平子真子との静かな再会から数日後の放課後。
オレンジ色に染まる空座町の河川敷。
手すりに背を預け、濁った川面をじっと見つめる少年がいた。黒崎一護だ。
内なる虚(ホロウ)の存在が日増しに膨らみ、いつ自我を乗っ取られるか分からない恐怖。ウルキオラたち破面(アランカル)に手も足も出なかった無力感。
重圧に押し潰されそうな一護の肩は、どこか痛々しく縮こまっていた。
「……ハァ」
深く吐き出された溜息。
その背後から、ざっ、ざっ、と規則正しい砂利を踏む音が近づいてくる。
1. 異質な「無」との遭遇
「……そんなところで落ち込んでいると、夕風で風邪を引きますよ。黒崎一護くん」
「……あ?」
一護が鬱陶しそうに振り返る。そこに立っていたのは、十三番隊の隊服を着た、冴えない雰囲気の男——七瀬天理だった。手には学校帰りの買い出しと思われるビニール袋を提げている。
「死神か……? 見かけねえ顔だな。日番谷たちの仲間か?」
一護は警戒感を露わにしつつも、天理から立ち上る霊圧を探ろうとした。……だが、どれだけ感覚を研ぎ澄ませても、目の前の男からは何の霊圧も感じられない。まるでそこに人間が存在していないかのような、不気味なほどの「無」だった。
「ただの雑用係ですよ。現世の定期調査と、君たちのサポート……まあ、実質は散歩のようなものです」
天理はそう言うと、一護の隣まで歩み寄り、同じように川を見つめた。
「……何しに来たんだよ。慰めなら要らねえぞ」
一護は不機嫌そうに顔を背ける。
「慰め? まさか。私は君の家庭教師でもなければ、隊長格でもありません。ただ……君のその顔、百年前の『ある男たち』にそっくりだったので、少し懐かしくなっただけです」
「……百年前の男?」
「ええ。自分の中の理不尽な怪物に怯え、己の無力さに苦しみ……それでも大切なものを護るために必死に抗っていた男たちです」
天理の脳裏に、先日の平子真子やヴァザードたちの姿が浮かぶ。一護の瞳には、彼らと同じ「底知れぬ恐怖」と「諦めきれない覚悟」が渦巻いていた。
2. 核心を穿つ一言
「……言われなくても分かってんだよ!」
一護は拳を強く握りしめ、吐き捨てるように言った。
「俺の中に……ヤバい奴がいる。そいつが暴れ出したら、俺は俺じゃなくなる。井上やチャド……みんなを俺の手で傷つけちまうかもしれないんだ。だったら……俺は……!」
自分を抑え込むことに必死になり、刃の切れ味を失っていた一護。
そんな少年の弱音を、天理は静かに切り捨てた。
「——それで? 恐怖に怯えて刃を鈍らせ、今度は目の前で誰かが殺されるのを指をくわえて見るつもりですか?」
「……なんだと!?」
一護の目が怒りで血走る。天理の胸ぐらを掴もうと、反射的に手を伸ばした——その瞬間。
ピキッ……!!
一護の手が、天理の衣服に触れる寸前で完全に固まった。
「……つっ!? な、なんだこれ……!?」
腕が動かない。それどころか、全身の筋肉が一瞬にして「先制」されたかのようにロックされ、指先一つ動かすことができない。天理は刀すら抜いていない。ただ静かに一護を見つめているだけだ。
圧迫感すら無い。だが、「この男にこれ以上踏み出せば、次の瞬間には自分が存在ごと消滅させられる」という生々しい死の予感が、一護の魂をダイレクトに貫いた。
「黒崎くん。君が恐れているのは『内なる虚』ではありません。『虚に負けて誰かを護れなくなる自分』です」
天理は静かに腕を払うと、一護の束縛を解いた。
ハァッ……ハァッ……!
一護は激しく息を乱しながら、数歩後ろへ跳び下がる。冷や汗が額から滝のように流れていた。
(なんだ……今の……!? 日番谷や……あのウルキオラって奴とも違う……! 触れることすら許されない『何か』……!)
3. 託された「死神の誇り」
「虚に呑まれることを恐れて力を抑えるなど、本末転倒です。敵に先制を許し、仲間を死なせてから後悔するくらいなら……その怪物ごと喰らい尽くして、力に変えなさい」
天理は提げていた袋から、缶コーヒーを一本取り出し、動けない一護へ向けて放り投げた。
バシッ!
一護は無意識にそれを素手で受け止める。
「……俺に、それができると思うか?」
低く問いかける一護に、天理は背を向け、ゆっくりと歩き出した。
「さあね。ですが……あの平子真子という男が、君に期待を寄せていましたよ。『一護なら自分の力で乗り越える』と」
「!? 平子を知ってんのか……!?」
「まあ、昔からの腐れ縁のようなものです。……それと」
天理は立ち止まり、チラリと振り返った。その瞳に宿る、一瞬の凄絶な「理」の光に、一護は息をのむ。
「余計な心配をせず、自分の戦いに集中しなさい。君がどれほど傷つき、どれほど絶望的な状況に陥ろうと……この町で一般人が理不尽に命を落とすことは、私が絶対に『先制』して阻止しますから」
「……!」
それは、護廷十三隊の誰の言葉よりも重く、絶対の信頼を伴った「影の絶対者」の誓いだった。
一護が何にも縛られず、己の限界を超えて強くなるための——完璧なお膳立て。天理は影で全てを処理し、一護に「主役としての覚悟」を求めたのだ。
「……へん。勝手なこと言い上がりやがって」
天理の姿が夕闇の中に消えていくのを見送りながら、一護は冷えた缶コーヒーをぎゅっと握りしめた。
胸の中の虚の咆哮は、まだ消えていない。
だが、恐怖で冷え切っていた腹の底に、小さく、けれど消えない「戦意の火」が再び灯っていた。
「……サンキューな、謎の死神さんよ。俺は……負けねえよ」
一護は缶のプルタブを勢いよく引き抜くと、夕空に向かって力強く走り出したのだった。