桐皇学園との試合を終えた翌日。
銀城蓮が目を覚まして最初に感じたのは、全身に残る重さだった。痛みというほどではないが、ベッドから身体を起こしただけで肩から背中、腰、太腿にかけて普段とは違う張りがある。
原因を考える必要はない。昨日は青峰大輝を相手に100%まで出力を引き上げ、《
「……重っ」
誰もいない部屋で呟き、蓮はゆっくり肩を回す。
昨日の試合終了まで身体の主導権を握っていたのは、もう一人の自分だった。そこから一晩が経ち、目を覚ました今はいつも通り表へ戻っている。
『やりすぎじゃない?』
【勝っただろ】
『それはそうだけどさ。最後、かなり無茶したでしょ』
【あいつ相手ならあれくらい必要だった】
蓮はベッドから降り、足を床につけた。太腿の奥に残る疲労がさらに鮮明になり、思わず小さく息を吐く。
『最初から普通にやってれば、もっと楽だったと思うけど』
一瞬、頭の中から声が消えた。
【……うるせえ】
その返事に、蓮の口元が僅かに緩む。どうやら自覚はあるらしい。
普段のもう一人の自分なら、勝つために必要と判断すれば迷わず味方を使う。昨日のように青峰の挑発へ乗り、本来ならパスを選ぶ場面でも何度も正面から一対一を仕掛ける方が珍しい。
もっと楽に勝てる方法はあったかもしれない。それでも最後には青峰と真正面からぶつかり合い、135対130で勝った。《キセキの世代》の青峰大輝を擁する桐皇学園を正邦が破ったという結果だけは、何を言っても変わらない。
放課後の正邦高校。
体育館に集まった選手たちにも、昨日の試合の疲労は少なからず残っていた。特に後半は青峰が入ったことで試合の強度が一気に上がり、銀城だけではなく全員が普段以上に走らされている。
「お前、今日動けんのか?」
着替えている蓮を見ながら春日が尋ねると、蓮は軽く腕を回して身体の具合を確かめた。
「普通には動けますよ」
「普通には、ねえ」
「昨日あんだけやっといて普通に動けるなら十分じゃない?」
横から入ってきた津川はそう言いながらシューズの紐を締めている。蓮が「津川も結構走ってただろ」と返しても、「俺は銀城ほどじゃないって」と笑うだけだった。
しばらくして松元が体育館へ入ってくると、選手たちの会話が自然と止まった。
「今日は調整だけだ。昨日の試合について細かく言うこともない。勝った。それで終わりだ」
松元の視線が選手たちを順に通っていく。
「ただし、桐皇に勝ったからって大会が終わったわけじゃない。次も勝つ。以上だ」
短い言葉だったが、正邦にはそれで十分だった。
東京都予選、決勝リーグ。正邦が手にしたのはまだ一勝にすぎず、桐皇という最大級の相手を倒したことで全国への道が大きく開けたとはいえ、残りの試合まで勝ったことになるわけではない。
岩村が一度手を叩き、選手たちが動き始める。
この日の練習はランニングとストレッチから始まり、軽いシュート練習へ移っていった。普段と比べれば明らかに負荷は低く、身体を動かしながら疲労を抜いていくことが中心になっている。
蓮も無理に出力を上げず、軽く走りながら自分の身体の状態を確かめた。脚も肩も問題なく動く。ただ、身体の深いところには昨日の疲労が確実に残っている。
『やっぱり結構きてるなぁ』
【だからなんだ】
『いや、使ったのそっちだからね?』
【お前の身体でもあるだろ】
『こういう時だけ共有するのやめてくれない?』
返事はない。
都合が悪くなると黙るところは昔から変わらない。
蓮は苦笑しながらボールを受け取り、スリーポイントラインの外から軽くシュートを放った。綺麗な放物線を描いたボールがネットを揺らし、続けて放った一本も同じようにリングへ収まる。身体は重いが、シュートの感覚そのものに狂いはなかった。
「普通に入るじゃん」
隣から津川の声が飛んでくる。
「シュートくらいならね」
「昨日の最後のやつ、今日もできんの?」
何気ない質問に、蓮の手が僅かに止まった。
昨日、銀城の眼から光が伸びたあの状態が何なのか、正邦の選手たちは知らない。その前に見せていた異様な静けさについても同じで、彼らに分かるのは銀城のプレーが明らかに変わったということだけだ。
「今日は無理」
「へえ。やっぱ疲れるんだ」
「めちゃくちゃ疲れるよ」
「そりゃそうか」
津川はそれ以上追及せず、自分のシュート練習へ戻っていった。
蓮は手元のボールへ視線を落とす。
昨日の最後を、自分もすべて見ている。身体を動かしていたのはもう一人の自分でも、意識が途切れていたわけではない。青峰が《ゾーン》へ入り、その速度で《
『青峰君、すごかったね』
【まあな】
素直ではないが、否定もしない。それだけで蓮には十分だった。
昨日の青峰は間違いなく強かった。これまで日本で戦ってきた中でも最も危険な相手の一人であり、おそらく次に戦う時には昨日と同じ強さではない。
試合後の青峰の顔を思い出す。
負けたことに納得し、そのまま終われるような目ではなかった。
『またやるかな』
【やるだろ】
『その時は?』
【また勝つ】
間を置かない返答に蓮は小さく笑い、もう一度シュートを放った。ボールが乾いた音とともにネットを揺らす。
桐皇に勝ったことも、青峰に勝ったことも大きな一勝には違いない。それでも正邦の目的は最初からそこではなく、全国へ行き、その先でも勝つことにある。
昨日の勝利を眺め続けている時間はなかった。
数日後。
東京都予選決勝リーグ、正邦の第2戦。
相手は鳴成高校。
桐皇との試合を見た者が多く残る会場では、正邦がコートへ姿を現した時点から自然と視線が集まっていた。中でも注目されているのは、青峰大輝と最後まで打ち合い、桐皇を破った一年生――銀城蓮だった。
またあの異常なプレーが見られるのか。
そんな期待を抱く観客も少なくなかったが、試合が始まってみれば、銀城の姿は桐皇戦の後半とはまるで違っていた。
蓮がボールを運び、ハーフラインを越えながら視線を上げる。それだけでコート上にいる十人の位置と動きが一つの景色として頭の中へ入り、次の瞬間にどこへ空間が生まれるのかまで形になっていく。
右サイドで津川が動き、その裏を大室が抜ける。鳴成の守備が一歩だけ内側へ寄った瞬間には、すでに蓮の手からボールが離れていた。守備の間を通ったパスを受けた春日が、そのまま迷わずシュートを沈める。
次の攻撃では岩村へボールが入り、さらに次は津川が決めた。
蓮自身が仕掛ければ抜ける場面でも、より確率の高い場所があれば迷わずそこを使う。一人で守備を破壊した桐皇戦とは違い、今度は銀城を起点に正邦全体が動き、五人で少しずつ相手の守備を崩していく。
初めて正邦を見る観客にとっては、それが意外に映ったかもしれない。
だが、正邦の選手たちにとってはこちらの銀城の方が見慣れている。
銀城がコート全体を見て味方を動かし、最も確率の高い場所へボールを届ける。そこへ正邦の古武術を使った動きや津川の守備が重なれば、わざわざ一人で試合を壊す必要などない。
桐皇を倒した勢いだけで勝ち進んでいるわけではない。
銀城蓮だけが強いわけでもない。
正邦高校そのものが、一つのチームとして強い。
鳴成との試合は、その事実を確かめるように進んでいった。