正邦高校へ入学してから、数週間が経った。
最初こそ独特に感じていた練習風景にも、蓮は少しずつ慣れ始めていた。身体の軸を崩さず、余計な力を使わない正邦特有の動きは、アメリカのストリートで身につけてきたものとはまるで違う。それでも、それを自分の中へ無理に取り入れようとは思わなかった。
正邦には正邦のやり方があり、自分には自分のやり方がある。
違うものを一つにする必要はない。互いの特徴を残したまま、同じコートの上で噛み合わせればいい。その考えは入部した頃から変わっておらず、実際に練習へ混ざる時間が増えるほど、それで問題ないという確信も強くなっていた。
蓮がボールを運び始めると、右側にいた上級生が迷わず走り出す。
入部初日の紅白戦では、誰もいない場所へ飛んでいくパスに味方まで戸惑っていた。今は違う。自分が空いてから要求するのではなく、蓮なら次に生まれる場所まで見ていると理解した上で走る選手が増えている。
守備がその動きを追い、中央に僅かな空間が生まれた。
蓮は右へ出すと見せながら、ボールを中央へ滑り込ませる。走り込んだ別の選手がそれを受け、そのままゴール下まで運んだ。
ネットが揺れる。
数週間前なら、得点した選手はまず蓮を振り返っていただろう。今は軽く手を上げるだけで、すぐに守備へ戻っていく。
それが蓮には心地よかった。
――《天瞰眼 パノラマ・ヴィジョン》。
アメリカのストリートでそう呼ばれていた眼についても、春日と岩村を中心に部内では知られるようになっていた。ただし、知ったからといって特別扱いされることはない。春日は相変わらずPGとして気づいたことを遠慮なく指摘してくるし、岩村も練習で甘く接してくれるわけではなかった。
むしろ蓮にとってありがたかったのは、周囲が眼そのものよりも、その眼を正邦の中でどう使うのかに興味を持ち始めていることだった。
練習が一区切りつき、給水のためにコートを離れようとしたところで、ボールが一つ転がってきた。
足元で止めて顔を上げると、少し離れたところに津川がいる。
「銀城。1on1やろうよ」
「休憩中だけど」
「だからちょうどいいじゃん」
何がちょうどいいのかは分からなかったが、津川は既にやる気らしい。入学してから何度か話すようになって分かったことだが、こういう時の津川は断っても簡単には引かない。
蓮が返事をせずにいると、津川はボールを拾い上げながら近づいてきた。
「銀城って、パスばっかじゃん」
「PGだからね」
「でも一人でもできるんでしょ?」
その言葉に、蓮は津川を見る。
馬鹿にしている様子はなかった。純粋に気になっているらしい。
少し離れた場所では、春日もこちらを見ていた。止める気配がないどころか、興味を持っているようにさえ見える。
蓮は小さく息を吐いた。
「一本だけね」
津川が嬉しそうに笑った。
二人が向かい合うと、周囲の選手たちも自然と視線を向け始めた。
蓮は右手でボールを弾ませながら、正面に立つ津川を見る。
普段は人を食ったような笑顔を浮かべていることが多いが、守備へ入った時の構えにはほとんど隙がなかった。ボールへ不用意に手を伸ばさず、蓮の身体全体を視界へ収めながら、どちらへ動いても対応できるだけの距離を保っている。
最初の一歩は右へ出した。
津川がついてくる。
速度を上げる前に左へ切り返しても、足は止まらない。そこで蓮は一度ドリブルを緩め、肩を僅かに右へ落とした。
今度は津川の重心が動いた。
その瞬間に逆へ切り返す。
一歩分だけ前へ出た。
普通なら、それで十分だった。肩を並べる位置まで入れば、あとは身体を前へ入れてゴールまで運べる。
ところが津川は、抜かれた後の戻りが速かった。
蓮が二歩目を踏み込む頃には横へ回り込み、進みたい場所へ再び身体を置いている。
無理に接触すれば突破できないこともないが、そこまでして押し込む必要を蓮は感じなかった。
一度後ろへ下がり、間合いを作り直す。
その瞬間、内側から不満が伝わってきた。
【今ので行けただろ】
言われなくても分かっている。
蓮が選ばなかっただけだ。
もう一人にとって、それが気に入らないことも分かっていた。彼なら一度作った僅かな優位を手放さず、接触されようがそのままゴールへ向かっただろう。
『僕がやってるんだから、放っといてよ』
【見ててイラつく】
蓮は返事をやめた。
目の前の津川へ意識を戻し、再びドリブルを始める。
今度は細かく左右へ揺さぶりながら、津川の足の位置を探った。右足が僅かに前へ出た瞬間、その外側へ踏み込み、すぐにボールを逆の手へ移す。
また抜いた。
それでも、また追いついてくる。
速さだけではない。相手が嫌がる場所へ身体を戻すことに、津川は異様なほど長けていた。
蓮は思わず口元を緩めた。
守備が好きだと言っていたのは本当らしい。
「銀城、やっぱ上手いね」
背後から追いついた津川が、楽しそうに声を掛けてくる。
褒めているはずなのに、その口調にはまだ余裕があった。
蓮が一度ボールを戻すと、津川も正面へ回り込む。
「でも、なんか普通」
その一言に、蓮ではなく内側の気配が反応した。
何を言われたのか理解するより早く、もう一人の苛立ちが伝わってくる。
蓮自身は特に腹を立てていなかった。
「普通?」
「うん。パスしてる時の銀城って、次に何されるか分かんなくて嫌なんだけど」
津川は少し考え、言葉を探すように続けた。
「今は守ってて、そんなに嫌じゃない」
悪意はない。
むしろ津川にとっては、それが純粋な感想なのだろう。
だから蓮も気にしなかった。
しかし、同じ身体の内側にいるもう一人は違った。
【……貸せ】
低い声が響く。
先ほどまでの軽い不満ではない。
蓮はドリブルを続けたまま、意識の奥でその要求を押し返した。
『嫌だよ』
返事はすぐには来なかった。
代わりに、身体の内側へ別の力が入り込んでくる感覚があった。
右手で弾ませていたボールが、急に重く感じられる。
自分の腕で動かしているはずなのに、その動作へ別の意思が重なってくる。肩の位置を変えようとする力、重心をさらに低く落とそうとする感覚、目の前の津川へ真っ直ぐ向かおうとする衝動。
昔から知っている感覚だった。
もう一人が、身体を欲しがっている。
『出てくるな』
【こいつ、俺が抜く】
『僕の1on1だろ』
【だから見てられねえんだよ】
蓮は奥歯を僅かに噛んだ。
主導権を握っているのは自分だ。それでも完全に無視できるわけではない。二人が同じ身体を共有している以上、強く前へ出ようとする意思そのものを消すことはできなかった。
そして普段なら、こういう押し合いではもう一人の方が強い。
ドン、とボールが床を叩いた。
それまでより明らかに低く、強い音が体育館へ響く。
津川の表情が変わった。
蓮の灰銀色の瞳に変化はない。髪も、身体も、何一つ変わってはいない。
それでも立ち方が違った。
僅かに開いた肩。深く落ちた重心。相手を避けるのではなく、正面から押し潰すように前へ向いた身体。
ほんの一瞬前まで、抜く場所を探していた選手ではない。
津川は理由も分からないまま腰を落とし直した。
離れた場所から見ていた春日も、無意識に目を細める。
蓮の右足が僅かに動く。
もう一人が、そのまま前へ出ようとした。
『――嫌だ』
蓮は強く押し返した。
身体が止まる。
右足は床を蹴らず、ボールだけがもう一度手元へ戻ってきた。
内側から苛立ちが伝わってくる。
それでも今度は譲らなかった。
『今日は僕がやる』
短い沈黙のあと、舌打ちするような気配が遠ざかっていく。
肩から余計な力が抜けた。
重心も元へ戻る。
時間にすれば、数秒もなかった。
「……銀城?」
津川が声を掛ける。
蓮は顔を上げた。
「何?」
「いや……」
津川は言葉を止め、目の前の蓮を見直した。
さっきまでと同じだった。
柔らかい目つきも、どこか力の抜けた立ち方も変わっていない。
「今、なんか変じゃなかった?」
「そう?」
「……気のせいかな」
津川自身にも説明できないのだろう。
蓮はそれ以上答えず、もう一度ボールを弾ませた。
今度は、自分の意思だけで。
仕切り直した蓮は、すぐには突破を狙わなかった。
津川が守備へ戻ったのを確認し、左右へ小さくドリブルを振りながら足元を見る。
表の蓮に、個人で得点する能力がないわけではない。
アメリカでストリートバスケを続けてきた以上、一人でボールを運び、一人で相手を抜かなければならない場面はいくらでもあった。ドリブルもシュートも、高校一年として見れば十分すぎるほど磨かれている。
ただ、蓮にとってそれは一番好きな方法ではない。
五人で戦えるなら、五人を使う。
それだけだった。
右へ踏み込み、津川の反応を見る。
予想通りついてくる。
そこで蓮は一度身体を起こし、速度を落とした。
津川も足を緩める。
その瞬間、もう一度加速した。
完全に振り切ることはできない。それでも今度は、追いつかれる位置まで計算して身体を前へ入れる。
横から伸びてきた手にボールを触らせないよう、反対側へ逃がす。
そのまま二歩。
リングへ軽く置いたボールが、ネットを抜けた。
蓮は着地すると、転がったボールを拾い上げた。
「一本ね」
津川はすぐには返事をしなかった。
決められたことが気になっているわけではない。
その視線は蓮の顔に向いたままだった。
「……さっきの方が嫌だったな」
「何が?」
「分かんない」
津川は首を傾げた。
「今の銀城は上手かった。でも、さっき一瞬だけ……なんか、こっち来てほしくなかった」
その言葉に、蓮は何も答えなかった。
少し離れた場所では春日もこちらを見ている。
春日にも何が起きたのかは分からない。
ただ、ドリブルの音が変わった瞬間だけは、はっきりと覚えていた。
眼を初めて見た時とは違う。
あの時は、銀城が自分たちとは違うものを見ていると感じた。
今の一瞬は、その逆だった。
銀城の眼が、自分たちではなく目の前の一人だけへ向いたように見えた。
春日は何も聞かなかった。
まだ、聞けるほどの確信がなかった。
その日の練習が終わる頃には、外は薄暗くなっていた。
蓮は鞄を肩へ掛け、一人で校門へ向かって歩いていた。
体育館で起きたことについて、もう一人から謝罪があるとは思っていない。昔からそうだった。身体の主導権を奪おうとすること自体を、彼は悪いことだとは考えていない。
二人とも、自分こそが銀城蓮だと思っている。
表と裏。
便宜上そう分けることはできても、どちらかが偽物というわけではない。同じ身体で同じ景色を見ながら、何を好み、何を嫌い、どうやって勝とうとするのかが違うだけだった。
『さっき、勝手に出ようとしただろ』
しばらく黙っていた内側へ、蓮から声を掛けた。
【あいつがムカついた】
返ってきた理由は予想通りだった。
蓮は小さく息を吐く。
津川は別に馬鹿にしたわけではない。そんなことはもう一人にも分かっているはずだった。それでも、自分たちの力を軽く見られたと感じれば黙っていられない。
そういう性格なのだ。
『僕は何とも思ってないよ』
【お前はな】
短い返事だけで、考えていることは十分に伝わった。
蓮はそれ以上言い争わなかった。
どうせ、どちらかが納得することはない。
校門が近づいた頃、内側から再び声がした。
【まあ、今日はいい】
随分と上からの言い方だった。
蓮は呆れながら歩き続ける。
【でも覚えとけ】
その言葉だけは、先ほどまでより少し低かった。
【お前じゃどうにもならねえ時は――俺が出る】
蓮の足が一瞬だけ止まった。
返事はしなかった。
できなかったわけではない。
その言葉が、間違っているとも思えなかったからだ。
表から見れば、銀城蓮は一人しかいない。
正邦の選手たちが知っているのも、灰銀色の髪をした一年生のPGと、その眼だけだった。
けれど、その身体の中には確かにもう一人いる。
同じ勝利を望みながら、まるで違う方法でそこへ辿り着こうとする、もう一人の銀城蓮が。