自室のドアの鍵をしっかりと締め、僕は荒い息を吐きながら部屋の中を歩き回った。
「ここから逃げる……絶対に逃げる……」
頭の中では、生まれ持った冷徹な計算と鋭い観察眼が目まぐるしく回転していた。
「僕はただの7歳のガキだ。しかも、ロッド・レイスが密かに産ませた妾の子。こんなところで『記憶を消されていた』なんて知れたら、次は間違いなく殺されるか、完全に脳を壊される……!」
壁に貼られた広大な地図を鋭い目で見つめ、指先で辿る。
今いるのはウォール・ローゼ北部、オルブド区近郊のレイス領地だ。
「壁の中は果てしなく広い……次の街へ行くだけでも見渡す限りの草原だ。徒歩で逃げたら数日で野晒しの死体になる。馬か乗合馬車が絶対に必要だ……」
逃げ場所の候補を思考から弾き出していく。
「普通の街じゃダメだ。中央憲兵の捜索網にかかれば一発で捕まる。追手が来ない場所……憲兵も足を踏み入れず、王政が『勝手に野良犬のように死ぬだろう』と放置する場所……」
指が止まったのは、ウォール・シーナの中央──王都ミトラスの真下に位置する場所だった。
「……『地下街』だ。あそこなら、僕の身分も存在も完全に消せる」
僕は部屋の奥から、自作の大型革バッグを引きずり出した。大人でも背負うのが重労働な代物で、7歳の僕の身長と比べれば、二回り以上もでかい。
「必要なものは全部持っていく……!」
命綱である『日記』、数週間分の干し肉や堅パン、水筒、ナイフ、ロープ、そして質素なボロ服を5着。持ち前の並外れた危機管理能力と準備癖が働き、バッグはパンパンに膨れ上がった。
さらに、レイス家の本家からあらかじめ盗み出しておいた、家が一軒買えるレベルの「鋼貨」の束。僕はバッグの底に仕込んだ二重底の隙間へそれを滑り込ませ、固く隠した。
着ていた貴族らしい上等な服を脱ぎ捨て、泥で汚したボロ服に着替える。
「良家の子どもだと見られたら、山賊や人買いの格好の標的になる。これでいい……」
自分よりはるかにデカいバッグを背負い、両肩に食い込むズッシリとした重みに耐える。
「ぐっ……重い……! でも、負けるか……っ!」
窓枠に手をかけ、夜陰に紛れて部屋を飛び降りた。
暗闇の中、遠くに見える母屋の灯りを一度だけ振り返り、僕は固く誓った。
「待っていて、ヒストリア姉さん。今は連れて行けないけど……僕が強くなって、この世界のカラクリを全部暴いたら……絶対に助けに来るから!」
僕は夜の風を切り、一度も振り返ることなく牧場を駆け抜けていった。
【1日目】
夜が明ける頃、僕はレイス領を脱出し、どこまでも続く地平線の草原へと出た。
自分よりデカいバッグを背負って歩くのは、子供の足では数キロが限界だった。僕は街道沿いの小さな開拓集落へ向かい、馬を繋いでいた農夫の男に声をかけた。
「おじさん。その馬を僕に売ってくれないか?」
「あぁ? ガキが何言動いてやがる。失せな」
「……これでもかい?」
二重底から取り出した本物の鋼貨を一枚見せると、男の目がひん剥いた。
「っ……!? おいガキ、それ本物か!?」
「本物だよ。この馬と、鞍と手綱をくれたら、この金をあげる」
「……買いだ! さっさと乗って失せろ!」
手に入れた小柄な乗用馬。7歳の脚力では跨るのも一苦労だったが、僕は天性の鋭い身体感覚で手綱を力強く握り直した。
「よし……行こう」
見渡す限りの青い草原。冷たい風を浴びながら、僕はひたすら南へと馬を走らせた。
【7日目】
果てしない草原を突き進む日々。
野宿を重ねるうちに食料は激減し、水筒の水も尽きかけていた。
「ハァ……ハァ……っ……」
7歳の幼い身体にとって、何日も馬に揺られ続けること自体が激しい拷問だった。太ももとお尻の皮が擦りむけて血が滲み、全身の骨がギシギシと悲鳴を上げる。
鏡を見るまでもなく分かった。幼児特有の頬の丸みは完全に削ぎ落とされ、顔つきはやつれ、肋骨が浮き出るほどガリガリに痩せこけていく。泥と汗にまみれ、まるで飢えた野良犬のようだった。
【15日目】
途中で馬が限界を迎えどうすることもできないため、置いていき、歩かざるを得ない時間が増えた。
自分より二回りも巨大なバッグを背負い、泥まみれのボロ服を着て、ガリガリの体でよろよろと歩く。
「くそっ……頭が……っ」
「馬さんバイバイ……」
記憶を無理やり取り戻した時の頭痛の余韻と、極限の疲労。視界が何度も斑点状に暗くなった。だが──
「負けたくい……。二度と……記憶を消されたくない……っ!」
野生の執念だけが、僕の足を前へ前へと動かしていた。
【20日目】
ついに、ウォール・シーナの巨大な城壁の麓にある関所都市へ到達した。
門の前には、槍と銃を構えた中央憲兵団が厳重な検問を敷いている。
ボロ服を着たガリガリのガキが一人で通ろうとすれば、怪しまれて即座に捕まるか追い払われるのは目に見えていた。
僕はシーナ内部へ高級品を運び込もうとしている商隊の親方に歩み寄った。
「おい、どけガキ。邪魔だ」
「親方……僕をシーナの中に連れて行ってほしい。荷台の酒樽の陰に隠してくれ」
「ハッ、バカ言え! お前みたいな薄汚ねぇガキ乗せて検問で見つかったら、俺の首が飛ぶわ!」
「……これでも、断るかい?」
僕は二重底から取り出した大金の「半分」──ズッシリと重い鋼貨の袋を親方の目の前に突きつけた。
親方の顔から余裕が消え、猛烈な強欲の色が瞳に宿る。
「っ……おい、ガキ……それ、どこで手に入れた……!?」
「無事にシーナの門をくぐり抜けたら、これを全部あげるよ。半分は今、残りは門を越えたあとだ。嫌なら他の商隊に頼むだけだけど?」
「……へっ、悪知恵の働くクソガキだ。乗れ! 樽の裏に隠れて息を殺してろ!」
商隊の荷台、酒樽の隙間に身を潜める。
門の検問で、憲兵が「積み荷のチェックだ」と声をかけてきたが、親方はアランから受け取った金の一部をスッと憲兵の手に握らせた。
「……おう、異常なし! 通れ通れ!」
あまりにもあっさりと開く門。
大人の「強欲」と組織の「腐敗」のおかげで、僕は一度も姿を見せることなく、ウォール・シーナへの潜入に成功したのだった。
【41日目】
シーナ内の繁華街。親方に残りの金を叩きつけるように渡すと、僕は通りがかりの男の服の袖を強く引っ張った。
「あの……この街のどこかに……地下へ降りる場所があるでしょ……それはどこ……?」
「あぁ? 地下街か? シーナの端っこ、裏路地の奥に階段があるが……おいガキ、顔色が──」
男が場所を口にした瞬間、僕は話の続きすら聞かずにその場を即座に去った。
もう、考える余力も、誰かと話す感情すら残っていなかった。
41日間に及ぶ極限の旅。空腹、疲労、激痛、恐怖。僕の心は限界まで摩耗しきり、ただ機械的に脚を動かしているだけだった。
裏路地の奥で見つけた、地下へと続く薄暗い長大な石造りの階段。
トントン、トントン、と階段を降りていく。
地上からの穴から日が漏れて、カビと湿気の匂いが鼻を突く。見上げた天井は、見渡す限りの本物の岩盤だった。
「……着いた……」
感情の消えた頭で、ぽつりとそれだけを呟いた。
だが、本当の地獄はここからだった。
ガリガリに痩せた身体で、自分より二回りも巨大なバッグを背負い、フラフラと地下街の暗闇を歩いていた時のことだ。
「おいおい……見ねえ顔のガキが、えらく重そうなもん背負って歩いてるじゃねえか」
暗がりから、下品な笑い声を上げて3人のチンピラが立ち塞がった。
「自分よりデカいバッグだな……中身、全部置いていきな」
ギラリとナイフが光る。
だが、今の僕には抵抗する力も、声を上げる気力も、恐怖すら湧き上がってこなかった。ただぼーっとした目で、目の前のナイフを見つめることしかできない。
「なんだコイツ、声も出ねえのか? けっ、つまんねえガキだ!」
ドカッ! と激しい衝撃が腹に走り、僕は石畳の上に倒れ込んだ。
「おい、バッグよこせ! 履いてる靴も、上着も全部脱がせろ!」
「へへっ、結構上等なナイフや食料が入ってんぞ! 運がいいぜ!」
チンピラたちは僕のバッグを奪い取り、身につけていた上着や靴、ポケットの中身に至るまで、文字通り『すべて』を強奪していった。
「ハハハッ! ありがとよ、ボロ服のガキ! 死なねぇ程度に転がってな!」
高笑いと共に去っていく男たち。
冷たい石畳の上に残されたのは、ボロいシャツとズボン一枚だけになった、ガリガリの僕だった。
大切な日記も、食料も、着替えも、命の綱だった大金も……全部、奪われた。
「……あ……」
声すらまともに出ない。
涙も出なかった。感情が摩耗しすぎて、絶望することすらできなかったのだ。
僕はフラフラと立ち上がると、裸足のまま、冷たい石畳の上を当てもなく歩き始めた。
放浪だ。どこへ行く宛てもない。着の身着のまま、ただ影のように地下街の暗闇を彷徨う。
どれくらいの時間が経っただろう。
お腹が減っているのかすら分からない。視界はすっかりかすみ、世界がゆらゆらと揺れていた。
路地裏の壁に寄りかかり、僕は力なくその場に座り込んだ。
その時──暗がりから、先ほどとは別のガラが悪い男たちが歩み寄ってくるのが見えた。
「おい、なんだこの死にかけのガキは。邪魔だな、蹴り飛ばして路地裏に捨てとけ」
「けっ、目障りなんだよ!」
男がドス黒いブーツを振り上げ、僕の頭を蹴り飛ばそうとした、その瞬間。
──頭上から、一筋の黒い影が舞い降りた。
「ガあぁぁぁっ!?」
耳を突く鮮烈な破壊音と、男の悲惨な悲鳴。
影は一瞬で蹴りを放とうとした男の膝を逆方向に折り曲げ、さらに落ちてきたナイフを空中で掴むと、二人目の男の肩口へ深く突き刺した。
「ひ、ひいいいっ!? な、なんだコイツはぁぁっ!?」
最後の男が腰を抜かし、脱兎のごとく逃げ出していく。
静まり返る暗闇の中。
血を流して転がる男たちの真ん中に、その影は静かに立っていた。
その男は血のついたナイフを胸元で一振りして血脂を払うと、壁際にへたり込んでいる僕を見下ろし、忌々しそうに舌打ちした。
「……チッ。薄汚ねぇガキが……人の行き道の真ん中で転がってんじゃねぇよ。死にてぇのか」
凄まじい威圧感と、肌を刺すような殺気。
だが、僕の頭はぼーっと霞んでいて、恐れることすらできなかった。
ただ、天性の観察眼だけが、目の前の青年の異次元な体の使い方と動きの無駄のなさを捉えていた。
「……お兄さん……」
ひび割れた唇から、かすれた声が漏れ出た。
「……今の……手の動き……すごい……。なんで……そんな風に……動けるの……?」
「あぁ……? なんだお前。身ぐるみ剥がされた挙句、頭まで湧いてんのか」
男は冷ややかな目で僕を見下ろし、呆れたように息を吐いた。
「見て分からねぇのか。ここは地下街だ。身ぐるみ剥がされて死ぬか、奪って生き残るか……それしかねぇ場所だ」
「……そう……なんだ……。僕……もう……なんにも……持っていないや……」
かすかな呟きを残し、アランの視界が急速に暗転していく。
41日間の過酷な旅、すべての奪取、そして極限の疲労。張り詰めていた意識の糸が、完全にぷつりと切れた。
「おい、ガキ──」
男はの驚いたような声が遠くで聞こえた気がしたが、確認する術はなかった。
アランはリヴァイの足元に崩れ落ちるように倒れ込み、そのまま泥のような深い眠りへと落ちていったのだった。
地下街の入り口が全くわかんなかった。実際に行くことがほとんどなかったので、原作は