決勝リーグ初戦。
正邦高校が会場へ到着した時には、既に他校の選手や観客で館内が騒がしくなっていた。秀徳との試合までとは空気が少し違う。ここまで残った学校はどこも東京を勝ち抜いてきたチームであり、今日から始まるリーグ戦の結果でインターハイへ進める学校が決まる。
控室へ入った正邦の選手たちは、松元から最後の確認を受けたあと、それぞれ試合の準備を始めた。蓮もシューズの紐を締め直しながら、ここ数日続けてきた特別メニューの影響が身体に残っていないことを確かめる。急に脚が強くなったわけでも、体力が大きく伸びたわけでもない。ただ、練習の中で自分の身体がどこから崩れ始めるのかは、以前より意識できるようになっていた。
【今日はあれやらねえのか】
『特別メニュー? 試合前にやるわけないでしょ』
【ちょっとぐらい走っても変わんねえだろ】
『変わるよ。昨日も負荷を抑えてたんだから、今日はこれでいいの』
【なんか落ち着かねぇんだけど】
『それでいいんだよ。今日は試合なんだから』
裏は不満そうだったが、表は気にせず立ち上がった。頭にあるのは桐皇学園と青峰大輝で、数日前に偶然出会って1on1をした時の感覚は今も鮮明に残っている。最初の一歩だけで距離を作る速さも、こちらが一度抜いたあとに追いついてくる脚も、決まった形を持たないシュートも、これまで表が1on1で対峙してきた相手とは明らかに違った。
あの勝負では負けた。それを誤魔化すつもりはないが、今日は1on1ではなく正邦の五人と桐皇の五人で戦う。
『楽しみだね』
【やっとあいつとやれんのか】
『僕もやるんだけど』
【この前のこと忘れてねえからな】
『「こんなの」って言われたこと? 僕は気にしてないよ』
【俺が気にしてんだよ】
声が低くなるのを感じ、表は小さく苦笑した。数日経っても裏はまだ根に持っているらしい。それ以上その話を続けることはなかったが、青峰との再戦を楽しみにしていることだけは二人とも同じだった。
ウォーミングアップのためコートへ出ると、向かい側には既に桐皇学園の選手たちがいた。蓮はボールを受け取りながら自然とその中へ目を向け、最初に桃井を見つけた。ベンチ付近で選手たちと話していた桃井もこちらに気づき、数日前のことを思い出したのか軽く頭を下げてくる。
蓮も小さく返しながら視線を横へ動かしたが、あの日見た青い髪はコートにもベンチにも見当たらない。
『……いないね』
【あ?】
もう一度桐皇側を確認していると、隣でアップをしていた津川も同じことに気づいた。
「青峰君、いないね」
「うん。まだ来てないのかな」
「どうだろう」
試合開始まではまだ少し時間があり、控室にいる可能性もある。蓮は一度意識を練習へ戻し、津川から受けたボールをそのままリングへ沈めた。それからも時折向かい側を確認したが、アップが進んでも青峰が姿を現すことはなかった。
両校のウォーミングアップが区切られたところで松元が選手たちを集める。
「相手が誰を出してきても、やることは変えるな。桐皇は個々の能力が高い。青峰だけを見ていると他からやられるぞ」
「はい」
全員と一緒に返事をした蓮だったが、やはり気になるものは気になる。
「先生、青峰まだ来てないですよね」
「ああ」
「何か聞いてますか?」
「いや。こちらには何もない」
欠場なのか、それとも本当に遅れているだけなのか。数日前の別れ際、桃井は青峰へ試合には来るよう念を押していた。その時は深く考えなかったが、今になってあの言葉の意味が少し分かった気がする。
【……まさか来ねえとか言わねえよな】
『分からないよ。まだ試合始まってないから』
【ふざけんなよ】
裏の機嫌が悪くなっているのを感じながら、蓮が再び桐皇側へ目を向けた時だった。
「銀城君やったっけ?」
聞き慣れない声に振り返ると、桐皇のユニフォームを着た細身の選手がこちらへ歩いてきていた。柔らかく笑っているように見えるが、その目は蓮を観察している。
「はい」
「今吉翔一。桐皇の主将や」
「銀城蓮です」
差し出された手を握ると、今吉は楽しそうに笑った。
「知っとるよ。秀徳倒した一年やろ?」
「僕一人で倒したわけじゃないですけど」
「はは。聞いとった通りやな」
「聞いてた?」
「桃井からな」
少し離れたところで桃井がこちらを見ている。蓮は一度そちらへ視線を向けたあと、気になっていたことをそのまま今吉へ尋ねた。
「青峰は?」
「気になる?」
「次は5対5でやれると思ってたから」
「なるほどな。けど、あいつ遅刻や。まだ来とらん」
「……遅刻?」
本当にそれだけらしい。蓮が思わず桐皇のベンチを見ると、今吉は何でもないことのように肩を竦めた。
「試合始まりますよね?」
「せやな」
「間に合わないんですか?」
「さあな。青峰やから」
『本当に来てないんだ』
【……】
裏から返事がないことが、逆に気になった。
「でも、大丈夫なんですか?」
「別に試合できへんわけやない。ワシらも一応、東京の決勝リーグまで来とるチームやからな」
今吉の口調は穏やかで、青峰がいないことを言い訳にする様子もない。むしろ自分たちだけでも十分に戦えるという自信が見えた。それだけなら、蓮も何も思わなかった。
「青峰が来るまでの前座ぐらいは務めたるよ」
その一言を聞いた瞬間、内側の空気が変わった。
【前座?】
『蓮』
【あいつが来るまで?】
『落ち着いて』
【俺らとの試合だろ】
表の表情から僅かに笑みが消える。それでも今吉は気づかず、「青峰がおらんから言うて、気ぃ抜かん方がええで。あいつ抜きでも簡単に――」と続けようとした。
【ふざけんな】
強く響いた声に、表の意識が揺れた。
『待って』
【この前ナメられたのはまだいい。お前が気にしてねえなら、それでいい】
『僕は別に――』
【でも今日は違うだろ】
表も、その言葉だけは否定できなかった。
今日は公式戦であり、決勝リーグの初戦だ。岩村も津川も春日も坂本も大室も、この試合へ勝つために準備をしてきた。相手だって同じはずなのに、その中心にいる青峰だけが会場へ来ていない。怪我でも体調不良でもなく、ただの遅刻であり、しかも数日前に蓮と直接会った上で興味を失っている。
それが今日の欠席と無関係だと、表にも思えなかった。
【俺らだけじゃねえ。岩村も、津川も、春日も、坂本も、大室も、全員この試合のために来てんだろ】
『……うん』
【なのに何だよ。あいつが来るまで前座?】
普段なら、ここで譲る理由はない。表が最初から出て《天瞰眼》でチームを動かすのが正邦のいつもの形であり、相手のエースがいないからといって変える必要もない。
だが今は裏の意志が強かった。
そして表自身も、少しだけ腹が立っていた。
『……やりすぎないでよ』
【代われ】
表は静かに目を閉じた。
「銀城?」
今吉が呼んだ時には、ほんの数秒しか経っていなかった。
蓮が再び目を開く。コート全体へ自然に広がっていた視線が真正面の今吉へ絞られ、僅かに下がっていた顎が上がる。同時に肩が開き、立ち姿そのものが変わった。位置もユニフォームも顔も何一つ変わっていない。それでも、さっきまで目の前にいた銀城蓮とは纏う空気が違う。
今吉の目が細くなった。
「……へえ」
少し離れた場所では桃井もその変化に気づいていた。数日前に見た銀城蓮は穏やかで、青峰との1on1で圧倒されても感情を荒らげず、自分の負けをそのまま認めていた。今、今吉の前に立っている銀城からは、その柔らかさがほとんど消えている。
「銀城君……?」
思わず一歩前へ出た桃井を見ようともせず、蓮は今吉へ口を開いた。
「前座って言ったよな」
口調まで変わっていた。
今吉は少し驚いたようだったが、すぐに笑みを戻す。
「言うたで」
「じゃあ青峰が来るまで持たせりゃいいんだな?」
「……何や?」
「簡単じゃん。来た時には終わってるぐらい離しときゃいい」
蓮の口元が僅かに上がり、それを聞いた今吉の笑みが止まった。
言い残して正邦側へ戻っていく蓮を、桃井は黙って見つめていた。歩き方まで違って見える。肩の使い方も、視線の置き方も、数日前に自分が見た銀城とはまるで重ならない。
「……何、今の」
「さあな」
今吉はそう答えたが、その顔からも先ほどまでの軽い笑みは消えていた。
戻ってきた蓮を見て、最初に反応したのは津川だった。
「銀城、どうしたの?」
「別に。青峰、遅刻だってよ」
「え?」
周囲にいた正邦の選手たちも反応し、岩村が眉を寄せる。
「遅刻?」
「ああ。まだ来てねえ」
普段の蓮とは違う口調に全員が一瞬だけ黙ったが、その変化自体にはもう何度か遭遇している。誠凛戦でも秀徳戦でも、銀城は突然別人のような目をすることがあった。理由は分からなくても、その状態の銀城がどんなプレーをするのかは知っている。
春日が蓮を見る。
「最初からそれで行くのか?」
「ああ」
松元も蓮の雰囲気が秀徳戦の第4Qと同じであることに気づいていた。いつもなら試合開始時の銀城は周囲を使うことを優先するが、今日は最初から明らかに違う。
「銀城、何があった?」
「青峰が来てない。それだけです」
「それで?」
蓮は桐皇のコートへ目を向けた。
「ムカついたんで」
松元は数秒だけ黙ったあと、低い声で確認する。
「自分だけでやろうとするなよ」
「しませんよ。勝つために一番いいことやります」
即答だった。その返事を聞いた松元はそれ以上止めず、「ならいい」とだけ返した。
蓮は軽く首を回しながら身体の状態を確かめる。秀徳戦では表が第1Qから第3Qまで戦ったあとに引き継いだが、今日は違う。まだ一秒も試合をしておらず、脚にも疲労はほとんどない。だからといって最初から身体の出力を最大まで引き上げる必要もなかった。
【どれぐらい使う?】
内側から表の声が聞こえる。
【半分でいい】
『青峰はいないけど、桐皇自体は強いよ』
【分かってる。油断してるわけじゃねえ】
今吉をはじめ、桐皇の選手たちの身体つきやアップ中の動きを見れば、青峰抜きでもここまで勝ち上がってきた理由は分かる。だからこそ裏には、そのチームが青峰の到着までを「前座」と呼んでいることが気に入らなかった。
【だったら見せてやるよ】
『何を?』
【前座で済む点差じゃなくしてやる】
審判から集合の声がかかり、正邦と桐皇の選手たちがコート中央へ向かう。
桃井はベンチから銀城を見ていた。顔も身体も数日前に会った時と同じなのに、どうしても同じ選手には見えない。その違和感が何なのかを考えているうちに、いつの間にか遅刻している青峰より銀城の方へ意識が向いていた。
両チームの選手が所定の位置につく。青峰大輝は、まだ会場にいない。その状態で、正邦高校対桐皇学園の試合開始を告げる笛が鳴った。
いつもの銀城蓮なら、ここから五人を動かす。だが今日、最初にコートへ立っているのは表ではなかった。