数日後。
長いフライトを終え、空港の外へ出た瞬間、蓮は足を止めた。肌に触れる空気も、周囲を行き交う人々の声も日本とは違う。聞こえてくる英語そのものに懐かしさを感じるほど離れていたわけではないが、再びこの場所へ立つと不思議な感覚があった。
『帰ってきたって感じするね』
【別に】
『絶対ちょっと懐かしいでしょ』
【うるせえ】
いつもの返事を聞きながら、蓮は荷物を引いて歩き始めた。観光をするために戻ってきたわけではない。松元へ頼み込んで作った三週間で、今の自分をどこまで変えられるのか。そのために来た。
到着した日は移動と休養に使い、翌朝から蓮は動き始めた。
久しぶりに訪れたトレーニング施設は、記憶にある姿とほとんど変わっていなかった。広いフロアには様々な器具が並び、奥には走路も設けられている。バスケットボールだけではなく、複数の競技の選手が身体を鍛えるために利用する施設で、蓮もアメリカにいた頃は何度もここへ通っていた。
ただし、当時と今回では目的が違う。以前は成長期の身体を作りながらバスケットに必要な基礎能力を伸ばすことが中心だったが、今回は限られた三週間で、すでに出来上がりつつある肉体のどこを伸ばせるのかを見極めなければならない。
だから初日から、いきなり重いウェイトを持つことはなかった。
最初に行われたのは測定だった。短距離の加速、垂直跳び、片脚での跳躍、方向転換、体幹の安定性。筋力だけではなく、動き始めてから止まるまでの一連の動作まで細かく確認されていく。
蓮は指示された通りに身体を動かしながら、自分でも一つずつ感覚を確かめていた。日本へ戻る前より確実に強くなっている。正邦で毎日練習し、誠凛、秀徳、桐皇と強度の高い試合を経験したことで、身体も以前より高い負荷へ耐えられるようになっていた。
それでも、測れば足りない部分は見えてくる。
最初の一歩も最高速度も高校生として見れば十分に高い。一方で、高い出力を何度も繰り返した時には少しずつ動きが落ち、左右への切り返しでも利き足側と反対側では僅かに力の伝わり方が違っている。普段なら問題にならない程度の差でも、青峰との試合ではその僅かな差が積み重なる領域まで身体を使った。
100%を使い続ければ疲労する。《
測定を終えた蓮は記録された数値を眺めながら、自分に必要なものを整理していく。
『やっぱり持久力かな』
【それだけじゃねえ】
『分かってるよ』
単純に長く走れる身体を作ればいいわけではない。一歩目の爆発力を上げ、切り返しで地面へ伝える力を増やし、接触されても姿勢を保つ。そして、それらを試合終盤まで繰り返せるようにする。
だからといって身体を大きくすればいいわけでもなかった。余計な重量が増えれば、今ある速度や柔軟性を殺す可能性がある。三週間という期間を考えても、筋肉量を闇雲に増やすような方法ではなく、バスケットの動きへ直接繋がる強さを作る必要があった。
そこからの日々は、想像していた以上に単調で、同時に厳しかった。
朝から下半身と体幹を中心に負荷をかけ、力を出した直後に跳び、走り、止まる。疲労した状態でも姿勢を崩さず、次の動作へ繋げることを何度も繰り返した。午後にはボールを使ったメニューへ移ったが、最初の数日はゲームには入らず、ドリブル、ステップ、シュートといった基本動作を疲労した身体で反復した。
蓮が欲しいのは、元気な状態で一本だけ速く動ける身体ではない。四十分間の試合を走り続け、それでも最後に最初と同じ精度でボールを扱える身体だった。
数日が経つ頃には、朝起きた瞬間から全身が重くなっていた。ベッドから立ち上がるだけで太腿に張りを感じる。それでも施設へ向かってウォーミングアップを始めれば少しずつ身体が動き、また同じ負荷を積み重ねていく。
『きついなぁ……』
【弱音吐くなら帰れ】
『そっちは動いてないから言えるんでしょ』
【同じ身体だろ】
『じゃあ代わってよ』
【嫌だ】
『最悪だな、ほんと』
そんなやり取りをしながらも、蓮はメニューを止めなかった。
もっとも、もう一人の自分が本当に何もしていないわけではない。身体の主導権を渡した状態でも同じ測定やトレーニングを行い、同じ肉体を二人がどう使っているのか改めて確かめる時間を作っていた。
蓮が全力で方向転換を行ったあと、身体をもう一人の自分へ渡す。構える姿勢から僅かに変わり、床を蹴って横へ飛び、止まった直後には反対へ切り返す。使っている筋肉も関節も同じなのに、力が逃げる場所がほとんどなく、結果にも明確な差が出た。
【遅え】
『同じ身体なんだから、そこまで言わなくてよくない?』
【使えてねえから言ってんだよ】
腹は立つが、否定はできない。ただし今回の目的は、その差をなくすことではなかった。《身体操作》はもう一人の自分が持つ能力であり、三週間練習した程度で自分まで同じように身体を扱えるようになるとは考えていない。
重要なのは、二人が使う土台そのものを上げることだ。
肉体が強くなれば、自分が引き出せる絶対値も上がる。もう一人の自分が100%まで引き出した時の絶対値も同じように上がる。その両方が成立する身体を作ることが、今回の目的だった。
一週間が過ぎても、鏡に映る姿が劇的に変わったわけではない。三週間で別人のような身体になるはずもなかったが、動けば小さな変化は分かる。
床を踏んだ時の感触が以前より強く、体幹へ負荷がかかっても姿勢を保ちやすい。疲労が抜け切っていない状態でも最後の一本で崩れる幅が少しずつ小さくなっている。
まだ完成には遠い。
そして、肉体へ負荷を入れるだけなら日本でもできる。
蓮がアメリカまで来た理由は、もう一つあった。
一週間目のトレーニングを終えた夕方、蓮は施設から少し離れた場所まで歩いていた。
進むにつれて街並みが変わり、見覚えのある店を通り過ぎる。何度も歩いた道へ入ると、やがて前方に金属製のフェンスが見え、その向こうからボールが地面を叩く音が聞こえてきた。
屋外コートには、まだ何人もの選手が残っている。
体格も年齢もばらばらで、学校のユニフォームを着ている者など一人もいない。誰かがドライブで抜けば周囲から声が飛び、強引なシュートが決まれば笑い声と歓声が重なる。
日本へ戻る前、蓮が何度もバスケットをしていた場所だった。
フェンス越しにコートを眺めていると、一人の選手がこちらへ気づいた。
視線が合い、その男の表情が変わる。
「Ren?」
懐かしい呼び方だった。
蓮の口元が自然と緩む。
身体を作るだけで三週間を終えるつもりはない。強くした身体で、もう一度ここへ入る。日本へ帰ってから身につけたものを試し、今の自分がまだ持っていないものを持ち帰る。
蓮はフェンスの入口へ向かって歩き始めた。