桐皇学園という名前を聞いてから、数日が経った。
正邦の練習そのものが大きく変わったわけではない。決勝リーグへ向けたチーム練習を中心にしながら、蓮だけは通常メニューの前後に松元から渡された特別メニューを続けている。短い距離での加速と減速を繰り返し、下半身と体幹へ負荷をかけ、その状態から対人練習へ入る。始めて数日で身体が劇的に変わるはずもなかったが、何のためにやっているのかは少しずつ分かってきた。
疲れてからも最初と同じ強度で動く。そのために必要なのは、ただ長時間走れる身体ではない。強く床を蹴り、止まり、切り返し、接触を受けても軸を崩さず、それを何度も繰り返せる身体だった。表にとっても裏にとっても必要なものは同じで、二人が使う一つの身体そのものを強くすることが目的になっている。
【地味だな】
『まだ言ってるの?』
【もっと一気に強くなるやつねえのかよ】
『あったらみんなやってるよ』
【つまんねえ】
『でも、ちゃんと毎回付き合ってるじゃん』
【お前がやってんだろ】
『身体は一緒でしょ』
そんなやり取りをしながら練習を続けているうちに、桐皇戦は少しずつ近づいていた。松元から相手についての説明も始まっており、今年になって一気に戦力を伸ばした桐皇学園、その中心に《キセキの世代》の一人であり、帝光中時代にエースを務めていた青峰大輝がいることも聞いている。
緑間と同じ《キセキの世代》でありながら、まるで違う選手らしい。
蓮が知っているのは、まだその程度だった。
その日の練習を終えた蓮は、途中で津川と別れて一人で駅へ向かっていた。特別メニューまで終えた脚には適度な疲労が残っていたが、秀徳戦翌日のような重さはない。歩きながら次の桐皇戦について考えていると、内側から裏の声が聞こえてきた。
【青峰ってどんな奴なんだろうな】
『急だね』
【次やるんだろ】
『そうだけど』
【緑間みてえに分かりやすい奴ならいいんだけどな】
『緑間君、分かりやすかった?』
【どっからでも撃って全部入れる。分かりやすいだろ】
『止める方は全然分かりやすくなかったけどね』
表は苦笑する。
緑間と実際に戦ったことで、《キセキの世代》という言葉に対する印象は大きく変わった。日本へ帰ってきたばかりの頃なら、同世代にそこまで特別な選手が何人もいるという話を聞いても、今ほど興味を持たなかったかもしれない。だが、一人を知ったことで他の選手も見てみたいと思うようになったのは、裏だけではなく表も同じだった。
交差点を渡ったところで、少し先からボールがアスファルトを叩く音が聞こえてきた。一定ではない間隔で続くその音に足を止めた蓮は、少し迷ったあとで自然とそちらへ向かう。
【行くのかよ】
『気になるじゃん』
【俺が言うのも何だけど、お前も大概バスケ好きだよな】
『知ってる』
音を辿った先には、人通りから少し外れた場所に小さなバスケットコートがあった。正式な体育館ではなくリングが設置されただけの簡素な場所だったが、その中で一人の男がボールをついている。
背が高く、長い手足には無駄なく筋肉がついている。正邦にも大きな選手はいるが、蓮の目を引いたのは体格よりもその動きだった。ゆっくりとドリブルしていた男の身体が突然沈み、次の瞬間にはリングへ入り込む。踏み切りから高く浮いた身体は力んでいるようには見えず、そのまま片手でボールをリングへ押し込んだ。
蓮は少し離れた場所で足を止めた。
『速いね』
【ああ】
裏が初見の相手をすぐに認めるのは珍しかった。
男は落ちてきたボールを拾うと、そこで初めて蓮へ顔を向けた。
「……何見てんだ?」
「あ、ごめん。バスケしてたから」
「見りゃ分かんだろ」
面倒そうに返され、蓮がそのまま通り過ぎようとした時、少し離れたところから女の声が響いた。
「大ちゃん!」
長い桃色の髪を揺らしながら走ってきた少女は、そのまま男のところまで来ると息を整える。
「もう、勝手にどっか行かないでよ!」
「うるせえな、さつき」
「うるさいじゃないでしょ。探したんだから!」
男が面倒そうに顔を背ける。そのやり取りを何となく見ていた蓮だったが、少女の方が先にこちらへ気づいた。蓮の顔を見たあと制服へ視線を落とし、もう一度顔を確認したところで目を見開く。
「……銀城君?」
「僕?」
「やっぱり! 正邦高校の銀城蓮君でしょ?」
「そうだけど……何で僕のこと知ってるの?」
「知ってるよ。秀徳に勝った試合、調べたから」
その一言で、蓮にも相手がただの通りすがりではないことが分かった。
少女はすぐ隣にいる男を振り返る。
「大ちゃん、あれが銀城君だよ」
「あ?」
「ほら、話したでしょ。正邦の一年生。秀徳に勝った――」
「ああ」
男の目が、そこで初めて蓮をまともに捉えた。
「緑間に勝ったって奴か」
その言葉で、今度は蓮の方が反応する。
「……青峰?」
少女が目を丸くした。
「え、知らなかったの?」
「名前しか聞いてなかったから」
「そうなの?」
「うん」
蓮は改めて目の前の男を見る。
次の対戦相手であり、《キセキの世代》の一人。帝光中時代にはその中でエースを務めていた青峰大輝。さっき見た一度の動きだけでも、松元から聞いた肩書きが大袈裟ではないことは分かる。
【こいつか】
『みたいだね』
【いいじゃん】
裏の声には明らかな興味が混じっていたが、表は普段と変わらない調子で青峰を見る。
「次、試合するんだよね」
「らしいな」
「よろしく」
「……お前、本当に緑間に勝ったのか?」
唐突な問いに、蓮は少し首を傾げた。
「僕一人で勝ったわけじゃないよ。正邦が秀徳に勝ったんだ」
「ふーん」
返答を聞いた青峰の目から、僅かに興味が薄れる。
「大ちゃん」
少女――桃井が咎めるように名前を呼んだが、青峰は気にする様子もなく手にしていたボールを蓮へ放った。反射的に受け取った蓮へ視線を向けたまま、青峰は短く言う。
「やろうぜ。1on1」
「え?」
「ちょっと大ちゃん、急に何言ってるの?」
「別にいいだろ。緑間に勝った奴なんだろ?」
青峰の目は蓮から離れない。
「見りゃ分かる」
挑発しているというより、本当に一度相手をすれば十分だと思っているようだった。
蓮は手元のボールへ目を落とす。
『どうする?』
【やれよ。俺と代われ】
即答した裏に対し、表は少しだけ考えてから首を横へ振った。
『嫌だ』
【あ?】
『僕もやってみたい』
一瞬の沈黙のあと、裏が意外そうに笑った気配がした。
【……へえ】
蓮はボールを一度床へつくと、青峰へ顔を上げた。
「いいよ」
先攻は蓮だった。
青峰は正面に立っているだけで、極端に腰を落としているわけでも、腕を大きく広げているわけでもない。それなのにリングへ向かう道がひどく狭く感じられた。蓮はゆっくりと左右へドリブルしながら青峰の重心を探る。
普段の5対5なら、この時点で《天瞰眼》はコート上にいる全員の位置と動きを組み上げ始めている。味方がどこへ走り、守備がどこへ引かれ、その数秒後にどこへ空間が生まれるのか。しかし今ここにいるのは二人だけで、味方もいなければ動かすべき残り八人もいない。目の前の一人を抜き、リングへ向かう。ただそれだけの勝負だった。
蓮が右へ踏み込むと、青峰の身体が反応した。その瞬間に切り返して左へ入り、一歩目では僅かに前へ出る。そのままリングへ向かった蓮だったが、レイアップへ入るより先に横へ青峰が並んだ。
『速っ――』
伸びてきた腕からボールを逃がし、身体の反対側へ持ち替えながらリングの裏側を使う。咄嗟に変えたシュートはバックボードへ当たり、リングを一度回って外へ落ちた。
「惜しい!」
桃井の声が飛ぶ。
青峰は落ちてきたボールを片手で取ると、そのまま蓮へ返した。
「もう一本」
蓮は受け取ったボールをつきながら、さっきの守備を頭の中で組み直す。
【やっぱ速えな】
『うん』
【代われ】
『まだ』
【意地になってんじゃねえぞ】
『なってないよ』
今度は最初から速度を上げた。細かいドリブルで青峰の正面へ入り、肩を右へ振ってからボールだけを左へ移す。青峰の足が僅かに反応したところで逆を取ったが、抜けたと思った直後にはその足が戻り、蓮の進路を塞いでいた。
止まればボールを狙われる。蓮は身体を半回転させながら距離を作り、そのままジャンプシュートへ切り替えた。青峰の手が迫ったものの、高い位置から放ったボールは指先を越えてリングへ落ちる。
「お」
青峰が初めて僅かに反応した。
「やるじゃん」
「ありがとう」
「けど、こんなもんか?」
ボールを拾った青峰が、そのまま攻撃側へ回る。
蓮は腰を落とし、正面から青峰を見る。右手からボールが一度床へ落ちた瞬間、その身体が一気に加速した。消えたように感じるほど鋭い一歩に反応して進路へ身体を入れようとしたが、その時には青峰の重心が既に別の方向へ移っている。
追うことはできる。それでも半歩が埋まらない。
青峰はリングへ近づくと、通常ならシュートへ入るとは思えない姿勢から腕を伸ばした。体勢が崩れているように見えるのに、放たれたボールはバックボードすら使わずネットだけを鳴らす。
蓮はリングを通ったボールを見ながら、素直に思った。
『……すごい』
【ああ。こいつ、面白え】
裏は笑っていた。
そこから何本か勝負を続けた。
蓮も得点できないわけではない。青峰の逆を取ってドライブから決めることもあれば、間合いを作って外から沈めることもある。正邦で一年生から司令塔を任されているのは《天瞰眼》だけが理由ではなく、ドリブルもシュートも一対一の守備も、普通の高校生を相手にするなら十分すぎるほど高い水準にある。
それでも青峰大輝は、その「普通」の中にはいなかった。
一度抜いても追いついてくる。フェイントで重心を動かしても次の一歩で戻り、逆に青峰が攻めれば最初の動きへ反応しても身体が間に合わない。シュートに至っては打つ体勢そのものが読めず、崩れているように見える姿勢からでも平然と決めてくる。
5対5なら違う。
蓮にはその確信があった。
味方が四人いれば青峰一人だけを見る必要はなく、相手全員の位置を使って青峰が守れない場所へ先にボールを運ぶことができる。《天瞰眼》は目の前の一人を完全に封じるための眼ではなく、十人が存在するコートそのものを使うためのものだからだ。
だが、今は1on1だった。
この条件では、青峰の方が明確に強い。
最後の一本も、蓮が切り返して抜きにかかった瞬間に青峰の手がボールへ触れた。弾かれたボールがコートの外まで転がっていき、そこで桃井が二人へ声をかける。
「そこまでにしよ、大ちゃん。もういいでしょ?」
青峰はすぐには答えず、蓮を見ていた。最初にあった僅かな期待は、もうほとんど消えている。
「……マジかよ」
「何が?」
「緑間」
青峰が頭を掻きながら、興味を失ったように視線を外す。
「こんなのに負けたのか」
蓮の表情は変わらなかった。
ただ、内側から聞こえた声だけが一気に低くなる。
【……あ?】
『待って』
【何が“こんなの”だ。代われ】
『嫌だ』
【こいつ――】
『今日は僕がやるって決めたから』
裏の圧が強くなった。それでも表は譲らず、青峰には目の前の銀城蓮がほんの一瞬黙ったようにしか見えていない。
「大ちゃん、銀城君は――」
「いい」
桃井の言葉を青峰が遮った。
「試合見りゃ分かると思ったけど、だいたい分かった」
そう言って踵を返す。
「ちょっと、大ちゃん!」
桃井が慌てて追おうとしたが、青峰は振り返らない。そのまま片手だけを上げる。
「俺に勝てるのは俺だけだ」
「もう! 待ってってば!」
桃井は蓮へ一度頭を下げた。
「ごめんね、銀城君! 大ちゃん、ああいうところあるから!」
「ううん」
「試合ではちゃんと――って、大ちゃん!」
先へ行ってしまった青峰を追い、桃井も走っていく。
蓮はしばらく二人の背中を見送ったあと、コートの外へ転がっていたボールを拾った。
【追え】
『嫌だよ』
【今すぐ代われ。あいつ戻してこい】
『だから嫌だって』
【ナメられたままでいいのかよ】
『別に』
【俺はよくねえ】
表はボールを持ったまま小さく息を吐いた。
『試合するんでしょ?』
裏が黙る。
『だったら、その時でいいじゃん。今日は僕が負けた。それは本当だよ』
【お前が弱えみたいに言うな】
『青峰君の方が1on1では強かった。それも本当』
【だからムカつくんだよ】
『知ってる』
表は少しだけ笑った。
『でも、次は1on1じゃないよ』
その一言に、今度は裏から返事がなかった。
正邦対桐皇。
次に二人が向き合う場所には、互いに四人の仲間がいる。
そこで青峰大輝が見る銀城蓮は、今日と同じとは限らなかった。
少し離れた道を歩きながら、桃井は前を行く青峰へ追いついた。
「大ちゃん、待ってよ!」
「遅え」
「大ちゃんが勝手に行くからでしょ!」
隣へ並んだ桃井は一度だけ後ろを振り返った。
「……銀城君、強かったでしょ?」
「別に」
「別にって……」
「普通の奴よりは強えよ。でも、あれで緑間に勝ったって言われてもな」
青峰が欠伸をする。
「1on1だけで決めるの?」
「十分だろ」
「銀城君、ポイントガードだよ。それに秀徳戦の記録だって――」
「さつき、もういい」
青峰の声には、先ほどまで僅かにあった興味すら残っていなかった。
「期待して損した」
桃井は何か言い返そうとして、やめた。青峰が一度こうなれば、今何を言っても聞かないことを知っている。
ただ、一つだけ引っかかっていた。
今日見た銀城蓮と、秀徳戦について集めた情報がどうしても完全には重ならない。試合終盤に銀城のプレーが大きく変わったという話もあり、数字だけを見ても前半までとは得点の取り方が違っている。それが単なる集中や試合展開による変化なのか、別の理由があるのかまでは桃井にも分からない。
けれど、今日の1on1だけを見て銀城蓮の全てを判断するのは早い。
桃井はそう思っていた。
「大ちゃん、試合にはちゃんと来てよ?」
「……」
「大ちゃん?」
「分かってるって」
返事はしたものの、青峰の声は面倒そうだった。
緑間を倒した銀城蓮なら、少しは楽しめるかもしれない。そう思っていた期待は、さっきの1on1でほとんど消えている。
なら、わざわざ急ぐほどの相手でもない。
青峰がそう判断した隣で、桃井だけがもう一度後ろを振り返った。
同じ銀城蓮を見たはずの二人は、この時すでにまったく違う印象を抱いていた。