雨が静かに降り続く、流魂街の奥深き廃墟。
幼き日の天理が息を潜めて立っていたその場所に、一振りの刀が突き刺さっていた。
鞘はなく、刃は漆黒。だが、その刀身に触れようと手を伸ばした瞬間、天理の脳裏に直接、言葉ではない「理(ことわり)」そのものが流れ込んできた。
『——我は天の理を覆す者』
『我が前に立つ者に、次なる瞬間(とき)は訪れぬ』
手に触れた途端、世界の時間が一瞬だけ止まったかのような錯覚。視界に入る雨粒の一つひとつが空中にとどまり、次の瞬間、天理の意思とは無関係に、周囲の空間そのものが打ち払われた。
『我が名は——百花繚乱』
己の存在すらも塗り替えてしまうほどの絶対的な力。世界の法則そのものを先制して書き換えてしまうその異質な気配に、天理は幼心に悟った。
「これは……振るってはならない力だ」
天の理を覆す力を持つ者——「七瀬天理」という名と、呪いにも似た最強の斬魄刀との邂逅。それが、すべての始まりだった。
流魂街の果て、誰も足を踏み入れぬ深い竹林。
雨音だけが静かに響くその静寂の中、天理は一人、漆黒の刀身を持つ『百花繚乱』を前に腰を下ろしていた。
精神世界——そこは、一面に咲き誇る白と朱の牡丹が、無限の闇に浮かび上がる美しい異空間であった。
その中央に佇むのは、濡れたような黒髪をなびかせ、気品あふれる着物を纏った知的な美貌の女性。凛とした切れ長の瞳が、静かに天理を見つめている。
「……また、自らの力を抑え込もうとしているのですね、天理」
彼女の声は、涼やかで澄んだ鈴の音のように響いた。斬魄刀の本体——『百花繚乱』である。
「私は目立ちたくないと言ったはずだ。お前の力は……あまりにも暴力的で、世界の理(ことわり)を乱しすぎる」
天理が淡々と答えると、彼女は薄く、知的な笑みを唇に浮かべた。その眼差しは、幼い頃から見守ってきた天理の性質をすべて見透かしている。
「『暴力的』……ふふ、心外ですね。私はただ、あなたに害をなそうとする『理(未来)』を、それが発生する前に摘み取っているだけに過ぎません。最も合理的で、洗練された自衛の形だとは思いませんか?」
「その『摘み取り方』が問題なのだ。お前の先制打撃は、敵の存在そのものを空間ごと粉砕する。加減というものを覚えてくれ」
「加減、ですか。不条理な敵に対して容赦をする必要がどこにあります? それに……」
彼女はしなやかな足取りで天理に近づくと、その細く白い指先で天理の頬に優しく触れた。冷ややかで、けれどどこか温かい霊圧が肌を撫でる。
「あなたは知っているはずです。私が真に牙を剥くのは、あなたがその美しき瞳を奪われた時……『終極』の刻のみ。通常時において、私が打ち込む一撃の精度と間合を調整できるのは、世界でただ一人、私の主であるあなただけなのですよ」
天理は微かに目を細め、彼女の指をそっと押し返した。
「……分かっている。だからこそ、こうして精神対話で貴様と間合の擦り合わせをしているのだろう。コンマ数秒の先制……相手の命を奪わず、ただ刀を弾き飛ばすだけに留める精度を、私に寄越せ」
その言葉に、美しき斬魄刀は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに満足げな、どこか愛おしそうな溜め息を漏らした。
「ふふ……どこまでも欲深いお方。私の持つ『絶対破壊』の理をねじ曲げ、寸止めの技術に書き換えようなどと……本当に、天の理を覆すのがお好きなのですね」
彼女はゆっくりと天理の前で膝を折り、その手に静かに重なった。
「良いでしょう。私の知性と能力のすべてを、あなたのために制御してみせます。……ですが天理、覚えておきなさい。もしも誰かがあなたを壊そうとしたならば、私はあなたの意志すら無視して、この世界を『百花』で埋め尽くしますから」
「……善処してくれ」
静かな精神世界で交わされた、天理と美麗なる斬魄刀の知的なる契約。
目覚めた天理の手の中で、漆黒の刀身が一瞬だけ美しく揺らめき、静かに鞘へと収まった。