遂に全力全開です。
第4Q、残り2分58秒。
125対126。
前半から一度もリードを許していなかった正邦が、この試合で初めて桐皇に逆転された。リングを通ったボールが床へ落ち、歓声が体育館を揺らす中、蓮はすぐにはボールを取りに行かなかった。正面では青峰がゾーン特有の光を眼から引いたまま、こちらを見ている。
《
蓮は青峰から視線を外すと、一度だけ正邦のベンチへ顔を向けた。松元がいる。コート上では岩村や津川もこちらを見ており、すぐ近くにいた春日がその視線に気づいた。
「どうした?」
蓮は少しだけ黙り、仲間たちを見回した。
「残り、全開でいきます」
岩村が蓮を見る。津川も何かを感じ取ったように表情を変え、松元は何も聞き返さなかった。何をするつもりなのか説明する必要もない。蓮は再び青峰へ向き直り、ゆっくりと息を吸った。
そして、さらに深い領域へ踏み込んだ。
瞬間、ビリッと目には見えない何かが体育館全体を走り抜けた。ベンチにいた選手が顔を上げ、観客席を覆っていたざわめきが一瞬だけ途切れる。コートに立っていた者たちはそれよりもはっきりと感じていた。肌の表面を電気が撫でたような感覚とともに空気そのものが張り詰め、体育館の中心へ一気に圧力が集まったような錯覚に襲われる。
桃井が目を見開き、今吉の表情から笑みが消える。正邦の選手たちも言葉を失う中、そのすべてを真正面から受けていた青峰だけが蓮から視線を外さなかった。
蓮が顔を上げる。その眼から光が伸び、動きのあとを追うように残像を残した。
青峰と同じ《ゾーン》。そのはずだった。
だが、同じには見えない。
青峰のゾーンが研ぎ澄まされた獣を思わせるなら、蓮のそれはもっと静かで、もっと重かった。何かを誇示するわけでも、威圧するような動きを見せたわけでもない。ただ銀城蓮がそこに立っている。それだけで体育館全体の空気が変わり、誰もが無意識にその姿へ目を向けていた。
青峰の口元が、ゆっくりと吊り上がる。
「……それ、できんのかよ」
蓮は答えない。《
《ゾーン》と《
二つが、初めて同時に重なった。
残り2分58秒、1点ビハインド。
ここから先、銀城蓮は一切残さない。
正邦のインバウンドから試合が再開された。春日は自分で運ばず、コートへ入ったところで蓮へボールを預ける。青峰も迷わず正面へ入り、互いの眼から伸びる光が残像となって揺れた。
最初に動いたのは蓮だった。
右へ踏み込む。青峰が反応する。直後に蓮は身体を沈めて左へ切り返し、青峰もほとんど遅れずついていった。ゾーンへ入った青峰の反応は依然として異常だった。普通の選手なら最初の一歩で視界から消えている。それでも青峰だけは二歩目まで蓮の横に残っていた。
だからこそ、三歩目で起きたことが際立った。
蓮が止まる。
青峰も止まる。
次の瞬間には、蓮だけが前へ出ていた。
加速の差ではない。急停止によって沈んだ重心を戻し、次の一歩へ力を伝えるまでに人間なら必ず生まれる僅かな間が、今の蓮にはほとんど存在しなかった。《
青峰も即座に追った。
それでも半歩が埋まらない。
ゴール下へ入った蓮を若松が正面から迎え、横から今吉も寄る。蓮は二人の間へ踏み込んで跳び、若松との接触で身体を外へ流されながら空中で軸を戻した。背後から追いついた青峰の腕まで伸びてくる。それを視界の端で捉えると、ボールを持つ腕だけを引き、青峰の指先が通り過ぎてから逆側へ伸ばした。
ボールがバックボードへ当たり、リングへ落ちる。
127対126。
正邦が、すぐにリードを奪い返した。
青峰は着地すると同時にボールを要求した。確かめるような時間はいらない。今吉から受け取ると、そのまま蓮へ向かって最高速で踏み込む。
純粋な一歩目なら、青峰はまだ速かった。
蓮の肩を抜く。
だが、抜いたはずの次の瞬間には横にいる。
青峰が二歩目でさらに前へ出れば、蓮も身体を立て直して並ぶ。急停止から切り返しても離れない。もう一度加速しても、今度は蓮が先に進路へ身体を入れていた。
青峰は強引に跳んだ。リングへ正対しないまま身体を傾け、右腕を外側へ逃がしてボールを放つ。これまで何度も蓮の守備を破ってきた、青峰にしか打てない軌道だった。
乾いた音が響いた。
蓮の手が、ボールを叩き落とした。
指先で僅かに触れたのではない。青峰が最後にボールを離す位置へ正確に腕を合わせ、掌で真正面から潰した。
落ちたボールを春日が拾う。正邦が走り出すより早く蓮は前へ出ており、春日も迷わずその背中へボールを送った。
青峰が追う。
桜井も走る。
今吉が先回りする。
それでも蓮の速度は落ちなかった。
今吉が正面へ入る直前に急停止し、追いついてきた青峰の身体が横へ並んだ瞬間には再び加速する。今吉と青峰の間に生まれた僅かな隙間を抜け、最後に出てきた若松の身体へ正面からぶつかるように跳んだ。
接触で身体が傾く。
その空中で、何事もなかったように軸が戻る。
129対126。
桐皇の選手たちが戻る間にも、体育館のざわめきは収まらなかった。青峰がゾーンへ入ってから、試合の流れを支配していたのは間違いなく桐皇だった。その青峰は今もゾーンから落ちていない。速さも、反応も、シュートの鋭さも変わっていない。
それなのに、流れだけが完全に反転していた。
青峰が仕掛ければ蓮が止める。蓮が仕掛ければ青峰が追う。一度は青峰が一歩目で前へ出ても、二歩目には差が消え、三歩目では蓮が進路へ戻ってくる。逆に蓮が青峰を抜けば、その半歩は最後まで埋まらなかった。
ゾーン同士の勝負であることに変わりはない。
だが、互角ではなかった。
青峰は走りながら笑っていた。
苦しいはずだった。全力を出して、それでも上を行かれている。これまでなら考えられなかった状況なのに、身体を動かすほど胸の奥に消えていた感覚が戻ってくる。
ずっと、こういう相手を待っていた。
本気を出しても倒せるか分からない相手。自分の速さへ食らいつき、無理だと思えるシュートにまで手を届かせ、それどころか自分より先へ行く相手。
かつては練習が好きだった。
上手くなることが楽しかった。昨日できなかったことが今日できるようになり、もっと速く、もっと強くなれることが嬉しかった。
それがいつからか変わった。
練習をすればするほど周りとの差が開いた。試合になれば相手は諦め、味方からさえ自分一人でいいと言われるようになった。追いついてくると思っていた連中にも追いつかれず、やがて努力する意味そのものが分からなくなった。
自分より強い奴なんて、もういない。
そう思っていた。
けれど、いた。
青峰がゴール下へ踏み込み、身体を倒しながらボールを放つ。蓮の腕が伸び、軌道を弾く。リングへ届かなかったボールを岩村が掴み、すぐに春日へ渡した。
蓮が走っている。
青峰も追う。
全力で床を蹴っている。それでも、その背中が僅かに遠い。
その背中を追いながら、青峰の胸に一つの感情が浮かんだ。
もっと練習しておけばよかった。
才能を伸ばすためでも、誰かに言われたからでもない。
今日、こいつに勝つために。
こんな奴がいると知っていたなら、練習から離れることなんてなかった。もっと走っていた。もっとボールに触っていた。もっと自分の身体を追い込んでいた。
そうしていれば、今この瞬間に出せるものは、もっとあったかもしれない。
青峰の奥歯が噛み締められる。
もう戻らない時間だった。
今さら何を思っても、過去に練習しなかった自分が消えるわけではない。目の前にいる蓮が弱くなるわけでも、この試合の点差が戻るわけでもなかった。
それでも初めて、惜しいと思った。
自分から捨てたはずの時間を。
もっと、やっときゃよかった。
その思いを振り切るように、青峰はさらに強く床を蹴った。
残り時間は少ない。
今の自分にないものを悔やんでも仕方がない。だったら、今あるものを全部使うしかなかった。
今吉からボールを受けた青峰は、再び蓮の正面へ立つ。
眼から伸びる光は、まだ消えていない。
呼吸は荒くなっている。それでも腰を落とし、ボールを強く床へ叩きつけた。
蓮も構える。
こちらもゾーンから落ちていない。
青峰は目の前の男を見た。
今度こそ、何一つ残さない。
そう思った瞬間には、もう身体が動いていた。
銀城のゾーンはちょっと特殊です。
それが最強たる所以です。
やりすぎたかな?