お待たせしました。
観客席パートです
135対130。
試合終了を告げるブザーが鳴り止んでも、観客席の熱は引かなかった。
正邦の応援席から歓声が上がり、立ち上がった観客が惜しみない拍手を送っている。その隣では今見たばかりの試合について興奮気味に言葉を交わす者もいた。試合は終わった。それでも体育館を包む空気だけは、まだ最後の数分間から抜け出せずにいる。
その中で、誠凛の選手たちも席を立てずにいた。
火神大我は両膝に肘を置き、前のめりになったままコートを見つめている。
「……あれが、青峰大輝か」
その名前なら今日まで何度も聞いている。《キセキの世代》の一人であり、その中でも圧倒的な得点力を持つ選手。黒子が帝光中学時代に共にプレーしていた相棒でもある。
どれだけ強いのかと尋ねても、黒子はいつも自分より遥かに強いと答えるだけで、火神にはいまひとつ実感がなかった。実際のプレーを見る機会がなかったのだから当然だろう。
そして今日、初めてその意味を知った。
前半には姿すらなかった青峰が、第3Qからコートへ入った途端に試合の流れを変えてしまった。
とにかく速い。しかし、それだけでは説明できない。
決まった形がないように見えるドリブルから一瞬で相手を置き去りにし、体勢を崩したまま放ったシュートさえ当然のようにリングへ沈めていく。守備でも銀城の動きに食らいつき、正邦が前半で築いた大差を少しずつ削っていった。
さらに途中から、青峰の動きに別の鋭さが加わる。
その感覚だけは、火神にも分かった。
《野性》。
自分の中にも存在するものと同じだ。
頭で考えて相手を追うよりも早く、もっと本能に近い場所で身体が反応する。火神自身、正邦との試合でその感覚を使っているからこそ、青峰に起きた変化を見間違えるはずがない。
ただし、同じ《野性》でも明らかに質が違う。青峰が剥き出しにしたそれは、火神の目から見ても異様なほど研ぎ澄まされていた。
それでも銀城は押し切られなかった。一度は青峰に流れを奪われながら、やがてそれまでの攻撃的な雰囲気を消し、異様なほど静かなプレーへ変わっていく。そこから再び青峰を止め始めたことで、火神はあれで決まるかと思った。
だが、青峰にはさらに先があった。
第4Q。再び点差を大きく広げられた青峰の眼から、光が軌跡のように伸び始める。
「……なんだよ、あれ」
思わず声が漏れる。《野性》ではない。むしろ自分も《野性》を持っているからこそ、その違いだけははっきり分かる。
速さも反応もシュートも、それまでとは比較にならない。青峰一人がさらに別の段階へ踏み込んだかのように、20点以上あった差がみるみる消えていく。銀城でさえ止めきれなくなり、最後には桐皇が逆転した。
火神はそこで、青峰の方が上なのだと思った。
ところが銀城には、まだ先が残っていた。
残り3分を切ったところで再び空気が変わり、それまでの静けさを残したまま、今度は銀城の眼にも光の軌跡が走る。青峰と同じ領域へ踏み込んだ銀城は、そこからもう一度試合をひっくり返した。
そして残された数字が、135対130。
青峰大輝が負けた。
単純なチーム力の差で決まったようには、火神には見えない。最後の数分間、二人は何度も真正面からぶつかっている。青峰が決めれば銀城が返し、銀城が抜けば青峰が追う。互いに味方を使いながらも、勝敗を左右する場面では何度も一対一になり、最後にその勝負を上回ったのは銀城の方だった。
「……ふざけんなよ」
火神の口元が僅かに歪む。
隣の日向が横目を向けた。
「何がだよ」
「あいつだよ」
火神が顎でコートを示す。その先では、銀城が正邦の選手たちと並んでいる。
「俺らとやった時、あんなの一回も出してねえじゃねえか」
日向から返事はなかった。言われるまでもなく、誠凛は正邦に119対82で敗れている。
あの時点でも銀城は十分すぎるほど異常だった。試合全体を見渡すような視野で誠凛の守備を崩し、途中からはプレースタイルまで一変した。それなのに今日の最後に見せたものはあの試合にはなく、自分たちを37点差で倒した時ですら、銀城にはまだ見せていないものが残っていたことになる。
その事実が、誠凛の選手たちに重くのしかかる。
相田リコも腕を組んだままコートから目を離さない。
「……想像以上ね」
誠凛戦のあと、銀城については何度も考えた。異常な視野とパスの精度。そして途中から見せた、身体そのものを自在に操っているようなプレー。あの試合だけでも分析できない部分は多かったのに、今日になってさらに分からないものが増えている。
「青峰君もそうだけど、最後の銀城君も……単純に速くなっただけじゃない」
伊月が頷く。
「見てるこっちまで感覚がおかしくなりました」
「あの二人だけ、動いてる速度が違ったからね」
そう答えたリコも、それ以上は続けなかった。知らないものを、知っているように説明することはできない。今言えるのは、誠凛が戦った銀城蓮はあれで終わりではなかったということだけだった。
火神はまだコートを見ている。自分たちを倒した相手が、その先でも勝ち続けていることはもちろん悔しい。しかも銀城は、誠凛戦では見せなかった力まで使って青峰を倒した。
けれど、胸の中にあるのは悔しさだけではなかった。
青峰大輝と銀城蓮。今日初めて実戦で見た《キセキの世代》と、一度完敗した相手。その二人が今の自分より遥かに先にいることを、火神は嫌でも理解してしまった。
「黒子」
「はい」
「あいつ、ずっとあんなに強かったのか?」
誰を指しているのか、黒子にはすぐ分かった。
「青峰君は、中学の頃から強かったです」
「やっぱキセキの世代でも別格だったのか?」
黒子は少しだけ考えてから、青峰へ視線を向ける。
「少なくとも、僕が一番近くで見ていた選手です。そして……僕では止められないくらい強くなりました」
火神はそれ以上聞かなかった。黒子の声がいつもより僅かに低く、その視線も勝った銀城ではなく、整列へ向かう青峰の背中を追っていたからだ。
帝光中学時代、誰よりもバスケットボールが好きだった頃の青峰を、黒子は知っている。練習にも真剣で、新しい技ができればすぐに試し、相手が強ければ強いほど楽しそうにプレーする。それが黒子の知っていた青峰大輝だった。
けれど、強くなりすぎた。
まともに戦える相手がいなくなるにつれて試合への興味を失い、やがて練習にも来なくなった。最後には、自分に勝てるのは自分だけだと言うようになる。
今日の青峰は違う。銀城に止められればさらに速くなり、決められれば今度は自分が決め返しにいく。広がっていく点差に焦り、勝つためにもっと深い場所へ踏み込んでいった。
黒子はそんな青峰を久しぶりに見た。途中からは勝敗とは別の意味でも目が離せなくなり、目の前の相手を倒すために持っているものを出し尽くそうとする姿が、かつては当たり前だった頃の青峰と重なって見えた。
「青峰君は……負けました」
黒子が静かに口を開く。
「見りゃ分かるだろ」
「はい。でも、今日ここへ来てよかったです」
「……なんでだ?」
「久しぶりに、青峰君が本気でバスケをしているところを見られたので」
火神にはその感覚までは分からない。昔の青峰を知らないのだから当然だ。ただ、黒子がそう言うのなら、今日の試合には勝敗とは別の何かもあったのだろう。
しばらく青峰を見ていた火神の視線が、やがて銀城へ戻る。
「俺、あいつに勝ちてえ」
「はい」
「青峰にも」
黒子も同じ方向を見ながら、小さく頷いた。
「僕もです」
誠凛から少し離れた観客席でも、二人の選手がまだ席を立たずにいた。
高尾和成は背もたれへ身体を預け、試合の余韻を吐き出すように長く息をつく。その隣では緑間真太郎がコートを見下ろしたまま、眼鏡の位置を直していた。
「……いや、聞いてねえって。真ちゃん、あれ知ってた?」
「何をだ」
「最後の銀城」
返事はない。
高尾は数秒その横顔を眺めたあと、呆れたように笑う。
「知らなかったんじゃん」
「うるさいのだよ」
前の座席へ両腕を置き、高尾も改めてコートへ目を向ける。
銀城蓮とはすでに一度戦っているからこそ、今日初めて銀城を見た観客とは衝撃の意味が違った。あの異常な視野も、途中からプレースタイルが一変することも知っている。秀徳戦の終盤にはさらに出力を上げた銀城とも直接ぶつかり、高尾自身、あれ以上があるとは考えていなかった。
「俺らとやった時、最後100%まで上げてたよな」
「ああ」
「じゃあ今日の最後、なんなんだよ」
高尾は笑っているが、その目にいつもの軽さはない。
100%。少なくとも身体能力の出力という意味では、あれ以上はないはずだった。今日も途中までは秀徳戦の終盤と似た動きを見せていたのに、青峰が《野性》を剥き出しにしたあと、銀城はそれまでとは違う異様な静けさを纏い始めた。
そこから青峰を止め、さらにその青峰が眼から光を引く状態へ入った時には、一度押し切られている。今度こそ銀城にも届かない場所があるのだと、高尾も思った。
だが、その直後に銀城自身が同じ場所へ踏み込んだ。
「まだ持ってたってことだろ、あれ」
緑間はすぐには答えず、眼鏡を押し上げた。
「少なくとも、俺たちとの試合では使わなかった力なのだよ」
「やっぱそうだよなぁ……俺ら、あれ無しの銀城に負けたのか」
「正確には違う」
「ん?」
「あの時の銀城が手を抜いていたわけではない。今日の最後に見せたものを使わなかったことと、秀徳戦で全力を出していなかったことは同じではないのだよ」
緑間にはそれが分かっている。
あの日の銀城は最後まで勝つためにプレーし、自分のシュートを止めるために限界まで追ってきた。最後の一本にも諦めず食らいつき、結果として秀徳はその僅かな差に敗れている。実際に対峙した緑間だからこそ、銀城があの試合で本気だったことに疑いはなかった。
ただ、今日になって分かったこともある。
あの時点で銀城自身が持つすべての力を見たわけではなかった。
それを認めることが、妙に腹立たしい。
「……気に食わんな」
「お? やっぱ気にしてんじゃん」
「黙れ高尾」
高尾は笑ったが、緑間はもう相手にしなかった。
視線の先には銀城がいる。その向こうには、試合を終えた青峰の姿も見えた。
青峰大輝の強さなら、緑間は昔から知っている。帝光時代には何度も同じコートに立ち、あの速度も、常識から外れた得点能力も、相手が強くなるほどさらにその上へ行ってしまう才能も間近で見てきた。
だからこそ、今日の青峰がどれほど深いところまで力を引き出していたのかも分かる。
その青峰が負けた。
しかも相手は、自分たちを121対120で破った銀城蓮だった。
僅か1点差。緑間が最後に放ったシュートはリングを通ったが、ボールが手を離れた時にはすでにブザーが鳴っていた。あの日から何度思い返しても、結果は変わらない。一秒にも満たない差で、自分たちは銀城に負けた。
その男が今日、自分たちとの試合では見せなかった場所まで進み、全力の青峰を倒した。
緑間の中に浮かんだのは、銀城を遠い存在として見るような感情ではない。
逆だった。
もう一度戦いたい。
今度こそ、自分のシュートで勝ちたい。
銀城がさらに先へ進んだのなら、自分もそこへ追いつけばいい。
「高尾」
「ん?」
「帰るのだよ」
緑間が席を立つと、高尾も慌てることなく後へ続いた。
「え、もういいの?」
「試合は終わった。いつまでも残っている理由はないのだよ」
「はいはい」
観客席の階段を数段降りたところで、緑間の足が止まった。
振り返った先では、正邦の選手たちがベンチへ戻ろうとしている。その中に見える銀色の髪を、緑間はしばらく黙って見つめた。
「次は負けん」
小さな声だったが、高尾には聞こえている。
普段なら何か一つ茶化していたかもしれない。それでも今日ばかりは、同じ相手に負けた一人として緑間の言葉がよく分かった。
「おう」
二人は並んで観客席を後にした。
その頃には、体育館に残っていた観客も少しずつ出口へ向かい始めていた。正邦が桐皇を倒したという結果を興奮気味に語る者もいれば、最後の青峰と銀城の攻防について何度も振り返る者もいる。
誠凛の選手たちも、秀徳の二人も、今日この場所で見たものは同じだった。
けれど、受け取ったものはそれぞれ違う。
火神にとっては、初めて目の当たりにした青峰大輝という圧倒的な存在と、その青峰さえ最後には上回った銀城との距離。黒子にとっては、かつて誰よりもバスケットボールを楽しんでいた青峰が、久しぶりに本気で勝利を求めた姿。そして緑間と高尾にとっては、一度自分たちを破った銀城に、まだ知らない先が残されていたという事実だった。
誰も、それを見て諦めようとは思わない。
むしろ逆だった。
追いつきたい。
もう一度戦いたい。
次は勝ちたい。
そんな感情をそれぞれの胸に残しながら、観客たちは試合の終わった体育館をあとにしていく。
その中心にいた銀城蓮は、まだ知らない。
青峰大輝と全力でぶつかり合った今日の試合が、自分たちだけの勝敗では終わらず、観客席にいた者たちの中にも新しい火を灯していたことを。
これで桐皇戦は終了です。
感想お待ちしております。
黄瀬はまだ戦っていないので、出すつもりはなかったです。。
嘘です、忘れてました。