緑間は答えなかった。
眼鏡の奥の目だけが、真っ直ぐ蓮を捉えている。
前半から一度も落としていない緑間のシュートを、蓮は外させたわけではない。ボールが放たれてしまえば入るのなら、その前に止める。表の蓮が30分間かけて選び続けた「撃たせない」という答えを、裏の蓮は未来を読むことなく、見てから追いつくというまったく別の方法で実行してみせた。
『……ほんとに届いたね。後からだったのに』
【言っただろ。撃つ前に触りゃ、入んねえんだよ】
第4Q残り5分58秒、101-101。
緑間の射程がコート全域に広がっても、そこへ後から追いつく男がいる。
試合は再び、同点になった。