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試合開始の笛と同時にボールが上がった。岩村と若松が跳び、弾かれたボールへ春日と今吉が反応する。先に触れたのは今吉だった。桐皇が最初の攻撃権を取ると、正邦の選手たちはすぐに自陣へ戻り、それぞれの相手を捕まえる。
蓮の正面には今吉がいた。
「いきなりワシか」
「お前が運ぶんだろ?」
「さっきまでとほんまに別人みたいやな」
「試してみろよ」
今吉は笑ったまま右へ運び、若松を上げてスクリーンを使う。蓮は一度進路を塞がれたが、無理に追いかけず速度を落とし、今吉が若松の横を抜けた瞬間に踏み出す脚の向きを変えた。離したはずの蓮がすぐ横へ戻ってきたことで今吉は勝負を避け、外へボールを逃がす。受けた桜井が迷わず放ったシュートは津川の手より僅かに早くリングへ届き、桐皇が0―3と先制した。
青峰がいなくても桐皇の攻撃力が低いわけではない。今吉が相手を動かし、空いた場所を他の選手が迷わず使う。それぞれが自分で点を取れるだけの力も持っている。
【ちゃんと強えじゃん】
『だから言ったでしょ』
【なら遠慮いらねえな】
岩村からボールを受けた蓮の前へ今吉が入る。蓮は右手でゆっくりとボールをつきながら近づき、今吉も距離を詰めすぎず最初の動きを待った。
「来いや」
「ああ」
蓮の身体が沈み、右へ踏み込む。今吉が反応した瞬間には、完全に右へ入っていたはずの腰と肩が左へ戻っていた。急停止して無理に方向を変えたのではない。踏み込んだ身体の軸そのものを組み替え、今吉の足が床へつくより先に反対側へ加速する。
抜かれた今吉の後ろから若松が出た。蓮は速度を落とさず正面から入り、若松も逃げずに身体をぶつける。
「舐めんな!」
衝突音が響いたが、蓮の軸は崩れなかった。接触した瞬間だけ上半身を僅かに逃がし、空中で身体をリングへ向け直すと、そのまま右手でボールを置く。2―3となり、着地した若松が驚いたように振り返った時には、蓮はもう自陣へ戻り始めていた。
次の桐皇の攻撃では今吉が若松との連係から中へ入り、岩村を引きつけて諏佐へ渡す。正邦が寄ったところでもう一度外へ展開され、桜井がシュートへ入った。津川も追っていたが、その横から蓮が飛び出し、ボールが頭上へ上がるより先に距離を詰める。桜井がシュートを中止してボールを下ろしたところへ右手を伸ばし、ボールだけを弾いてそのまま奪った。
速攻へ入った蓮を今吉と諏佐が追い、二人でゴールまでの進路を塞ぐ。蓮は中央へ入りながら二人を自分へ引きつけ、間が閉じる寸前で背後へバウンドパスを通した。追走していた津川が完全に空いた状態で受け、そのまま決めて4―3と正邦が逆転する。
「自分で行かへんのか」
「行く必要ねえだろ」
今吉がその答えの意味を理解するまで、そう時間はかからなかった。蓮は二人目どころか三人目まで抜けるだけの力を持っている。それでも自分へ守備が集まった時点で味方が空いているなら、平然とボールを離す。裏にとってパスは妥協ではなく、自分で三人を抜いて二点を取るより、一人を抜いた時点で守備を崩して味方へ渡した方が早いならそうするだけだった。
8―5となったところで今吉は守り方を変えた。最初から二人をつけるのではなく、自分が一人目を受け持ち、蓮が抜いた方向によって若松か諏佐が二人目として進路を塞ぐ。蓮は今吉の左を抜くと、出てきた若松の前で一度減速し、追ってきた今吉との間に僅かな空間を作った。その隙間へ身体を滑り込ませ、若松の肩へ触れる寸前で再び加速する。
「なっ――」
二人を抜かれ、桜井までゴール下へ寄った。蓮はリングへ跳び、桜井もシュートを止めようと手を伸ばす。空中で身体を捻った蓮はリングの反対側へボールを運んだが、そこまでしておきながら自分では打たず、ゴール下へ走り込んだ岩村へ落とした。
「岩村!」
受けた岩村がそのまま叩き込み、10―5。蓮へ三人が関わった結果、最後に空いたのは正邦のセンターだった。
「おいおい」
今吉の笑みが少し薄くなった。
試合が進むにつれて、桐皇側が感じる違和感は大きくなっていった。銀城蓮が強いこと自体は分かっている。秀徳を破った試合の情報も集めており、桃井はそれ以上に細かく調べていた。
だが、聞いていた選手と違う。
「今吉さん! 右、気をつけて!」
桃井の声を聞いた今吉が先に右を塞ぐと、蓮はその動きを見て左へ切り返す。若松もすぐに前へ出て正面から受け止めたが、接触で僅かに傾いた蓮の身体は次の瞬間には元へ戻っていた。右脚を身体の下へ入れ直して崩れかけた軸をその場で組み直し、若松の横を抜く。諏佐まで寄ったところで今度は止まり、三人目が来た瞬間に逆サイドの坂本へボールを飛ばした。坂本のミドルが決まり、18―9と差が広がる。
桃井は手元の情報へ目を落とした。数日前に直接見た銀城も決して弱くはなく、青峰を相手に何度か抜いてシュートまで決めている。ただ、あの時に特徴的だったのは周囲へ広がる視線と、相手の動きを先に捉えようとするプレーだった。
今日は違う。相手が動くのを待っているのではなく、自分から守備を動かして反応させ、その後から身体の向きを変えている。普通なら体勢を崩すような切り返しや接触のあとにも遅れがなく、最初に選んだ動きを途中から別の動きへ変えているようにさえ見えた。
「銀城君……」
桃井が呟いた直後、蓮は桜井へのパスを弾いた。床を転がったボールには今吉の方が近く、先に手が届くように見えたが、最後の二歩だけで蓮の速度が変わる。身体が一気に前へ出て、今吉の指先が触れる寸前にボールを奪った。
「なんや、その加速……!」
今吉が追ったが、蓮は一度も振り返らずゴールまで走り切った。
桐皇もそのまま崩れたわけではない。今吉が攻撃を組み直し、若松が岩村とゴール下でぶつかり、桜井は一瞬の隙からシュートを沈める。青峰がいなくても一人へ依存するチームではなく、個々の能力だけを見ても東京の上位にいるだけの力がある。正邦の守備を破って得点する場面も何度もあった。
それでも差は縮まらない。
桐皇が一本決めれば、蓮が取り返す。自分で抜いて決めることもあれば、二人来た瞬間に空いた味方へ出す。速攻では先頭を走り、守備では今吉を止めた直後に桜井のシュートまで潰しに行く。派手な技を連発しているわけではなく、身体を動かす一つ一つの精度と速さが桐皇の選手たちを上回っていた。
第1Q終了を告げるブザーが鳴った時、スコアボードには37―17と表示されていた。
「二十点差……?」
ベンチへ戻った若松が荒い息のままスコアを見上げる。
「ふざけんな。青峰抜きだからって、ここまでやられるチームじゃねえだろ、俺らは」
「分かっとる」
今吉はタオルで汗を拭きながら反対側のベンチを見た。正邦の中心に銀城がいるが、座ってすらいない。立ったまま松元の話を聞き、呼吸もほとんど乱れておらず、額にも汗は浮かんでいなかった。
桃井も同じ場所を見ていた。銀城は攻撃だけではなく守備でも動き続けている。今吉を抜き、若松と接触し、桜井のシュートまで追い、速攻では誰より先に走っている。それなのに試合開始前とほとんど変わっていない。
「銀城君、まだ……」
全力ではない。数字だけでそこまで断定することはできなかったが、少なくとも限界から程遠いことだけは分かる。
正邦側では松元が蓮へ身体の状態を確認し、蓮は「余裕です」と短く答えて水を一口だけ飲んだ。
【二十点か】
『桐皇、ちゃんと強いね』
【ああ】
『もう少し上げる?』
【いらねえよ。これで十分だ】
第2Q開始のブザーが鳴った。
桐皇は守り方を変えた。今吉一人で蓮を見る時間を減らし、ボールを持つ前から進路を限定する。蓮が受ければ近い位置の選手がすぐに寄り、正邦の他の選手へボールを持たせる狙いだった。
最初の攻撃では蓮へのパスコースを消し、春日にボールを持たせることに成功する。今吉はそのまま蓮から離れず、若松も中への侵入を警戒した。
「そこまで俺につくのか」
「二十点差つけられたらな」
「じゃあ、空いてるじゃん」
蓮が動けば今吉もついていき、若松も一歩寄る。そこで蓮は急に止まり、ボールを持っている春日へ声を飛ばした。
「春日!」
春日はすぐに意図を理解した。蓮へ集まった守備の裏を坂本が走っており、春日から直接パスが通る。坂本がそのままレイアップを決めて39―17となり、今吉は思わず蓮を見る。
「……囮までやるんかい」
「勝てりゃ何でもいいんだよ」
銀城を止めるために人数を使えば、銀城はその人数ごと攻撃から消してしまう。なら一人で守るしかないが、それでは抜かれる。桐皇はその二択を延々と迫られた。
それでも今吉は諦めず、攻撃では正邦の守備を細かく動かして得点を重ねた。桜井も一本外した直後に次のシュートを決め、若松も岩村を押し込んでゴール下から点を取る。しかし正邦の攻撃を止められず、蓮が今吉を抜けば諏佐が寄り、諏佐が寄れば津川へ出る。桜井まで動けば坂本が空き、若松が中で待てば、その手前から蓮自身がミドルを沈める。
今吉が少し距離を取った場面では、蓮は迷わず外から打った。放たれたボールがリングへ触れずネットを通る。
「スリーまであんのかよ!」
若松の声にも蓮は答えず、そのまま守備へ戻った。47―21、52―25と点差が開き、桐皇はついにタイムアウトを取った。
選手たちが戻ると桃井はすぐに修正点を伝えていく。銀城が最初にどちらへ動くか、ボールを持つ位置、味方との距離、これまでの攻撃から考えられる選択肢を整理するが、説明しながら桃井自身が一番大きな問題に気づいていた。
データが足りない。
秀徳戦の銀城について集めた情報はある。数日前には自分の目でも見た。それでも今日の銀城を説明できない。秀徳戦終盤に普段とは違うプレーをしたという情報はあったが、記録だけではここまでの差を掴めていなかった。何より、自分が直接会った時の銀城と今の銀城があまりにも違う。
「さつき」
今吉に呼ばれて桃井が顔を上げる。
「分かるか?」
「……動き方は少しずつ。でも、銀城君がどこまでできるのかが分かりません。今までのデータから予測できる範囲を、今日の銀城君が超えてます。それに……」
桃井は正邦側を見る。
「まだ疲れてない」
今吉も視線を向けた。銀城は立ったままで、汗はなく、肩も上下していない。自分たちが二十点以上離され、それを追うために必死で走っているのに、相手の中心だけが試合開始前とほとんど変わっていなかった。
第2Qが再開しても流れは変わらず、むしろ桐皇が銀城を警戒するほど正邦全体が動きやすくなっていった。
蓮は《天瞰眼》を持っていない。表のように十人全員の位置を同時に捉え、数手先の空間まで支配しているわけでもない。それでも目の前の守備が自分へ何人来ているかくらいは分かる。
一人なら抜く。二人なら、抜くか出す。三人なら、その三人が自分を見ている間に最も早く得点へ繋がる場所へ渡す。判断は単純であり、その単純な選択を止められる選手が今の桐皇にはいなかった。
「二人!」
今吉と諏佐が挟み、さらに若松まで前へ出る。蓮はそれでも二人の間へ突っ込み、一歩目で今吉の横へ入り、二歩目で諏佐との接触を肩で流した。若松が正面へ来た瞬間にはボールを背中側へ回し、自分も逆方向へ抜ける。
三人が僅かな時間だけ蓮へ集まった。
その間に津川が空いた。
「津川!」
外へ飛んだボールを受け、津川が迷わずシュートを沈める。61―29となり、若松が悔しそうに声を上げた。
次の攻撃では桜井がスリーを返したが、蓮はすぐにボールを受け、今吉が守備を整えるより先に中央を抜いた。若松が出たところでリングへ跳び、空中で身体をぶつけられる。横へ流された身体をそのまま無理に戻そうとはせず、崩れた姿勢に合わせて右腕の角度だけを調整した。
ボールがリングへ入り、同時に笛が鳴る。
「バスケットカウント!」
着地した蓮が若松を見る。
「今のは悪くねえな」
「……てめえ」
「ちゃんと当たった」
フリースローまで沈めて64―32。点差は三十二点まで広がった。
今吉はスコアを確認しながら、試合前に自分が口にした言葉を思い出していた。青峰が来るまで持たせる。その時は軽い冗談のつもりでもあり、自分たちなら当然できるという自負もあった。
だが今は、本当に持たせなければならない。
このままでは青峰が来た時には、試合そのものが終わっている。
第2Q残り一分を切った時点で、スコアは72―35まで開いていた。桐皇の選手たちは汗でユニフォームを濡らし、若松は肩で息をし、桜井も呼吸を整えながら守備へ戻る。今吉も表情こそ崩していなかったが、額から流れる汗を拭う余裕はない。
その正面でボールをつく蓮だけが違った。
汗一つかいていない。
呼吸もほとんど変わらない。
試合開始直後と同じ顔で今吉を見ている。
「……化け物かいな」
「何か言ったか?」
「いや。まだ終わってへんで」
「知ってるよ。だからまだやってんだろ」
蓮が踏み込むと、今吉は今度こそ抜かせないよう最初から進路を読んで身体を入れた。蓮はそのままぶつかる直前まで進み、今吉が止まった瞬間に急停止する。そこから身体の軸を後ろへ移し、一気に距離を作った。
シュートが放たれ、ネットだけが鳴る。
74―35。
残り三十秒。桐皇が第2Q最後の攻撃へ入った。
その頃、会場の入口を一人の選手が通った。
青峰大輝は急ぐ様子もなく廊下を歩いていた。
「まだやってんだろ」
誰に言うでもなく呟きながら会場へ近づき、扉を開ける。
最初に青峰の目へ入ったのはコートではなかった。
スコアボードだった。
74―35。
「……は?」
足が止まった。
見間違いかと思ってもう一度確認するが、桐皇の側に表示されているのは三十五点。相手は七十四点だった。
青峰がコートへ目を向ける。今吉がいる。若松も桜井も諏佐もいる。全員汗だくで、明らかに余裕がない。
その中で一人だけ違う選手がいた。
銀色の髪。
「……銀城?」
数日前、自分が1on1をした相手だった。
声が届いたわけではないが、ちょうど桐皇の攻撃が終わったところで蓮がコートの外へ視線を向けた。
青峰を見つける。
【来たか】
『青峰だね』
裏の口元が上がった。数日前は内側から見ていることしかできず、表が負けるところも、そのあと青峰が興味を失って帰っていくところも全部見ていた。
今度は違う。
青峰もようやく、その違いに気づいていた。目が違う。立ち方が違う。何より、あの日自分と1on1をした時にはなかったものが、今の銀城にはある。
青峰はもう一度スコアボードを見てから、銀城へ視線を戻した。
74―35。
三十九点差。
桐皇の選手たちが汗だくになっている中、銀城蓮の額には汗一つ浮かんでいない。
その青峰を見たまま、蓮は笑った。
「遅えよ」