五番隊執務室。深夜。
月光すら届かぬ暗闇の中、藍染惣右介は書類の山を前に、静かに茶を口に含んでいた。
その表情は、いつもの温厚で柔和な副隊長(あるいは隊長)のそれではない。眼鏡の奥に宿る瞳は、冷酷な計算と、それを上回る純然たる困惑に揺れていた。
「……解せないな」
藍染は、手元の極秘資料に視線を落とす。そこには、十三番隊の担当区域である現世および流魂街末端における「特殊実験」の記録が記されていた。
本来であれば、彼の計画は完璧であるはずだった。
死神と虚の境界を削り、仮面の軍勢(ヴァイザード)を生み出す試作段階として、あるいは志波海燕をはじめとする十三番隊の優秀な人材を削り落とす布石として、彼は幾度となく「実験体(虚)」を十三番隊の管轄区域へ送り込んできた。
知能を持つ特異な虚。
霊圧を完全に遮断する隠密型の虚。
そして、隊長格すら脅かす巨大な大虚(メノスグランデ)の群れ。
いずれも、十三番隊を混乱に陥れ、志波海燕や浮竹十四郎を追い詰めるには十分すぎる戦力のはずだった。
しかし、ことごとく「何も起きない」のだ。
「……先週送り込んだ、霊圧隠蔽型の特異個体。十三番隊の志波海燕が巡回するルートへ正確に配置したはずだが……」
報告書によれば、その虚は志波海燕と接触する前に、原因不明の消滅を遂げている。
戦闘の痕跡すら残っていない。広大な竹林の中で、ただ「存在そのものが唐突に粉砕され、消えた」とだけ記録されているのだ。現場に残されていたのは、無傷で佇む十三番隊の平隊員——七瀬天理が、呑気に竹箒で落ち葉を掃いていたという不自然な目撃情報のみ。
「まさか、浮竹隊長の病状が偽りで、影から動いているわけでもあるまい。……志波海燕の覚醒でもない。ならば、あの場所にいた『ただの平隊員』が関与しているとでも?」
藍染の頭脳が目まぐるしく回転する。
自らが極秘裏に作り上げた精鋭の虚たちが、十三番隊の領域に入った瞬間にコンマ数秒で「処理」されている。
それはまるで、「虚が襲いかかろうとした未来そのものが、発生する前に摘み取られている」かのような不気味さだった。
「私の目を盗み、私の計算をことごとく狂わせる存在が……あの十三番隊(あるいは一番隊からの派遣)の陰に潜んでいるというのか?」
藍染はゆっくりと眼鏡を外し、目元を押さえた。
完璧を期す己の計画。鏡花水月をもってしても、相手が「視認した瞬間に全てを叩き潰す」ような理外の力を持っていた場合、術をかける隙すら存在しないのかもしれない——そんな不吉な思考が、一瞬だけ脳裏をよぎる。
「……七瀬天理。ただの無能を演じる平隊員。……いや、あまりにも『無風』すぎる。あの男の周りだけ、世界の理が不自然に整いすぎている」
藍染は小さく溜め息をつくと、静かに笑みを浮かべた。だが、その笑みには冷や汗のような不穏さが混ざっている。
「面白い……実に不愉快だが、興味深い。私の計画の障壁となるのが、護廷十三隊の頂たる山本総隊長でもなく、あの『影の薄い平隊員』だというのなら……」
藍染は再び眼鏡をかけ、漆黒の闇の中へと視線を向けた。
「次は、もう少し『目立つ』実験体を送り込むとしよう。……君のその隠し通している刃、どこまで隠しきれるか見ものだな、七瀬天理」
数日後、十三番隊隊舎裏の清掃エリア。
青空の下、天理はゆっくりと竹箒を動かしていた。シャッ、シャッという規則的な音が庭に響く。
「……天理。また来たわよ」
天理の精神世界から、呆れたような、しかしどこか愉しそうな『百花繚乱』の声が脳裏に届く。
「ああ、分かっている」
天理は箒の手を止めることなく、心の中で返事をした。
「今度は少しひねってきたみたいだな。霊圧の遮断だけでなく、空間の歪みに身を潜めるタイプか。五番隊隊長殿も、なかなか執念深い」
藍染が苦悩の末に放った新たな実験体——空間の隙間に潜み、相手が視認することすら困難な暗殺型の虚。志波海燕が執務室から出てくるタイミングを狙い、上空の「空間の歪み」の中で牙を研いでいる。
鏡花水月による認識阻害、あるいは空間潜伏。藍染にしてみれば「これなら視認すらできまい」という満を持しての策だった。
だが、天理と百花繚乱にとっては無意味だった。
「ふふ……『隠れているつもり』なのが微笑ましいですね。天理、どうなさいます? 存在そのものを消し去りますか?」
百花繚乱が知的な微笑を浮かべながら、天理の意識に語りかける。
「いや、海燕副隊長がもうすぐここを通る。空間ごと吹き飛ばせば落とし物どころの騒ぎではなくなる。……百花、出力を千分の一に抑えろ。先制打撃で『核』だけを砕く」
「千分の一……相変わらず無茶な微調整をお申し付けになりますね。ですが、お任せを。あなたの御望み通りに」
天理は静かに目を向けた。
ただ、空の一点——何も無いはずの「空の隙間」へと、視線を滑らせただけ。
コンマ0.01秒。
「狂い咲け」の解号すら唱えず、天理の瞳が微かに朱色に揺らめいた瞬間。
——パシッ。
まるで乾いた竹が割れるような小気味よい音が、上空で一つだけ響いた。
暗殺型の虚は、自らが攻撃行動を起こすどころか、存在を現すことすら許されず、空間の裏側で核(心臓)のみを精密に粉砕された。叫び声一つあげることなく、霊子となって霧散していく。
「ふう……手応えが軽すぎますね。これでは手応えすら残りません」
百花繚乱が精神世界でクスリと笑う。
「これでいい。跡形も残らなければ、ただの『気のせい』で済む」
天理が満足げに頷いたその時、隊舎の廊下から足音が聞こえてきた。
「よお、天理! 相変わらず熱心に掃除してんな!」
豪快な声と共に姿を現したのは、十三番隊副隊長・志波海燕だった。
「あ、海燕副隊長。お疲れ様です」
天理は一瞬で「ただの真面目な平隊員」の顔に戻り、ペコリと頭を下げる。
「いやー、なんか今、一瞬だけ変な感覚がしたんだが……気のせいか? 天理、お前何か見なかったか?」
海燕が首をかしげながら上空を見上げる。野性の勘か、かすかな霊子の揺らぎを感じ取ったらしい。
「いえ、何も。今日は風が強いので、木の枝でも折れた音ではないでしょうか」
「そうかぁ? まあ、お前が言うならそうか! ガハハ、苦労かけるな! 後でお茶でも飲みに来いよ!」
「はい、ありがとうございます」
爽やかに去っていく海燕の背中を見送りながら、天理は再び竹箒を動かし始めた。
一方、その頃。五番隊執務室。
「………………」
藍染惣右介は、手元の霊圧測定器(自作の特殊霊具)がほんの一瞬だけミリ単位で揺れ、すぐに完全にゼロに戻ったのを見つめていた。
送り込んだ暗殺型の虚からのシグナルは、絶たれた。
それも、「戦闘」すら発生せず、「出現」すら認識させてもらえず、ただ概念のように消滅したのだ。
藍染の手から、静かにペンが落とされる。
「……馬鹿な」
あの完璧主義者の藍染の額に、うっすらと一筋の冷や汗が伝う。
「空間潜伏すら破られたというのか……? 鏡花水月の錯覚すら届かぬ『何か』が、あそこに存在する……?」
百年前の魂魄消失事件から現在に至るまで、すべての事象を掌の上で転がしてきた男・藍染惣右介。
その完璧なシナリオに、「七瀬天理」という解読不能の絶対不可侵が、静かに、そして決定的に立ち塞がっていた。
「……七瀬天理。君は一体……何者なんだ……?」
静まり返る執務室に、藍染の掠れた呟きだけが虚しく響いていた。