シュートが入らない。ただそれだけのことなら、珍しくもなかった。
どれだけ良い形を作っても、ボールがリングに嫌われる時間はある。逆に、守備に追い込まれながら放ったシュートが何本も続けて入ることもある。それも含めてバスケットなのだと、蓮はアメリカにいた頃から何度も経験していた。
だから、焦る必要はない。少なくとも蓮は、そう考えていた。
相手の速攻を止めた正邦は、再び自分たちの攻撃へ移る。蓮がボールを受けて前を向けば、相手は自分から奪うことに固執せず、その先にいる味方の動きを制限しようとしていることが分かった。正邦の選手がシュートへ入る直前に身体を寄せ、それまで気持ちよく打てていた感覚を少しずつ狂わせようとしている。
それでも、穴がなくなったわけではない。
蓮が左へ視線を送ると、そこにいた味方がゴール下へ向かって動き出した。それを追って守備が一歩内側へ寄り、その背後では別の選手が外へ開き始めている。次に生まれる空間を捉えた蓮は迷わずボールを送り、受け手も十分な体勢からシュートを放った。
綺麗な弧を描いたボールは、リングの手前に当たって外れた。相手がリバウンドを確保すると、正邦もすぐに守備へ戻り、今度は速攻を許さずに攻撃を終わらせた。
「ドンマイ。次あります」
蓮が声を掛けると、シュートを外した選手も頷いた。
まだ大丈夫だった。問題は、同じことが何度も続いたことだった。
相手の攻撃を止めても、正邦の得点が伸びない。一本、また一本とシュートが外れるにつれて、それまで迷いなく動いていた選手たちの足に僅かな躊躇が混ざり始めた。蓮が空間を見つけても、そこへ入る一歩が遅れ、パスを受けてもすぐには打たない。リングと守備を確認するために生まれた僅かな時間が、相手に追いつく余裕を与えていた。
《天瞰眼》には、その変化まで見えていた。
味方の動きが悪くなったのなら、別の形を作ればいい。そう考えた蓮は、これまでより自分からゴールへ向かう回数を増やした。
相手PGと正面から向かい合い、ドリブルの高さを変えながら距離を詰める。右へ踏み込むと見せて守備の重心を僅かに動かし、その外側へ身体を滑り込ませると、完全に振り切る前にゴール下からヘルプが寄ってきた。
それで十分だった。
自分へ二人の視線が集まった瞬間、蓮はゴール下へボールを落とした。待っていた岩村が受け取り、身体をぶつけられながらもシュートを決めると、久しぶりの得点に正邦ベンチからも声が上がった。
「よし!」
岩村の声を背中で聞きながら、蓮はすぐに守備へ戻った。
味方のシュートが入らないなら、自分で守備を動かせばいい。パスを待つようになっているのなら、自分が得点を狙う姿勢を見せることで、もう一度味方への意識を薄くすればいい。
表の蓮にだって、一人で相手を抜き、得点する力はある。ただ、それを一番に選んでいないだけだった。
次の攻撃では、先ほどの突破を警戒した相手が距離を詰めてきた。蓮は無理に抜き切ろうとはせず、ドリブルからそのままジャンプシュートへ移り、リングの内側へ当てて得点する。
さらに次の攻撃では、蓮の突破を止めようと二人目が寄ったことで外側が空いた。そこへパスを送ると、今度は味方のシュートも決まり、開きかけていた点差が少しずつ戻っていった。
ベンチで見ていた春日は、その様子を黙って追っていた。
銀城がパスだけの選手ではないことは、最初から分かっている。あの眼があまりにも目立つせいで忘れそうになるが、ドリブルもシュートも一年生の水準ではなく、個人で守備を崩した上で、その先にある全員の配置まで見えているからこそ守る側は難しい選択を迫られる。
春日が気になったのは、そこではなかった。
銀城が自分から得点を増やしたことで、試合の流れは確かに戻り始めている。それなのに、コートにいる銀城の表情からは、得点を重ねるほど普段の柔らかさが消えていくように見えた。
蓮自身も、その理由は分かっていた。
自分が点を取ることが嫌なわけではない。必要なら取るし、最初からそうしてきた。
ただ、自分が得点を増やしたことで、味方が少しずつボールを待つようになっていることが気になった。自分が仕掛け、守備を引きつけ、空いた場所へパスを送る。それで得点できている以上、攻撃として間違っているわけではない。
それでも、自分がやりたいバスケットとは少しずつ離れていた。
【くだらねえこと考えてんな】
試合が始まってからほとんど黙っていた声が、不意に内側から聞こえた。
『別に』
【顔に出てる】
『出てないよ』
【俺には分かる】
それを言われると否定できなかった。同じ身体にいる以上、表情を隠したところで意味はない。自分が何を見て、何を感じているのかを、もう一人は誰より近い場所から知っている。
【お前が点取って勝てるなら、それでいいだろ】
『それだけじゃない』
【勝つより大事なことがあんのか?】
蓮は答えなかった。
勝ちたいという気持ちは同じだった。違うのは、その勝利へどう辿り着きたいのかだけだ。
次の攻撃で、蓮はもう一度味方を使った。
今度は自分で抜く素振りを見せず、最初から全員の動きを見て組み立てる。右側へ一度ボールを預け、自分も位置を変えながら守備を動かすと、最後にはゴール下へ走り込む味方へ完璧なタイミングでパスを通した。
しかし、シュートへ入ったところで背後から守備の手が伸び、ボールはバックボードへ届く前に叩き落とされた。そのまま相手に拾われて速攻へ持ち込まれ、正邦の戻りが僅かに遅れたことで、今度は簡単なレイアップを許してしまう。
そこから試合の流れは、再び不安定になった。
蓮が自分で得点を狙えば正邦は持ち直す。全員を動かそうとすれば、今度は味方に生まれた僅かな迷いが攻撃を遅らせる。その迷いは次第に守備へまで広がり、誰か一人のミスでは説明できない小さな遅れが、チーム全体へ積み重なっていった。
だからこそ、蓮には難しかった。
怒鳴って無理やり目を覚まさせるような性格でもなければ、ボールを集めて全部自分でやろうとも思わない。できるだけ良い形を作り、味方が本来の動きを取り戻すまで支えることが、自分の役目だと思っている。
けれど、試合はそれを待ってくれなかった。
相手のシュートが決まり、ついに点差が一桁まで縮まった。正邦の選手たちが攻撃へ戻る中でボールを受け取った蓮は、いつものようにコート全体へ視線を広げる。
疲労も、焦りも、迷いも、それぞれの身体に僅かな変化となって現れていた。それでも空いている場所はあり、次に通るパスも見えている。
蓮は前へ進みながら、そこへ味方が走り出すのを待った。
だが、いつもならあるはずの一歩目が来なかった。
その瞬間、ほんの僅かに蓮の中で何かが揺らいだ。
『僕じゃ、この流れを戻せないのかもしれない』
声にしたつもりはなかった。ただ頭をよぎっただけの弱い思考だったが、その身体には、誰よりも近い場所でそれを聞いている存在がいる。
【――そうか】
返事を聞いた瞬間、蓮は何が起こるのか理解した。
『待っ――』
止めようとした時には、もう遅かった。
身体の奥から押し上がってきたもう一人の意思が、蓮の意識へ一気に重なった。第4話の1on1では押し返すことができたが、あの時とは違い、今は蓮自身が自分のやり方を一瞬でも疑ってしまっている。
その僅かな隙を、もう一人が見逃すはずがなかった。
コート中央で足を止め、ボールを持ったまま僅かに俯いた蓮へ、近くにいた味方が不思議そうに声を掛けた。しかし返事はなく、その様子を見た春日はベンチから身体を起こした。津川もまた、数週間前の1on1でほんの数秒だけ見た異変を思い出し、何かに気づいたように蓮を見つめていた。
「……あ」
津川の声が漏れた時、蓮がゆっくりと顔を上げた。
灰銀色の瞳も、髪も、身体も何一つ変わっていない。それなのに、先ほどまでコートに立っていた銀城とは明らかに何かが違って見えた。肩が僅かに開き、重心が深く落ちているだけでなく、それまでコート全体へ広がっていた視線が消え、目の前にいる相手だけを真っ直ぐに捉えている。
「こないだの……」
津川が呟き、春日も目を細めた。
コートにいるのは間違いなく銀城蓮だった。それでも二人には、同じ身体の中から別の選手が表へ出てきたようにしか見えなかった。
対面している相手PGだけは、その意味を知らない。突然足を止めた蓮を見て何かあったのかと思ったのか、守備の構えを崩さないまま声を掛けた。
「大丈夫か?」
銀城は答えなかった。
代わりに口元が僅かに上がり、右手に収まっていたボールが床へ落ちる。体育館へ響いたドリブルは、それまでより明らかに低く、強かった。
相手PGは反射的に腰を落とした。そこまでは、間に合っていた。
銀城が身体を沈めた直後、目の前からその姿が消えたように感じた。右へ来るのか、左へ来るのかを判断する時間すら与えられないまま銀城の身体が一気に横を通り抜け、最初の一歩には反応したはずの相手PGが振り返った時には、既にその背中が数歩先にあった。
「は……?」
相手PGの口から、意味のない声だけが漏れた。
ベンチから見ていた春日にも、細かな動きまでは分からなかった。先ほどまでの銀城なら、守備の重心を動かし、できた隙間へ入っていく過程が見えていた。しかし今の突破には、そのための時間そのものが存在しなかったように見える。
ただ一つ分かったのは、速いということだけだった。
ゴール下の守備が慌てて前へ出たが、銀城がそこへ到達する方が早かった。守備が正面へ身体を入れ切る前に銀城は踏み切っており、遅れて伸びた腕が空中の身体へぶつかると、鋭い笛が体育館へ響いた。
接触によって身体は大きく横へ流された。それでもボールを失わなかった銀城は、崩れた姿勢のまま無理やりシュートを放つのではなく、空中で腰と肩の角度を組み直しながら、ブロックを避けるようにボールの位置まで変えていく。その修正はあまりにも速く、見ている側が何をどう直したのか理解する頃には、既に右腕がリングへ向かって伸びていた。
下から放たれたボールがバックボードへ触れ、そのままリングへ落ちる。
「バスケットカウント! ワンスロー!」
審判の声が響いてからも、相手PGはゴール下を見たまま動かなかった。自分は確かに構えており、抜かれる瞬間も見ていたはずなのに、何をされたのかが分からない。
正邦ベンチも似たようなものだった。津川は目を見開いたままコートを見つめ、春日もいつの間にかベンチから立ち上がっている。
「……速っ」
津川がようやく漏らした言葉に、春日は返事をしなかった。
ただ速いだけなら、まだ理解できる。春日が気になったのは、あれだけの速度で相手を抜き、そのままヘルプと接触して身体を飛ばされながら、最後のシュートまで動きが一度も破綻しなかったことだった。
銀城は何事もなかったように立ち上がると、審判からボールを受け取ってフリースローラインへ立った。先ほどまでの蓮なら一度リングを確認し、呼吸を整えてから打っていたはずだが、今はボールを一度床へ落としただけで、ほとんど間を置かずに放つ。
ボールはリングに触れることなくネットを通り抜けた。
3点プレー。
銀城は自陣へ戻りながら、先ほど抜いた相手PGへ視線を向けた。その顔には、追いつかれかけているチームの選手とは思えないほど楽しそうな笑みが浮かんでいた。
「やっと俺の番か」
その声を聞いた春日は、数週間前に抱いた違和感が気のせいではなかったことだけを確信した。何が起きているのかはまだ分からないが、今コートにいる銀城蓮が、さっきまでの銀城蓮とはあまりにも違っていることだけは疑いようがなかった。