フェンスの扉を開けると、アスファルトを叩くボールの音が一段近くなる。コートではすでにゲームが続いており、多少の接触では止まらない。シュートが決まればすぐ次の攻撃が始まり、コート脇から飛ぶ声や笑い声も、体育館で行われる日本の高校バスケットとはまるで違う。
「Ren!」
先ほど蓮に気づいた男が近づいてきた。褐色の肌に短く刈った髪。蓮より少し背は低いが、肩回りは一回り厚い。マーカス――蓮がアメリカにいた頃、このコートで何度も一緒にプレーしていた男だ。
「日本に帰ったんじゃなかったのか?」
「帰ったよ。今は三週間だけ」
「三週間?」
マーカスは蓮の足元から顔まで眺め、すぐに笑う。
「じゃあ、バスケしに来たんだろ」
蓮も笑って荷物をフェンス際へ置いた。昔からここでは、細かい事情を言葉で説明するよりボールを持つ方が早い。
5対5へ入ると、久しぶりのはずなのに身体は自然にコートへ馴染んだ。
ボールを運びながら顔を上げる。右から味方がゴール下へ切り込み、その動きに守備が引かれていく。逆サイドにはまだ誰もいないが、一人の味方の重心はすでにそちらへ向いていた。
蓮の《
味方が動き出すより先にパスを送ると、ボールが届く頃には守備との間に十分な空間が生まれた。そのままシュートがネットを鳴らし、周囲から声が上がる。
懐かしい感覚だった。
アメリカにいた頃から、蓮は《
それでも、日本へ戻る前とまったく同じではなかった。
正邦では毎日同じ仲間と練習し、一つのチームとして勝つために《
能力そのものが別物になったわけではない。
見る場所。判断する順番。味方を動かすタイミング。
同じ《
数回攻撃を重ねれば、初めて組む選手の癖も見えてくる。外へ開きたがる選手、ボールを受けるとすぐリングを見る選手、守備の視線が切れた瞬間にゴール下へ飛び込む選手。それらを拾いながらパスを散らすうち、即席だった五人の動きが少しずつ噛み合っていく。
「お前、変わったな」
守備へ戻りながらマーカスが言う。
「そう?」
「前よりやりやすい。欲しいところにボールが来る」
「それならよかった」
蓮は軽く笑う。
昔の自分がチームを使えていなかったわけではない。ただ、日本で積み重ねた時間によって、その精度が上がっている。それを昔から知る相手の言葉で確認できた。
けれど、成長を確認するためだけにアメリカへ戻ってきたわけではない。
次の攻撃で、蓮はパスを選ばなかった。
正面の守備へ自分から仕掛ける。右へドリブルを運び、相手の腰が動いた瞬間に左へ切り返した。抜けると思ったところで肩同士がぶつかり、予想以上の重さが身体へ返ってくる。
日本の高校生なら、そのまま前へ出られる程度の接触だった。それでも相手はほとんど退かず、逆に蓮の軸が外へ流される。ボールを失う前に味方へ逃がして動き直したが、意識にはさっきの感触が残った。
『強いね』
【だから来たんだろ】
その通りだった。
自分より身体の強い相手。高さのある相手。日本で慣れたものとは違う間合いとリズム。
今の自分がどこまで通用するのかを見せに来たわけではない。通じないものを見つけ、それを一つでも減らすためにここへ戻ってきた。
翌日から、蓮の生活にストリートでの実戦が加わった。
朝は施設で下半身と体幹へ負荷を入れ、その直後に跳躍や短いダッシュを繰り返す。疲労した状態からもう一度強く床を踏み、止まり、切り返す。単純に筋力を増やすのではなく、得た力をバスケットの動きへ繋げるためのトレーニングが続く。
午後はボールを使い、夕方にはストリートへ向かった。身体を追い込んでから実戦へ入れば、普段なら無意識に処理している小さなズレがはっきり出る。
一歩目が僅かに遅れる。接触のあとに姿勢が戻らない。シュートへ入る時、疲労で踏み切りが浅くなる。
その一つずつを、蓮は実戦の中で修正していった。
接触で軸が流れるなら、ぶつかられる前の姿勢を変える。高さでシュートコースを消されるなら、同じ場所から跳ばない。相手がこちらのリズムに慣れれば、歩幅や踏み込むタイミングを変える。
周囲の選手が使う動きもよく見た。接触する直前に身体の角度をずらす者もいれば、ドライブの途中で突然リズムを変える者もいる。リングへ向かいながら最後までボールを身体の陰へ隠し、守備にブロックのタイミングを与えない選手もいた。
見たものをそのまま真似するわけではない。
試して、自分の動きに合うか確かめる。
合わなければ捨てる。
使えるなら、自分のプレーへ組み込む。
アメリカにいた頃も、蓮はそうやって技術を増やしてきた。今回はそこへ、日本でさらに磨いた判断力と、強くなり始めている身体が加わっている。
《
新しい能力を手に入れたわけではない。
今まで持っていたものに、選べる手段が増えていく。
二週間目の終わり。
蓮は右サイドからゴールへ仕掛けていた。正面には数日前にも何度か止められた大柄な守備がいる。
真正面からぶつかれば分が悪い。
それでも速度は落とさない。
右足を踏み込み、相手が接触に備えて身体を固める。その瞬間だけ歩幅を僅かに狭めた。
肩がぶつかる。
重い衝撃が身体へ入ったが、今度は軸が流れなかった。
蓮はそのまま二歩目を斜めへ運び、相手の身体から半歩だけ外れる。右手でシュートへ入ると、追ってきた腕がボールへ伸びてきた。
その下で左手へ持ち替える。
バックボードへ当たったボールが、リングの中へ落ちた。
着地すると、蓮はすぐに守備へ戻る。
今の動きに、特別な技は一つもない。
接触を受ける角度を変え、二歩目を残し、伸びてきた腕を見て持ち替えただけ。それでも数日前なら、最初の接触で身体を流された時点で、その後の選択肢は消えていた。
身体が残れば、次を選べる。
その僅かな余裕が、元々持っていた技術を最後まで使わせてくれる。
『今の、結構よくなかった?』
【まあな】
『珍しいね。褒めるんだ』
【誰が褒めた】
蓮は笑いながらボールを受け取った。
そこで、ふと気になる。
『やってみる?』
【何を】
『今の身体』
返事を待たず、主導権が移った。
視線から柔らかさが消え、重心が僅かに落ちる。事情を知らない者には理由など分からない。ただ、昔からこのコートにいる者なら知っている。
Renが時折、プレースタイルを大きく変えることを。
裏の蓮へボールが渡る。
一度だけ床を叩いた次の瞬間、身体が前へ出た。
鍛えた脚から生まれた力を《身体操作》が逃がさず前進へ変える。横から守備が入り、肩がぶつかった瞬間にも身体の軸はほとんど揺れない。僅かに角度を変えて受けた力を外へ流すと、そのまま相手の横を抜けてゴール下へ入った。
踏み切る。
身体が以前より高い位置まで届く。
そのままボールをリングへ押し込み、着地した裏の蓮は自分の脚へ視線を落とした。
【……悪くねえな】
『でしょ』
《身体操作》が別の能力へ変わったわけではない。
違うのは、それが扱う肉体だった。
同じ100%でも、身体そのものが強くなれば出せる速度も力も上がる。表の蓮にもこれまで以上の余裕が生まれ、裏の蓮なら強くなった肉体を《身体操作》によって限界まで引き出せる。
青峰と戦った時よりも、身体は確実に前へ進んでいた。
三週間目に入り、最初に行った測定をもう一度受ける。
数字に表れた変化は劇的なものではなかった。最高速度が突然別次元へ入ったわけでも、跳躍力が何十センチも伸びたわけでもない。
それでいい。
初速、切り返し、体幹の安定性、高い出力を繰り返した時の低下幅。三週間という短い期間で伸ばせる部分を狙った結果、それぞれに小さな改善が出ている。
見た目も大きくは変わらない。肩や背中、脚に僅かな厚みが増した程度で、服を着ていれば気づかない者もいるだろう。
だが、ボールを持てば違いは分かる。
以前より強く床を踏める。接触しても一瞬長く姿勢を保てる。疲労した状態でも、最初の一歩やシュートの精度が落ちにくくなっている。
そこへ、この場所で拾った技術が加わった。
まったく新しいバスケットを身につけたわけではない。
アメリカにいた頃から持っていた《
変えたのは土台。
増やしたのは選択肢。
その二つが、少しずつ自分のバスケットへ馴染み始めていた。
残された時間は、あと僅か。
蓮は測定を終えると、その日の夕方もストリートコートへ向かった。
三週間を使い切ってから、日本へ帰る。