4月も終わりに近づき、入学したばかりの頃にはどこか他人行儀だった教室にも、少しずつ決まった人間関係ができ始めていた。
朝のホームルーム前になれば集まる顔ぶれがあり、昼休みになれば自然と机を寄せる相手がいる。蓮も例外ではなく、最初の頃こそアメリカ帰りというだけで質問攻めに遭っていたものの、三週間も経てばそれを珍しがる者はほとんどいなくなっていた。
今では英語の授業になると、少しだけ扱いが変わる程度だった。
「銀城、これ合ってる?」
昼休み、前の席に座る男子生徒が英語の教科書を後ろへ差し出してきた。開かれているのは午前中に出された課題で、蓮は食べかけのパンを机へ置いてから、その英文へ目を落とした。
「意味は合ってるけど、これだとちょっと固いかも」
「先生なんも言ってなかったぞ」
「テストなら丸になると思うよ。ただ、向こうで話すならあんまり言わないかな」
「じゃあ銀城先生、自然なやつお願いします」
「先生じゃないって」
苦笑しながらペンを借り、余白へ短い英文を書き加える。それを見ていた隣の生徒まで自分の教科書を差し込んできたため、結局、自分の昼食を食べ終える頃には三人分の課題を見ることになっていた。
アメリカにいた頃とは、何もかもが違う。学校の造りも、授業の進み方も、周囲にいる人間も違っていたが、帰国した直後に感じていた居心地の悪さはいつの間にか薄れていた。
窓の外へ目を向ければ、春の陽射しの向こうに体育館の屋根が見える。それを眺めていると、自然と放課後の練習のことを考えている自分に気づいた。
日本へ戻ってからできた、自分の居場所。
まだそう言い切るには早いのかもしれない。それでも正邦高校バスケットボール部の体育館へ向かうことは、もう蓮の日常の一部になり始めていた。
放課後、体育館へ入った瞬間に、床を蹴るシューズの音とボールが跳ねる音が重なって耳へ届いた。先に来ていた部員たちは既にアップを始めており、蓮も鞄を置いて着替えを済ませると、すぐにコートへ向かった。
反対側では、津川が上級生を相手に守備へついている。右へ抜こうとすれば身体を入れ、切り返されてもすぐについていき、シュートまで持っていかれても何が楽しいのか笑っていた。
先日の1on1以来、津川からあの時のことを聞かれたことはない。ドリブルの音が変わり、立ち方も目つきも別人のようになった僅かな時間を、本人が気のせいとして片づけているのなら、蓮から蒸し返す理由もなかった。
【相変わらず、気持ち悪いくらい楽しそうに守るな】
内側から聞こえた声にも、蓮は返事をしなかった。もう一人もあの日以来、勝手に身体を奪おうとはしていないが、反省したわけではなく、今のところ自分が出るほど面白いことが起きていないだけなのだろう。
「銀城」
呼ばれて振り返ると、春日がボールを抱えて立っていた。
「アップ終わったらこっち来い。今日はハーフで合わせるぞ」
「分かりました」
「あと、お前また昨日最後まで残ってただろ」
「シュートだけです」
「一年が先輩より先に体育館の鍵の場所覚えそうだな」
呆れたように笑いながら春日がコートへ戻っていく。蓮もその背中を追いながら、入部したばかりの頃に考えていたことを思い出していた。
同じPGである春日と、どういう関係になるのか。
ポジションだけを考えれば競争相手であり、春日も自分から場所を譲るつもりで接しているわけではない。練習中に蓮の判断が遅れればすぐに指摘が飛んでくるし、春日自身がボールを持てば、三年生として積み重ねてきた正邦のゲームメイクを遠慮なく見せてくる。
それでも、二人の関係に険悪さはなかった。春日は自分が知っている正邦のバスケットを蓮へ伝え、蓮は自分に見えているものを春日へ返す。同じPGだからこそ分かることもあり、互いに違うものを持っているからこそ聞けることもあった。
「銀城、持て!」
ハーフコートから岩村の声が飛び、蓮は春日からボールを受け取った。
視線を広げれば、岩村がゴール下で身体を張り、大室が少し高い位置へ上がってくる。坂本は左側へ開き、春日はパスを出した直後から足を止めずに右へ流れていた。そこへ守備側の足の向きや重心まで重ねると、次に生まれる配置が蓮の中で自然と組み上がっていく。
坂本へ出せば守備が左へ寄る。その動きによって右側に生まれる空間へ春日が入り始めているのを捉えた蓮は、まず坂本へボールを預け、守備が反応したところで返ってきたボールをほとんど持たずに右へ流した。
走り込んだ春日が受け取り、そのままゴール下の岩村へ落とす。岩村が確実に決めると、春日は守備へ戻りながら蓮の方を振り返った。
「今の、最初から俺が右行くの見えてたのか?」
「途中までは。春日さんが行かなかったら、大室さんに戻してました」
「可愛げねえ一年だな」
口ではそう言いながら、春日は笑っていた。
入部初日の紅白戦では、誰もいない場所へ飛んでいく蓮のパスに味方まで戸惑っていた。それが今では、蓮が何かを見つけてから走るのではなく、自分たちが動けばそこへボールが来ると信じて、一歩目を踏み出す選手が増えている。
蓮が全員を操っているわけではない。誰かが動き、その動きを蓮が捉え、そこから生まれる変化に別の誰かが反応する。正邦の選手たちが元々持っている動きの中へ蓮の視野が入り込むことで、これまでとは少し違う攻撃が形になり始めていた。
「でも銀城のパス、慣れると楽だよね」
守備側にいた津川が近づきながら言うと、春日が呆れた顔を向けた。
「お前は今、敵側だろ」
「だから嫌なんですよ。守ってると」
津川は悪びれることなく答え、そのまま蓮へ視線を移した。
「味方なら楽だけど、敵だとムカつく」
「それ褒めてる?」
「たぶん」
曖昧な返事に近くの坂本が笑い、岩村が次の一本を始めるよう声を掛ける。蓮も定位置へ戻りながら、いつの間にかこうしたやり取りの中へ自分がいることにも慣れてきたのだと感じていた。
アメリカから帰ってきたばかりの頃には、正邦という名前すら進学先の一つでしかなかった。今は岩村がどこで身体を張るのかも、春日が何を見てゲームを動かすのかも、坂本と大室がどの位置から走り出すのかも、津川が相手の嫌がる場所へどこまでもついていくことも知っている。
そして向こうもまた、銀城蓮というPGが何を見る選手なのかを知り始めていた。
練習が終盤へ差しかかった頃、松元の笛が鳴った。散らばっていた部員たちが集まると、松元は全員を見渡してから、今週の日曜日に練習試合を組んでいることを告げた。
インターハイ予選が近づき始めるこの時期、実戦形式で確認しておきたいことはいくらでもある。対戦相手と集合時間について一通り説明した松元は、最後に蓮へ視線を向けた。
「銀城。お前は最初から行くぞ」
「はい」
一度返事をしてから、蓮は少し遅れてその意味を理解した。
「PGで、ですか?」
「他に何がある」
「……分かりました」
隣にいた津川がこちらを見たが、春日と岩村に驚いた様子はなかった。数週間の練習を見た上で松元が決めたのだろうし、入部したばかりの一年生だからという理由だけで使うことを躊躇する監督でもないらしい。
それでも蓮にとっては、少し特別だった。
アメリカのストリートでも、中学時代にも何度となくバスケットはしてきた。しかし正邦の一員としてユニフォームを着て、他校と戦うのはこれが初めてになる。
【やっと試合か】
内側から聞こえた声は、普段より僅かに楽しそうだった。
『僕が出るよ』
【まだ何も言ってねえだろ】
『言う前に言っただけ』
返事の代わりに、笑ったような気配がした。
松元の話が終わると、部員たちは片づけのために散っていく。蓮もボールを拾いながら日曜日のことを考えたが、やるべきこと自体は普段と変わらないと思っていた。
自分が勝つのではなく、正邦が勝つ。
そのために自分が何をすればいいのかは、もう分かっている。
日曜日。4月の終わりとはいえ、朝の空気にはまだ少し冷たさが残っていた。
対戦相手の体育館へ入ると、既に相手校の選手たちがアップを始めている。床を叩くボールの音やシューズが擦れる音は普段の体育館と変わらないはずなのに、知らない場所で聞くだけで僅かな緊張を連れてきた。
蓮は正邦のユニフォーム姿でコート脇に立ち、相手のアップを眺めていた。
「緊張してる?」
隣から津川が顔を覗き込んでくる。
「少し」
「アメリカでも試合してたんでしょ?」
「してたけど、正邦では初めてだから」
「へえ。銀城でも緊張するんだ」
「するよ」
当たり前のことを答えただけなのに、津川は何がおかしいのか笑っていた。
やがて岩村に呼ばれ、蓮も先発組の輪へ入る。松元から出された指示は複雑なものではなく、最初から相手へ合わせるのではなく自分たちの守備を崩さないこと、攻撃ではボールと人を止めないことが中心だった。
蓮についても、特別なことをしろとは言われなかった。それでよかった。
輪が解けた時、ベンチ側にいた春日と視線が合った。春日は何も言わずに軽く顎を上げただけだったが、蓮も同じように小さく頷いてからコートへ向かった。
相手選手と向かい合い、十人がコートへ揃った瞬間、先ほどまで残っていた僅かな緊張が薄れていく。
味方が四人いて、相手が五人いる。全員の位置が一つのコートへ収まれば、そこは蓮にとって何度も見てきた景色へ変わった。
試合開始の笛が鳴った。
序盤から、正邦は落ち着いて試合へ入ることができた。
相手はボールを奪うと早いテンポで攻めようとしてきたが、正邦の守備は簡単には崩れない。身体の使い方と独特の足運びで進路を狭め、相手が望む場所へ進ませないまま難しいシュートを選ばせると、こぼれたボールを岩村が確保した。
そのボールを受け取った蓮が前を向いた時には、既に味方が走り始めている。
左側を駆け上がる選手へ相手守備が寄ろうとしていた。まだ実際に動いたわけではないが、その腰の向きと最初の一歩へ移ろうとする重心を見れば、次に何を選ぼうとしているのかは分かる。
蓮は相手が警戒した左側を使わず、中央を走る味方のさらに前へボールを送った。受け手が追いついた頃には守備との間に十分な距離が生まれており、そのままゴールまで持ち込んで正邦に得点が入った。
次の攻撃ではゴール下へ入る動きを使って外側を空け、その次には外へ広がる味方へ守備が意識を向けたところで中央を使った。蓮自身は同じことを繰り返しているつもりなどなかったが、相手からすれば一つを塞ぐたびに別の場所からボールが現れるように感じられた。
ベンチから試合を見ていた春日は、腕を組んだまま僅かに口元を緩めていた。
初日の紅白戦で見た時よりも、蓮のパスそのものが上手くなったわけではない。変わったのは周囲であり、正邦の選手たちが銀城蓮というPGを知ったことで、空いてからボールを要求するのではなく、空くと信じて先に走れるようになっていた。
それだけで《天瞰眼》から生まれる攻撃は、数週間前よりも速くなっている。
蓮自身が得点を狙う場面は多くなかったが、相手がパスだけを警戒して距離を取れば、自分で空いた場所へ入り込んだ。無理に一人を抜き切ろうとはせず、一度守備を動かしてからシュートまで持っていくため、相手も蓮を完全に配球役として扱うことはできない。
前半の途中までは、その形で正邦が主導権を握っていた。
しかし相手ベンチも、ただ同じ攻撃を受け続けていたわけではない。
タイムアウトが明けると、守り方が変わった。
蓮自身へ強く圧力をかけ、ボールを持たせないようにしてくると予想していたが、実際に相手が狙ったのはその先だった。蓮からパスを奪おうとするのではなく、受け手が走り込む場所へ身体を寄せ、ボールを受けた後に自由な体勢を作らせないようにしてきた。
それでも、蓮には相手の変化が見えている。
一つ目の動きへ守備が強く反応するなら、それによって生まれる二つ目の空間を使えばいい。蓮は無理に最初の選択肢へ通そうとはせず、相手が動いた後に空く場所へボールを運び、正邦はそれまでと同じようにシュートまで辿り着いていた。
ただ、そこから少しずつ結果だけが変わり始めた。
身体を寄せられた状態で放った一本がリングに弾かれ、その次は守備を動かして作ったシュートが僅かに外れた。相手の守備を完全に外し、フリーで打てる場面まで作った攻撃でもボールはリングの奥へ当たってこぼれ、リバウンドを拾った相手にそのまま速攻を決められた。
蓮は守備へ戻りながらスコアへ目を向けた。
先ほどまで開いていた点差が、少しずつ縮まっている。
それでも焦りはなかった。相手がどう守ろうとしているのかは既に分かっており、その守備を崩す場所も見つけている。シュートが外れたのなら、次にもう一度同じだけ良い形を作ればいい。
「次も行きましょう。空いてます」
外した味方へ声を掛けると、相手も短く頷いた。
誰かを責める必要はない。入らない時間があることくらい、バスケットを続けていれば何度も経験している。
次の攻撃でも、蓮の予測通りに守備は動いた。
右側へ二人を引きつけたことで、逆側の選手が完全に空く。そこへ出すまでの道筋にも問題はなく、受け取った味方は十分な体勢でシュートを放つことができた。
しかし、ボールはまたリングに嫌われた。
その瞬間、相手ベンチから大きな声が上がり、リバウンドを確保した選手たちが一斉に前へ走り出す。蓮もすぐに守備へ切り替えながら、その動きを視界の中へ収めた。
誰がどこへ走るのかは分かる。ボールを持った選手がどちらへ進みたがっているのかも、その先で誰が受けようとしているのかも見えていた。
だから守ることはできる。
そして次の攻撃になれば、また味方が空く場所を見つけることもできる。
そこへ最高のタイミングでボールを届けることもできるだろう。
蓮の眼には、今もコート全体が見えている。相手の守備が変わったことで視界を奪われたわけでも、《天瞰眼》が通用しなくなったわけでもなかった。
むしろ、見えているからこそ分かってしまう。
自分が味方を最も得点しやすい場所まで連れていけるのは、そこまでだった。
走り出す前に空間を見つけることはできる。そこへ誰よりも早くボールを届け、守備が追いつく前にシュートを打たせることもできる。
けれど、その先。
――自分の手を離れたボールが最後にリングを通るかどうかだけは《天瞰眼》にも見えなかった。