タイムアウトが明けた。
コートへ戻った蓮はセンターラインを越えたところで一度だけ両肩を回した。身体に異常はない。脚もまだ動く。前半を五十パーセントに抑えていた分、余力も十分に残っている。
『本当にやるの?』
【ああ】
『さっき七十くらいまで上げたばっかりだけど』
【だから何だよ。あいつ相手に刻む意味ねえだろ】
岩村からボールを受けた蓮の正面には、すでに青峰が待っていた。七十から八十、八十から九十。そして、そこから先に残していたものまで全て解放する。
何かが劇的に変わったわけではない。身体が大きくなるわけでも、目の色が変わるわけでもない。ただ蓮の中で、これまで無意識に掛けていた制限が消えた。床を踏む足の位置、膝の角度、股関節の開き、上体の傾き。肩から肘、手首、指先まで、動作に使える全てを一つに繋げる。
今の身体で出せる、通常状態の最大出力。
百パーセント。
青峰も何かを感じ取ったのか、蓮を見ながら笑みを深くした。
「……来いよ」
「言われなくても」
蓮が右へ踏み込むと青峰も即座に反応した。だが蓮は二歩目を踏まず、右脚一本で速度を殺すと、身体が止まり切るより先に重心を左へ落として逆方向へ加速する。青峰もほとんど遅れずについてきたが、僅かに半歩だけ蓮が前へ出た。
その半歩を逃さず身体を入れてリングへ向かう。青峰はすぐに差を消して後ろから腕を伸ばしてきたが、それも蓮の想定内だった。踏み切る直前に歩幅を僅かに狭め、青峰がブロックへ跳んだ瞬間に自分から接触する。空中で受けた力を腰と肩で逃がしながら姿勢を戻し、リングの反対側へ右腕を伸ばすと、ボールはバックボードを経由してネットへ落ちた。
「……ははっ。それだよ」
着地した青峰は悔しがるどころか、さらに楽しそうに笑っていた。
桐皇の攻撃になると、今吉は迷わず青峰へ渡す。蓮が腰を落とし切るより先に青峰は右へ飛び出し、その一歩目だけで蓮の肩を置き去りにした。純粋な初速なら青峰の方が速い。それでも蓮は崩された軸を《身体操作》で戻し、本来なら踏み直しが必要な姿勢からそのまま二歩目を加速へ変える。
ゴールへ入る頃には青峰の横まで戻っていた。青峰は空中で右手から左手へボールを持ち替え、それにも蓮が身体を捻って対応すると、さらにボールを下げてリングの真下を通すように腕を伸ばす。その瞬間、蓮の指先が僅かにボールへ触れた。
軌道を変えられたシュートがリングの縁を叩いて外れ、岩村が若松を背負いながらリバウンドを掴む。
「走れ!」
岩村からボールを受けた蓮はそのまま前へ出た。青峰もすぐに追い、他の八人より一段速い二人が桐皇のゴールへ向かう。フリースローライン手前で蓮が急停止すると青峰もほぼ同時に止まり、シュートへ上体を起こした瞬間には青峰の重心も僅かに上がった。
蓮はそこから再び身体を沈めて左へ抜いた。青峰はすぐに追いついてくる。それを分かっていた蓮はもう一度速度を落とし、あえて青峰を横へ並ばせたところから再加速した。
「……!」
一度抜いて終わりではない。追いつかれることを前提に、その次でもう一度抜く。
異常な敏捷性で追従してくる青峰を逆に利用して僅かな空間を作り、蓮はリングから少し離れた位置でボールを放った。青峰の手が届くより先にシュートが決まり、正邦ベンチから大きな声が上がる。
青峰が入ってから、あれほど一方的に削られていた流れが止まり始めていた。
「また上がった……」
桃井はベンチから蓮の動きを追っていた。単純に速くなっただけではない。動作と動作の間が消えている。止まってから動くのではなく、止まる動作そのものが次の加速へ繋がり、接触で姿勢を崩されても立て直してから動くのではなく、崩れている途中から次の動作が始まっている。
数日前に青峰と1on1をした銀城とは、完全に別物だった。
「大ちゃん……」
桃井が視線を移すと、青峰は笑っていた。
「寄越せ」
次の攻撃でも今吉からボールを受けると、青峰は迷わず蓮へ仕掛けた。右、左と揺さぶったあとにもう一度右へ切り返すが、その間に一定のリズムなどない。速くなったと思えば突然遅くなり、身体が流れた状態からでも次の一歩が出る。蓮は最初の二度には対応したものの、三度目で逆を取られた。
そこから追いかけても今度は間に合わなかった。青峰はゴール下まで入り、バックボードの裏側から腕を伸ばしてシュートを決める。
「一本。これで終わりじゃねえよな?」
「当たり前だろ」
二人とも笑っていた。
次の正邦の攻撃では青峰が最初から距離を詰め、ドライブの間合いを消しながら身体をぶつけてきた。速さだけで抜けないと判断した蓮は左肩を青峰へ向け、接触する直前に上体だけを僅かに前へ送る。青峰が押し返そうとした瞬間には腰を逆方向へ逃がし、互いの力が噛み合わなくなった一瞬を使って内側へ入った。
青峰もすぐに身体を戻して後ろから腕を伸ばす。しかし蓮は空中で肘の位置を変え、ブロックを避けたところから指先だけでボールを押し出した。シュートがネットを抜けると、青峰は着地したまましばらくリングを見上げていた。
青峰も取っている。銀城も取っている。
それでも攻防を重ねるほど、ほんの僅かに結果が偏り始めていた。
青峰が仕掛ければ、蓮はその全てを止められるわけではない。一歩目で置いていかれることもあれば、追いついたあとに常識では考えられない姿勢からシュートを決められることもある。それでも最初は触れることすら難しかったボールへ、少しずつ蓮の手が届き始めていた。
反対に蓮が仕掛けた時も、青峰はほとんど全てについてくる。完全に振り切れる場面などほぼない。それでも蓮には、追いつかれたところからもう一度身体を作り直す《身体操作》がある。青峰の速さを一度上回る必要はない。抜かれれば追いつき、追いつかれればまた離す。その繰り返しの中で生まれる僅かな差を、蓮は少しずつ得点へ変えていた。
「青峰が押されてる……?」
桜井が思わず呟く。
「まだだろ」
若松はすぐに返したが、今吉は何も言わなかった。青峰が一方的に負けているようには見えないし、実際に点も取っている。それでも二人だけの攻防を切り取れば、銀城の成功が僅かに上回っている。
「おもろいなぁ……」
今吉が目を細める。
再びボールを受けた青峰が蓮の前でドリブルを始めた。
「お前、さっきまでどんだけ手ぇ抜いてたんだよ」
「五十って言ったら信じるか?」
「あ?」
「前半。半分ぐらい」
青峰は一瞬だけ黙り、そのあとで笑った。
「ふざけんな」
「お前が遅えからだろ」
「言うじゃねえか」
青峰の身体が沈み、次の瞬間には一気に加速した。蓮は最初の一歩で遅れたが、二歩目で差を削り、三歩目で横へ並ぶ。そこから青峰がさらに速度を上げても離れず、肩をぶつけ合ったまま二人でゴールへ向かった。
青峰はボールを失わない。蓮も離れない。
ゴール下で先に跳んだ青峰が右腕を伸ばすと、蓮も左手を追わせた。青峰は空中で一度ボールを引いてブロックを外し、蓮が腕を戻したところでもう一度リングへ伸ばす。
そのボールを、蓮の指が叩いた。
乾いた音とともにボールがコートの外へ飛んでいく。一瞬遅れて会場がどよめき、着地した青峰がボールの消えた方向を見てから蓮へ視線を戻した。
「……マジかよ」
それでも青峰は笑っている。
蓮は軽く息を吐き、額の汗を手の甲で拭った。
「どうした?」
「……あ?」
「もっと来いよ、青峰」
最初に煽ったのは青峰だった。そして、それに見事に乗ったのは蓮だった。
だが通常状態で出せる全てを解放してから、二人の均衡は少しずつ崩れ始めている。
青峰大輝は、間違いなく化け物だった。
それでも今、僅かに前へ出ているのは銀城蓮だった。