秀徳との試合を終えた翌朝、蓮は目を覚まして身体を起こした瞬間、太腿からふくらはぎにかけて残る重さに顔をしかめた。痛みがあるわけではなく、怪我をした覚えもない。ただ、ベッドから降りて立ち上がっただけで、昨日の試合にどれだけ身体を使ったのかが嫌でも分かった。
「……重いな」
【そりゃそうだろ】
『昨日、最後までかなり動いたもんね』
【お前もな】
『僕は三十分くらい出てたけど、最後の十分みたいな動き方はしてないよ』
【身体は同じだろ。俺が出た時にはもう結構疲れてたぞ】
『……それはごめん』
【なんで謝んだよ】
思わず笑いながら制服へ着替える。今日はバスケ部の練習が休みになっているとはいえ、学校まで休みになるわけではない。朝食を済ませて家を出た蓮は、いつも通り正邦高校へ向かった。
普通に歩いている間は問題なかったが、駅の階段を上がれば脚の奥に張りが残っているのが分かる。昨日の第4Q、裏は通常状態で出せる最大まで身体の出力を引き上げた。加速も減速も、切り返しも接触後の立て直しも一切抑えず、最後には高尾から緑間へ通されたパスを出されてから追いかけ、その軌道へ指先を届かせている。
そこだけを考えれば裏が身体を酷使したようにも思えるが、その前には表が第1Qから第3Qまでほぼ休まずコートへ立っていた。二人で使っている身体は一つなのだから、昨日一試合を通して蓄積した疲労を、どちらか片方だけのものとして考えることはできない。
『でも、もうちょっと体力あった方がいいかもね』
【あ?】
『昨日の最後。動けてはいたけど、最初に代わった時とは違ったでしょ?』
少し間が空いた。
【……まあな】
珍しく否定しなかった。
表も内側から全て見ていたから分かる。最大出力へ上げた直後と試合終了間際では、裏の動きに必要な負担が違っていた。目に見えて速度が落ちたわけではない。それでも一つの動作を終えて次へ移るたび、同じ動きをするために必要な力が少しずつ増えていた。
『もし昨日、延長まで行ってたらどうしてた?』
【そのままやってたよ】
『できた?』
【やるしかねえだろ】
『できたか聞いてるんだけど』
【……うるせえな】
答えになっていない返事に、表は小さく笑った。
教室へ着くと、蓮はいつも通り自分の席へ向かった。
試合の翌日だからといって学校生活まで何かが変わるわけではない。授業が始まればノートを取り、指されれば答え、休み時間になれば周囲の生徒と話す。ただ、座っている時間が長くなるほど脚の張りが気になり、休み時間になるたび軽く伸ばしていた。
【暇だな】
『授業中だからね』
【バスケしてえ】
『今日は休み』
【放課後ちょっとぐらい――】
『駄目』
【まだ最後まで言ってねえだろ】
『どうせ体育館行こうとしたでしょ』
【……行くだけならいいだろ】
『行ったら絶対ボール触るじゃん』
表には裏が何を考えているのか大体分かっていた。
もっとも、身体を動かしたい気持ちは表にもある。昨日まで大会の中で次々と試合をしてきただけに、一日練習がないだけでも妙な感覚があった。それでも今日は松元から完全休養を言い渡されている。身体の状態を考えても、素直に従った方がいいのは間違いなかった。
昼休みになると、蓮が教室で昼食を取っているところへ津川がやってきた。
「銀城、身体大丈夫?」
「うん。ちょっと脚重いけど」
「やっぱり? 僕もなんだよね」
津川は近くの席を借りて座ると、自分の太腿を軽く叩いた。
「昨日ずっと緑間君追いかけてたからさ。今日起きた時、脚やばかったよ」
「緑間君、ずっと動いてたもんね」
「そうなんだよ。離れたら撃つし、ついていっても撃つし、撃ったら入るし」
「最後まで一本も外さなかったしね」
「それなのに勝ったんだよなあ」
津川がしみじみと言う。蓮も昨日の得点板を思い出した。121-120。たった1点で、緑間の最後のシュートがブザーより僅かでも早ければ結果は逆になっていた。自分たちが勝ったことは嬉しいが、圧倒したという感覚とは程遠かった。
「強かったね、秀徳」
「うん。緑間君だけじゃなかったし」
「高尾君もすごかったよ。《鷹の眼》だったっけ」
「銀城のと似てるやつ?」
「見える範囲は似てるけど、ちょっと違うかな」
津川が興味を示したように顔を向ける。
「何が違うの?」
「高尾君の方はコート全体を見ること自体がすごいんだと思う。僕のは、そこからみんなが次にどう動くかまで考えるから」
「それ、さらっと言ってるけど結構おかしいよね」
「そう?」
「そうだよ」
真顔で返され、蓮は笑った。正邦へ入ってから、自分の《天瞰眼》について仲間と話すことにも少しずつ慣れてきた。アメリカでは周囲からそう呼ばれ始めただけのものだったが、日本へ戻ってからは、それが自分のバスケットボールの中心にあることを以前より強く意識している。
「でもさ」
津川が少し声を落とした。
「昨日の最後の銀城、いつもと全然違ったよね」
蓮の箸が一瞬だけ止まったが、表情には出さなかった。
「そう?」
「そうだよ。目つきもそうだし、プレーも。秀徳の人たち三人ぐらい来ても普通に突っ込んでたじゃん」
「試合中だからね」
「それで変わりすぎじゃない?」
「集中するとああなる時あるんだよ」
「へえ」
津川はまだ少し不思議そうだったが、それ以上深く聞いてはこなかった。蓮はそのまま昼食を続ける。
【下手くそ】
『何が?』
【誤魔化し方】
『じゃあ自分で説明してよ』
【できるわけねえだろ】
『でしょ?』
裏が黙ったことで、表は少しだけ勝った気がした。
放課後になると、蓮は教室を出たところで無意識に体育館へ続く方向を見た。普段ならそのまま練習へ向かう時間だが、今日はバスケ部そのものがオフになっている。
【行くか】
『帰るよ』
【見るだけ】
『帰るよ』
【ちょっとぐらい――】
『帰るよ』
【……はいはい】
裏が諦めたことで、蓮は校門へ向かった。
帰宅してからもボールには触らず、テレビをつけたままソファへ身体を預ける。朝より脚は軽くなっていたが、完全に疲労が抜けたわけではない。普段ならこの時間には体育館で動いているだけに落ち着かなかったものの、今日は休むと決めた以上、中途半端に身体を動かすつもりもなかった。
何もせずにいると、自然と昨日の試合が頭へ戻ってくる。緑間のシュートだけではなく、《鷹の眼》で正邦の動きを追い続けた高尾、ゴール下で岩村とぶつかり続けた大坪、そして宮地や木村まで含めて動き続けた秀徳のオフェンス。裏が第4Qで言っていた通り、秀徳は緑間一人だけで強いチームではなかった。
『楽しかったね』
【まあな】
『緑間君、一回も外さなかったし』
【あれは反則だろ】
『反則じゃないよ』
【分かってるよ】
表も同じことを思い返していた。あれだけ遠くから撃てるだけでも異常なのに、撃たせれば入る。だから正邦は途中から「どうすれば落とさせられるか」ではなく、シュートへ入る前に止めることへ守り方を変えた。
自分は《天瞰眼》で緑間が次にどこへ動くのかを先に捉え、その場所へ守備を動かした。裏は同じことができない代わりに、相手が動いてから追いかけても間に合わせてしまう。最後の一本も、高尾から出たパスへ追いついたことで緑間のシュートをブザーより後まで遅らせた。同じ身体を使っているのに、やっていることはまるで違う。
『やっぱりすごいね』
【誰が】
『蓮』
【自分で言ってて変だと思わねえの?】
『だって僕にはできないし』
【俺もお前の眼は使えねえよ】
『じゃあ、お互いすごいってことで』
【気持ち悪いからやめろ】
表は笑いながら身体を起こした。それでも昨日の試合を振り返っているうちに、一つだけ二人のどちらにも共通する課題が見えてくる。
『身体、もっと強くした方がいいよね』
【やっぱそこか】
『うん。僕も後半になったら疲れてたし、そのあと蓮が全部出したら最後はかなりきつかったでしょ』
【まだ動けたけどな】
『またそれ言う』
表が苦笑する。技術の問題ではない。《天瞰眼》が見える範囲を広げれば解決するわけでも、《身体操作》の精度をさらに上げれば全て解決するわけでもなかった。試合を通して高い強度で動き続けるための持久力、繰り返し床を強く蹴れる脚、接触を受けても軸を保てる体幹。それらを含めた身体そのものを強くできれば、表にとっても裏にとっても確実にプラスになる。
『次の練習から、そういうの増やそうかな』
【俺は賛成】
『珍しくすぐ決まったね』
【昨日みたいに途中で身体が重くなんの、普通にムカつくし】
『僕はそこまでムカつかないけど』
【じゃあ何で鍛えんだよ】
『もっと長く、ちゃんとプレーしたいから』
【同じだろ】
『ちょっと違うよ』
【細けえな】
二人の理由は少し違っていても、目指すところは同じだった。明日から正邦の練習が再開する。何をするのか、まだ具体的なメニューまでは決まっていない。それでも昨日の試合で見つけた課題を、そのままにして次へ進むつもりはなかった。
蓮はソファから立ち上がると、朝より軽くなった脚を確かめるように数歩歩いた。まだ張りは残っているが、明日にはもう少し抜けているだろう。
『今日はちゃんと休めたね』
【つまんなかったけどな】
『たまにはいいでしょ』
【明日はやるぞ】
『うん』
表も今度は迷わず頷いた。次の相手が誰なのかは、まだ知らない。ただ、その相手と戦う時には昨日より少しでも強い自分でいたい。その考えだけは、二人とも同じだった。