秀徳戦から二日後。
朝、家を出た時点で昨日まで残っていた脚の重さはかなり抜けていた。階段を上っても太腿に張りはなく、学校へ着いてからも身体の状態が気になることはない。完全に疲労が消えたとまでは言い切れないが、少なくとも放課後の練習を休む理由はなかった。
『大丈夫そうだね』
【昨日休んだんだから当たり前だろ】
『休もうって言った時は嫌そうだったけど』
【結果論だ】
『それ、使い方合ってる?』
【うるせえ】
昨日一日バスケットボールから離れていたせいか、身体が軽くなった以上に、早くボールへ触りたいという気持ちが強かった。授業を受けている間も放課後が普段より遠く感じられ、最後の授業が終わると、蓮は津川と一緒に体育館へ向かった。
「昨日何してた?」
「家で休んでたよ」
「ほんとに?」
「何で疑うの?」
「銀城、絶対どっかでバスケしてそうだから」
「しようとはしたけど」
「ほら」
「してないよ」
津川が笑いながら体育館の扉を開ける。
中では既に岩村たちが準備を始めていた。ボールが床を叩く音を聞いただけで、昨日一日感じていた物足りなさが消えていく。蓮も荷物を置いて着替えを済ませ、軽くボールを手に取った。
数回ドリブルをつき、左右へ切り返す。身体に違和感はない。
【やっとだな】
『一日だけじゃん』
【十分長えよ】
裏の声を聞きながら、蓮はリングへ向かってシュートを放った。ボールがネットを通ったところで、体育館へ松元が入ってくる。
「集合」
声がかかると、コートに散っていた部員たちがすぐに集まった。
松元は全員を見回したあと、秀徳戦の疲労や痛みが残っていないかを一人ずつ確認していった。大きな問題を訴える選手はいない。津川や岩村には多少の張りが残っているようだったが、練習を止めるほどではなかった。
蓮の番になると、松元は少し長く視線を止めた。
「銀城、脚は?」
「もう大丈夫です」
「昨日は?」
「結構重かったです」
「そうか」
松元が頷く。
「今日は通常練習に入る前に、お前だけ少し別メニューをやれ」
「僕だけですか?」
「ああ」
蓮が首を傾げると、松元は続けた。
「秀徳戦の終盤、お前は普段と比べてもかなり高い強度で動いていた。あれを試合の中で使うこと自体は構わない。ただ、その前に長い時間コートへ立っていることを考えれば、今の身体では負担が大きい」
言われた内容に、蓮は昨日考えていたことを思い出した。
「走り込みですか?」
「それだけじゃない。持久力だけあっても意味がないからな」
松元が用意していたメニューを渡してくる。
書かれていたのは単純な長距離走ではなかった。短い距離を強く走って止まり、方向を変えて再び加速する動きを繰り返すメニューを中心に、下半身と体幹への負荷を組み合わせた内容になっている。後半には、疲労した状態で接触を受けながら姿勢を崩さず動くための練習まで入っていた。
「昨日までに考えていたんですか?」
「秀徳戦を見れば必要なのは分かる。お前は動けるし、速い。ただ、試合終盤にあの強度まで上げるなら、それを支える身体も必要になる」
松元が蓮を見る。
「技術だけで解決しようとするな。身体もお前の武器だ」
「……はい」
蓮はもう一度メニューへ目を落とした。
『昨日考えてたのと同じだ』
【ちょうどいいじゃねえか】
『うん』
松元が知っているのは、あくまで一人の選手としての銀城蓮だけだ。昨日の第4Qでプレースタイルが大きく変わったことも、試合終盤に身体へ強い負荷がかかっていたことも見ている。それを踏まえて、フィジカル面を補強する必要があると判断したに過ぎない。
だが、二人にとってその意味はもう一つあった。
身体が強くなれば、表はより長く高い強度でコート全体を動き続けられる。そして同じ身体を使う裏も、《身体操作》によって引き出せる出力をより長く維持できる。
どちらか一方だけのためではない。
銀城蓮という一人の選手を強くするための練習だった。
通常のアップを終えたあと、蓮は一人だけコートの端へ移った。
最初は短い距離のダッシュから始まった。全力に近い加速から決められた地点で一気に減速し、身体の向きを変えて次の地点へ走る。単発なら難しいものではない。問題は、それを休息を短くしながら何度も繰り返すことだった。
最初の数本は余裕があった。
十本を超えたあたりから呼吸が深くなり、さらに続けると脚に熱が溜まり始める。それでも求められているのは、ただ本数を消化することではない。疲れても最初と同じ強さで床を蹴り、同じ距離で止まり、同じ速さで次の方向へ身体を向けることだった。
【もっと速くいけるだろ】
『今は僕がやってるんだけど』
【知ってる。だから言ってんだよ】
『最後まで続けられなかったら意味ないよ』
【最初から抑えてどうすんだ】
『これは勝負じゃなくて練習だからね』
【練習でも勝てよ】
『何に?』
返事はなかった。
蓮は苦笑しながら次の一本へ入った。
裏なら同じ動きをもっと鋭くできる。それは表自身が一番よく知っている。しかし、今日の目的は裏がどれだけ速く動けるかを確かめることではない。今コートに立っている表自身が、疲労した状態でも動きの質を落とさない身体を作ることに意味がある。
ダッシュを終えると、今度は下半身と体幹を使ったメニューへ移る。自重だけでなく負荷を加えながら姿勢を保ち、その直後に再び短いダッシュへ入る。普段の練習でも筋力トレーニングはしているが、疲労とプレー中の動きを繋げるように組まれた内容は想像していた以上にきつかった。
「銀城、遅くなってるぞ」
離れたところから松元の声が飛んでくる。
「はい!」
返事をして、もう一度床を蹴る。
脚が重くなっているのは自分でも分かっていた。そこで無理に歩幅だけを広げれば姿勢が崩れ、止まるまでの距離も伸びる。《天瞰眼》とは関係ない。パスもドリブルも必要ない。ただ自分の身体を最後まで同じように動かし続けるという、それだけのことが難しかった。
【ほらな】
『何が?』
【昨日言っただろ。身体が足りねえって】
『僕が先に言った気がするけど』
【どっちでもいい】
息を整えながら、蓮は次のスタート位置へ戻る。
きつい。
それでも嫌ではなかった。
足りないものが分かっているなら、あとは埋めればいい。昨日まで漠然と考えていたことが、実際の練習として目の前に置かれたことで、むしろやるべきことは単純になった。
特別メニューを終えた頃には、練習開始前の軽さは完全に消えていた。
蓮は汗を拭きながら通常練習へ合流したが、松元はその状態のまま休ませることなく、ハーフコートでの対人練習へ入れた。疲労したあとでも判断と技術を落とさないことまで含めてメニューなのだと、説明されなくても分かる。
ボールを持った春日が正面から仕掛けてくる。
蓮は腰を落としながらコート全体へ視線を広げた。
脚は重い。それでも《天瞰眼》が捉える情報まで鈍るわけではない。春日の重心が僅かに右へ寄り、その奥では坂本が一歩外へ開こうとしている。岩村がスクリーンへ動き始めるより先に、蓮は次にできる空間を読んだ。
「津川、左!」
声と同時に守備が動く。
春日が岩村のスクリーンを使おうとした瞬間には進路が消え、切り返した先にも津川がいた。無理に通されたパスを坂本が受けるが、そこへ大室が寄ってシュートを打たせない。
松元が笛を鳴らした。
「いいぞ。銀城、疲れてる時ほど先に動かせ。自分で全部追おうとするな」
「はい」
蓮は頷いた。
【楽してんじゃねえぞ】
『違うよ。みんなを動かした方が速いから』
【分かってるよ】
『じゃあ言わないでよ』
表にとって、身体が疲れていることとチーム全体を動かすことは別の問題だった。自分の脚が一歩遅くなるなら、その一歩を必要としない状況を先に作ればいい。《天瞰眼》で見えているものを使い、四人を適切な場所へ動かす。それが自分のバスケットボールだった。
ただ、それで身体を鍛えなくていい理由にはならない。
見えていても自分がそこへ行かなければならない瞬間はある。パスを出したあとに次の場所へ走るのも、守備で相手を追うのも、最後には自分の身体を使うしかない。
昨日より長く、昨日より強く動く。
そのための練習だった。
全体練習が終わる頃には、外はすっかり暗くなっていた。
部員たちが片付けを始めようとしたところで、松元が再び全員を集める。
「その前に一つ話しておく」
自然と視線が集まった。
「次の決勝リーグについてだ」
秀徳を破ったことで、正邦はその先へ進んだ。試合直後は勝ったこと自体の余韻が大きく、昨日は部活も休みだったため、次の相手について具体的な話はまだされていなかった。
松元が続ける。
「初戦の相手が決まった」
体育館の空気が少し変わる。
「桐皇学園だ」
蓮には聞き覚えのない名前だった。
しかし、隣にいた津川が僅かに反応した。
「桐皇……」
「知ってるの?」
蓮が小声で聞くと、津川がこちらを見る。
「うん。強いよ」
それだけではないような言い方だった。
松元が全員を見渡す。
「今年、急激に戦力を上げている学校だ。そして――」
一度言葉を切った。
「《キセキの世代》の一人がいる」
その言葉で、蓮の意識が一気に相手へ向いた。
【ほう】
内側から聞こえた声も、明らかにさっきまでとは違う。
「青峰大輝」
松元がその名前を告げる。
「帝光中で《キセキの世代》のエースだった選手だ」
緑間真太郎に続く、二人目。
蓮は無意識に昨日の秀徳戦を思い出していた。コートのどこからでもシュートを決め続け、最後の最後まで正邦を追い詰めた緑間。その緑間と同じ帝光中でプレーし、《キセキの世代》と呼ばれていた選手が次の相手にいる。
【エース、ねえ】
『気になる?』
【当たり前だろ】
即答だった。
表も否定するつもりはない。
火神と黒子に勝ち、緑間と戦ったことで、日本へ戻ってきた時には知らなかった世界が少しずつ見え始めている。《キセキの世代》という名前だけなら正邦へ入ってから何度も聞いた。しかし実際にその一人と戦った今では、その名前が持つ意味は以前とはまるで違っていた。
「銀城」
松元に呼ばれ、蓮は顔を上げる。
「はい」
「今日から始めたメニューは続ける。ただし、次の試合までに急に身体が変わると思うな。無理に負荷を上げる必要もない」
「分かりました」
「桐皇戦に必要なのは、今のお前たちが持っているものをどう使うかだ」
松元の言葉に蓮は頷いた。
数日の練習で別人のように強くなれるとは思っていない。それでも、今日始めたことはこの先へ確実に繋がっていく。
そして、その先にいる相手の名前も分かった。
青峰大輝。
『どんな選手なんだろうね』
【強けりゃ何でもいい】
『またそれ?』
【緑間より面白え奴なら最高だな】
表は少しだけ笑った。
まだ顔も知らない。
どんなプレーをするのかも知らない。
ただ、《キセキの世代》のエースだったという一言だけで、会ってみたいと思うには十分だった。
次の相手は、桐皇学園。
銀城蓮と青峰大輝が出会うまで、そう長くは残されていなかった。