現世派遣部隊の選定が進む裏で、天理は八番隊執務室へ書類を届けに訪れていた。
「やあ、十三番隊の天理君だっけ? いつも掃除ご苦労様」
着物を羽織り、酒瓶を傍らに置いた京楽春水が、帽子を深めにかぶりながらぐにゃりと笑いかけてくる。
「八番隊長閣下。一番隊からの伝票をお届けに上がりました。失礼いたします」
天理は深く頭を下げ、すぐに退出記述を作ろうとする。
——その瞬間、京楽の笠の奥から、射ぬくような鋭い視線が天理の背中に注がれた。
「……ねえ、天理君。山じいは頭が硬いからさ、『世界の均衡』だの『若者の成長』だのに拘るけど……僕ならもっと上手く君を使ってあげられるよ?」
京楽は低く、どこか底知れない声で呟く。
「君がその気になれば、虚圏の藍染だって、これから攻めてくる破面だって、僕らが酒を飲んでる間に全員『消して』しまえるんだろう? 瀞霊廷の死神が一人も死なずに済むなら、僕は君にどんな泥を被せられたって構わないんだけどねぇ」
清濁を併せ呑み、勝つためなら天理という「神の力」すら躊躇なく兵器として消費しようとする京楽の冷徹な政治観。
天理は足を止め、振り返ることすら留まった。
(……山本総隊長は『理』を守るために私の力を統制する。だが、この男は『結果』のために私の力を平気で乱用する……一番やりづらい男だ)
天理は表情一つ変えず、冴えない平隊員の声を装って小さく一礼した。
「……何のお話か、私のような平隊員にはさっぱり分かりかねます。では、失礼いたします」
「フフ……素気ないねぇ」
風のように去っていく天理の背中を見送りながら、京楽は残った酒を静かに飲み干し、煙管の煙を吐き出した。
「恐ろしい子だ……山じいが手綱を握ってなきゃ、僕だってどう迫ってたか分からないよ……」
現世・空座町(からくらちょう)。
日番谷冬獅郎率いる「現世派遣隊」に、荷物持ち兼雑用係として密かに同行した七瀬天理。
彼らは現世の高校に通う黒崎一護のサポートと、いつ起きるかわからぬ破面(アランカル)の襲来に備えていた。
だが、天理の意識の片隅には、瀞霊廷を出る間際に交わした京楽春水の冷たすぎる眼光が残っていた。
(……あの男は勘が鋭すぎる。現世に降りてなお、八番隊の密偵や伝令神機(でんれいしんき)の回線を介して、私の『不自然な不調和』を探ろうとしている……)
京楽は勝つためなら天理という絶対能力を躊躇なく使い潰すタイプだ。だからこそ、今回は能力の発動をさらに微細化し、「誰がどう見てもただの幸運や偶発事故」に偽装しなければならない。
1. 破面襲来——空座公園の異変
ドゴォォォォン……!
突如として空座町の空が裂け、重苦しい空間亀裂『黒腔(ガルガンタ)』が開いた。
地面を揺らし降り立ったのは、第4十刃(クアトロ・エスパーダ)ウルキオラ・シファーと、第10十刃ヤミー・リヤルゴ。
「ハッ! これが現世か! 魂魄の質が低すぎてゲロが出そうだぜ!」
ヤミーが下品に笑いながら、周囲にいた一般人を吸い寄せる『魂吸(ゴンズイ)』を発動しようと息を吸い込む。
本来ならば、広範囲の人間が一瞬で魂を吸い上げられ、命を落とす絶望的な場面。
しかし——。
(……一般人の犠牲は出させない)
はるか遠くのビルの屋上。竹箒を手に佇む天理の瞳が、微かに朱色に光る。
(先制不干渉——ヤミーの吸入器官へのピンポイント高密度霊子栓)
「狂い咲け」
——ゴホッ、ゲホッ!
「あ、あれ……!? ゲホッ! クソッ、なんなんだ急に! 喉に痰が詰まりやがった……!」
ヤミーが突如猛烈にむせ返り、魂吸は発動すらできずに不発に終わった。
周囲の一般人たちは「うわっ、でかい変なヤツが暴れてる!」と悲鳴を上げて散り散りになり、死者は一人も出ずに全員の避難が完了した。
「……何をしている、ヤミー。とっとと目的を果たせ」
ウルキオラが冷ややかな目で見下す。
「チッ、調子が狂うぜ! だが、お目当ての奴が来たみたいだぞ!」
2. 織姫の危機と、極小の絶対先制
空間の歪みを感じ取り、最初に現場へ駆けつけたのは井上織姫と茶渡泰虎(チャド)だった。
「みんな逃げて! チャドくん!」
チャドが『巨人の右腕』を展開しヤミーへ立ち向かうが、破面の肉体の硬度(鋼皮=イエロ)と巨体による圧倒的なパワーの前に、右腕を打ち砕かれ倒れてしまう。
「チャドくん……! 駄目、『楯友雄(しゅんおう)』、我拒絶する!」
織姫が傷ついたチャドを守るため、攻撃拒絶の盾を張る。
だが、怒り狂ったヤミーの巨大な拳が、容赦なく織姫の頭上から振り下ろされる。
「ハハハッ! 潰れちゃいな!」
直撃すれば、織姫の華奢な身体など瞬時に粉砕される——。
(織姫さんの『事象の拒絶』能力は藍染の狙い……だが、ここで彼女が死ぬことも、命の危険に晒されることも許さない)
天理は遠くから、自身の霊力ではなく、ヤミー自身の体重移動と地面の霊子に介入した。
(絶対先制——重心の微小破壊&足場の摩擦係数ゼロ化)
——ドテェェェン!!
「ぐわぁぁぁっ!?」
ヤミーの拳が織姫に届くコンマ1秒前、ヤミーの軸足の下のコンクリートが「経年劣化」を起こしたかのように突然崩壊。さらに踏み込んだ足がツルリと滑り、ヤミーは派手に尻餅をついて後方へ転倒した。
「……え?」
織姫は目を丸くした。自分の盾が防いだわけではない。巨漢の破面が、勝手に足を踏み外して自滅したのだ。
その隙に、黒崎一護が黒い天鎖斬月を抱えて上空から突入してきた。
「井上ぇぇぇっ! 引いてろ!」
3. 一護の内なる虚と、京楽の監視網
一護とヤミーの戦闘が始まる。
だが、一護は胸の中の「内なる虚」の暴走を恐れるあまり、途中で霊圧が激しく乱れ、動きが完全に止まってしまった。
「ハハァッ! どうした黒崎一護! 空弾(バラ)を喰らいな!」
動きの止まった一護へ、ヤミーが容赦なく霊圧の弾丸『空弾』を連射する。
この時、瀞霊廷の八番隊執務室では、京楽春水が伝令神機の映像モニターを覗き込んでいた。
「……さて。一護君がピンチだ。もしあの『平隊員』が現世に同行しているなら……この絶対絶命の状況で、何か不自然な現象が起きるはずだけどねぇ」
京楽の鋭い目が、一護の周囲の空間データをミリ単位で解析していた。天理の尻尾を掴み、その力を瀞霊廷の兵器として引きずり出すために。
——だが、天理は京楽のその視線すら織り込み済みだった。
(京楽隊長……カメラ越しに探っているな。ならば、『天理の能力』だとは天地がひっくり返っても悟らせない)
天理が一護へ向けたのは、直撃を消し去るような直接的な攻撃ではない。
(先制補助——空座町の空気密度の急激な不均一化および一護の虚の衝動への超微小緩和)
——ズドドドドン!
ヤミーの放った空弾が、なぜか大気屈折によってほんの数十センチだけ軌道を逸れ、一護のすぐ横の地面を吹き飛ばした。
さらに、衝撃波で一護の身体が弾き飛ばされ、結果としてヤミーの追撃から間一髪で離脱する形になった。
「……ん? 空気の密度変化で威力が拡散した……? まさか、ただの現世の局地的な上昇気流か……?」
モニターを見ていた京楽が、思わず首をかしげる。
天理の介入はあまりにも自然現象に溶け込んでおり、どれほど解析しても「たまたま現世の気候と地形が起因した物理現象」にしか見えなかったのだ。
「……チッ。考えすぎだったかねぇ。本当にただの幸運か……」
京楽は煙管の煙を吐き出し、探るような視線を少しだけ緩めた。
4. ウルキオラの見切りと撤退
「そこまでだ、ヤミー」
一護の援護に浦原喜助と四楓院夜一が駆けつけたことで、ウルキオラが静かに介入した。
「これ以上の戦闘は無意味だ。目的の黒崎一護の霊圧は不安定……殺す価値すらない」
「ケッ! まだ暴れ足りねえが……ウルキオラがそう言うなら戻るぜ」
ウルキオラは空間を切り裂き、黒腔を開く。
去り際、ウルキオラはふと視線を上げ、遠くのビルの屋上……竹箒を持って佇む「人影」を一瞬だけ目撃した。
(……? 死神か……? いや、霊圧が完全にゼロだ。ただの現世の掃除員か……)
ウルキオラほどの観察眼をもってしても、天理の存在は「風景の一部」としてしか認識できなかった。
だが、ウルキオラが黒腔に消える直前、天理は通信も使わず、ただ心の中で一言だけウルキオラへ先制のプレッシャーを叩き込んだ。
(『今度現世に来る時は、もっと行儀よくすることだな。第4十刃』)
「……!?」
黒腔の闇に消えかけたウルキオラの脳裏に、直接響いた冷徹な警告。
ウルキオラは心臓を氷の針で刺されたような戦慄を覚え、思わず後ろを振り返ろうとしたが、そのまま黒腔の扉は閉じられた。
(今の声は……一体……!?)
虚圏へ戻ったウルキオラの胸に、消えることのない深い謎と微かな恐怖が刻み込まれた。
5. 完全なる幕引き
破面は撤退した。
町は破壊されたが、天理が影から衝撃波の軌道を拡散させ続けたおかげで、建物被害は最小限。一般人の死亡者はゼロ。
「ふぅ……間一髪でしたね、一護くん」
駆けつけた浦原喜助が扇子をパタパタと仰ぎながら、倒れた一護や織姫の治療を始める。
「浦原さん……俺……あいつらに何もできなかった……」
悔しがる一護。だがその瞳には、すでに強くなろうとする「覚悟」の火が灯っていた。
ビルの屋上からその光景を見下ろしていた天理は、静かに竹箒を担ぎ直す。
「ふふ、見事でしたね天理。京楽隊長の監視を完全に欺きつつ、被害をゼロに抑えるなんて」
脳裏で『百花繚乱』が可憐に微笑む。
「……疲れる作業だったよ。京楽隊長の勘の良さは本当に厄介だ。だが、これで一護くんたちも自分の弱さと向き合い、さらなる高みへ進める」
天理は夕空を見上げ、静かに微笑んだ。
「表の戦いは彼らに任せる。私はこれからも……この日常と理を守るために、影で完璧に箒を振るうだけだ」
こうして、現世を襲った破面の初陣は、誰一人として影の支配者の正体に気づかぬまま、完璧な幕引きを迎えたのだった。