東京都予選を終えた翌日、正邦高校の体育館にはいつもと変わらない音が響いていた。
全国出場が決まったからといって、練習まで特別なものに変わるわけではない。大会直後ということもあって負荷こそ抑えられていたが、ランニングから始まり、基礎練習を経てボールを使ったメニューへ移る流れは普段と同じだった。
蓮もいつも通り練習へ参加している。
桐皇戦の直後に残っていた疲労はすでにほとんど抜けていた。鳴成、泉真館との試合でも無理に出力を上げる場面はなく、身体に痛みや違和感が残っているわけでもない。
それでも、練習中の蓮は何度も自分の身体へ意識を向けていた。
床を蹴った時の反発。切り返した時に体幹へかかる負荷。最高速へ入るまでに必要な歩数と、そこから身体を止めるために使う力。普段なら意識する必要もない一つ一つを確かめながら動いていく。
きっかけは、やはり青峰だった。
青峰との試合で、蓮は自分の持っているものをほとんど出した。
もう一人の自分が肉体の出力を100%まで引き上げ、それでも《野性》を剥き出しにした青峰に流れを奪われた。《
135対130。
結果だけなら正邦の勝利だった。
だが、蓮の中に残ったのは勝ったという満足感だけではない。
これまで、自分たちの能力そのものについて深く考えることはあまりなかった。
表と裏。
二つの意識が同じ身体に存在し、それぞれ得意とするものが違う。蓮は《
だからこそ、個人で相手をねじ伏せる必要がある時には身体を任せればいい。逆にチーム全体を動かすなら自分がやる。それでこれまでは十分に勝ってこられた。
けれど、青峰はその考えの先まで蓮を連れていった。
もう一人の自分が100%を使っても、それだけでは勝てない相手がいる。
《
なら、次に同じような相手と出会った時はどうするのか。
また《ゾーン》へ入ればいい。
そう考えることもできる。
しかし蓮には、それが答えだとは思えなかった。
今持っているものを限界まで引き出すことと、その限界そのものを引き上げることは違う。
もう一人の自分が100%の力を出せるのは、《身体操作》があるからだ。筋肉の動きも、関節の角度も、重心の位置も、力を伝える順序も、自分より遥かに正確に扱える。
それでも、使っている身体は同じだった。
存在しない筋力を引き出しているわけではない。元々ある速度を超えて突然速くなるわけでもない。同じ銀城蓮の肉体を、自分より遥かに上手く使っているだけだ。
なら――。
蓮はボールを受けながら一歩踏み込んだ。
正面には津川。
右へ抜く素振りを見せれば、津川はすぐに反応する。蓮は無理に勝負せず、空いた大室へボールを送り、そのまま次の位置へ移った。
プレーは成功した。
それでも頭の中では、別の答えが形になり始めている。
同じ身体なら、身体そのものを強くすればいい。
今の肉体が持っている最高速度を上げる。床を蹴る力を強くし、接触しても軸を崩さない体幹を作る。高い出力を維持できる時間を伸ばし、疲労した状態でも動きの精度を落とさない身体へ変える。
そうすれば自分も強くなる。
そして、同じ身体をより余すことなく使えるもう一人の自分も強くなる。
100%という数字が変わらなくても、その中身は変えられる。
青峰戦で必要だったのは、新しい能力だけではなかった。
もっと根本的な部分。
自分たち二人が使っている、この身体そのものだった。
練習を続けながら、もう一つ考えていたことがある。
技術だった。
日本へ戻ってから、蓮は様々な選手と戦った。
火神の跳躍力。緑間のシュート。青峰の敏捷性と型に縛られない攻撃。それぞれ方向性は違っても、自分にしかできないものを徹底的に磨いた選手ばかりだった。
蓮にも《
だからこそ、それだけに頼りたくなかった。
強化した身体で何ができるのか。
今までと同じドリブル、同じシュート、同じパスを少し速く行うだけなら、伸びしろを使い切ったことにはならない。身体が変われば、今まで選べなかった動きも選択肢に入る。その状態で多くの相手と戦い、自分のプレーそのものを広げたかった。
そこで思い浮かんだのがアメリカだった。
蓮にとって、知らない場所ではない。
日本へ来る前にバスケットをしていた場所があり、身体を鍛える環境も知っている。何より、向こうには日本とは違う体格、リズム、間合いでバスケットをする選手がいくらでもいた。
ストリートでは、学校の部活のように同じ相手と決められた練習を繰り返すわけではない。
初めて見る相手と、その場で戦う。
自分より大きい相手もいれば、速い相手もいる。独特のリズムでドリブルをつく選手も、見たことのない身体の使い方をする選手もいた。
昔の自分は、そういう場所でバスケットを覚えた。
日本で青峰たちと戦った今だからこそ、もう一度あそこへ戻れば、以前とは違うものが見える気がしていた。
インターハイまで、およそ一か月。
三週間あれば、できることはある。
そして残り一週間を正邦へ戻って使えば、チームとの感覚も合わせ直せる。
そこまで考えた時には、蓮の中で答えはほとんど決まっていた。
練習終了後。
部員たちが体育館を出ていく中、蓮は一人残った。
松元はコート脇で練習メニューを確認している。
蓮はボールを片づけ、その前まで歩いていった。
「監督、ちょっといいですか」
松元が顔を上げる。
「なんだ」
「インターハイまでの一か月、最初の三週間だけチームを離れさせてほしいです」
松元の表情が僅かに変わった。
「理由は?」
「アメリカに行きたいです」
蓮は、ここまで考えてきたことを順に説明した。
青峰と戦って、今の自分の限界が見えたこと。技を増やす以前に、まず肉体そのものを一段階引き上げたいこと。身体が強くなれば自分のプレーの幅も広げられること。そして、それをするための環境がアメリカにあること。
もちろん、全国大会を前に三週間もチームから離れる重さは分かっている。
「最後の一週間は必ず戻ります。その一週間は全部チーム練習に使います」
説明を終えても、松元はすぐには答えなかった。
全国大会を控えたチームから、司令塔を三週間外す。
簡単に認められる話ではない。
「銀城」
「はい」
「そこまでして、今より強くなる必要があると思ったのか?」
蓮は迷わなかった。
「はい」
「青峰には勝っただろ」
「勝ったからです」
松元の視線が少し鋭くなる。
蓮は続けた。
「あいつに勝つために、今持ってるものをほとんど全部使いました。それでギリギリだった。でも青峰が次も同じ強さで来るとは思えないし、全国にあいつより厄介な相手がいないとも限らない」
勝てたから、自分は十分に強い。
そう考えることもできた。
けれど蓮が青峰との試合で知ったのは、自分の強さではなく、その先が存在するということだった。
「今のままで全国に行きたくないです」
それが一番簡単な答えだった。
松元はしばらく何も言わず、やがて小さく息を吐いた。
「三週間だ」
蓮が顔を上げる。
「それ以上は認めん。帰ってきたら残りは全部チームに使え」
「はい」
「怪我だけはするなよ。強くなって帰ってきても、全国で使えなきゃ意味がない」
「分かってます」
松元はそれ以上何も言わず、手元の紙へ視線を戻した。
許可が出た。
蓮は一礼して体育館を出る。
外へ出ると、夕方の空気が肌に触れた。
インターハイまで約一か月。
そのうち三週間をアメリカで使う。
短い。
身体を一から作り直すには、到底十分な期間ではない。それでも、今より強い状態で全国へ立つためにできることはある。
『決まったね』
【ああ】
『久しぶりのアメリカだ』
もう一人の自分から返事はない。
だが、蓮にはなんとなく分かっていた。
自分だけではない。
青峰との試合を経て、もう一人の自分もまた、今より先を見ている。
三週間後。
どこまで変われるかは、まだ分からない。
それを確かめるために行く。
銀城蓮は、もう一度アメリカへ渡る。