「見えざる帝国(ヴァンデンライヒ)」の拠点、氷の館(ジバーン)——。
普段の厳格な静寂は消え失せ、底なしの暗雲と「異様な絶望」が立ち込めていた。
『終極百花繚乱滅殺陣』の地獄を生き延び、影の領域へと逃げ帰った滅却師(クインシー)たち。しかし、彼らが持ち帰ったのは勝利の報告ではなく、肉体と魂に刻み込まれた重度のトラウマと、凄惨極まる敗北の記憶だった。
1. 2割の生存者たちの「狂気」と「希望への固執」
館の回廊には、全身に不可視の裂傷と激痛の残り火を抱えた星十字騎士団(シュテルンリッター)や歩兵たちの呻き声が満ちていた。
本来なら、敗北した兵には容赦ない粛清が下されるはずだった。
しかし、残されたのは寸分違わず「2割」。
「生き残った……! 俺たちは生き残ったんだ……!」
「陛下……! 我ら種族の存続を……どうか、どうかお守りください……っ!!」
身体を苛まれ、血を吐きながらも、彼らは必死にユーハバッハの足元へ跪き、縋り付いていた。
全滅(10割の破壊)であれば、残るのは怨嗟と諦念のみ。
1割であれば、自暴自棄の特攻(バンザイアタック)に走って全滅していただろう。
だが、絶妙に残された「2割」という生存枠。
それが『百花繚乱』の企み通り、彼らに「種を絶やしてはならない」「生き残らねばならない」という強力な生存本能(希望)を揺り動かし、かえって死以上の精神的恐怖と束縛となって滅却師たちの心を激しく支配していたのだ。
「人はな、希望があれば焼かれながらでも歩き続けるのだよ」
あの死神の残忍な言葉通り、彼らは絶望の激痛に焼き尽くされながらも、「生き残るための足掻き」を強制されていた。
2. 皇帝ユーハバッハとハッシュヴァルトの戦慄
玉座の間。
重々しい沈黙の中、皇帝ユーハバッハは微かに震える自身の両手を見つめていた。
「全知全能(アルマイティ)」の眼を持つ男。
未来を見通し、あらゆる事象を確定させるはずだった皇帝が、あの男——七瀬天理の『終極百花繚乱滅殺陣』の発動下においては、「敗北と敗走」以外の未来を選択することができなかった。
「……陛下」
側近であるユーグラム・ハッシュヴァルトが、滅多に見せない歪んだ表情で奏上する。
「戦力の8割が消滅……。残り2割も重傷により、即座の再侵攻は不可能です。……何より、兵たちの精神が崩壊しかけております。あの『七瀬天理』という死神の影に……怯えきっている」
「………………」
ユーハバッハは深く息を吐き、冷や汗の滲む顔を上げた。
「……七瀬天理。奴の始解『絶対の先制』だけでも異質であったが……あの卍解は存在そのものが理不尽の塊だ。我が全知すらも押し潰す、確定した地獄……」
ユーハバッハの脳裏に、両目を完全に回復させ、冷徹な瞳で自分を見下ろしていた天理の姿が焼きついて離れない。
「奴は……わざと我らを生かしたのだ。全滅させず、2割を残すことで『種族の存続』という希望の枷をハメ、我らを『滅びの恐怖』に永遠に縛り付けるためにな……」
「……なんという、えげつない思考……」
ハッシュヴァルトの手が、悔しさと恐怖で固く握りしめられる。
「……千年だ」
ユーハバッハが低く潰れた声で呟く。
「この減りすぎた戦力を元通りに再構築し、あの地獄に対抗し得る陣形を整えるには……千年どころの月日では到底足りん。奴はたった一度の卍解で、我らの千年王国の計画を根底から狂わせたのだ……!」
3. 第二次侵攻への「焦燥」と「疑惑」
ユーハバッハの傍らに立つ「A」の聖文字を持つ青年、ウジュ・ハッシュヴァルト(あるいは他の星十字騎士団)たちもまた、重い沈黙に沈んでいた。
「……陛下。奪った『卍解』はどうされますか?」
「……使えん」
ユーハバッハは吐き捨てるように言った。
「あの男が目を覚ませば、あるいは奴の気配が少しでも漂えば、奪った卍解など何の意味もなさん。……それに、何かがおかしい。我らが奪った卍解の霊子構造に、不穏な『揺らぎ』を感じる……」
現世の浦原喜助たちが進めていた「侵影薬(虚の霊子の混入)」の気配を、ユーハバッハは敏感に察知し始めていた。
奪った卍解が「毒」と化す恐怖。
戦力の8割を失った絶望的な穴埋め。
そして何より、「七瀬天理が目覚めたら、再びあの地獄が展開される」というトラウマ。
「……退路はない」
ユーハバッハは赤く光る眼を激しく見開いた。
「天理という死神が、常時2倍の霊力消費という代償によって『昏睡』している今この瞬間しか……我らに勝機はないのだ! 2割の生存者をかき集め、直ちに再編成を行え!」
かつて圧倒的な力で護廷十三隊を蹂躙するはずだった「見えざる帝国」。
しかし今や、彼らは一人の平死神が遺した「希望という名の底なしの地獄」に追いつめられ、焦燥と恐怖に震えながら、退路の絶たれた第二次侵攻への準備を余儀なくされていたのだった。