五番隊執務室でのあの一夜から、数年。
事態の裏を察知した山本元柳斎重國は、現世の花屋の件を嗅ぎつけるやいなや、市丸ギンを自室に呼び出した。
「市丸」
「……なんどすか、総隊長殿。そんな怖い顔しはって」
「白々しい真似は不要。七瀬天理が生きている花屋の場所……吐いてもらうぞ」
「ええ〜、僕かて乱菊に連れていかれただけで……」
「『流刃若火』」
ドゴォン、と一番隊執務室の床がわずかに爆ぜ、流刃若火の猛烈な霊圧が吉野山の如くギンの頭上に圧しかかる。山じいの目が恐ろしいほどギラリと光った。
「隠せば……おぬしと松本の『現世でのお忍びデート特別許可』を金輪際剥奪し、三百年間の禁足処分とする」
「……っ!? え、エグい……! 総隊長殿、それだけはご勘弁を! 教えます! 店の場所も、おすすめの花束の買い方も全部教えますから!!」
あっさりと折れたギンから正確な場所を聞き出した山じいは、その日の午後にすぐさま単身で現世へと降り立ったのだった。
現世・空角市。昼下がりの陽射しが注ぐ「百花園」。
カランカラン——♪
「いらっしゃいませー!」
ドアが開く音とともに、奥から天理が元気に顔を出した。
しかし、入口に立つ人物の姿を見た瞬間、天理は思わず目を見張った。
そこに立っていたのは、着物姿に長い髭をたくわえ、右目に凄まじい傷跡を残した、尋常ではない威厳を纏った老老人——山本元柳斎重國であった。
(うわ……すごい貫禄のおじいさんだ……!)
天理は圧倒されつつも、いつもの丁寧な笑顔で頭を下げた。
「い、いらっしゃいませ! 本日はどのようなお花をお探しでしょうか?」
山じいは、ただ静かに天理を見つめていた。
死神としての霊圧も、過剰なまでの理の力も、今のこの青年からは一切感じられない。ただの、優しく、温かい人間の青年がそこにいた。
「……うむ。店先にある、その白い牡丹の花をひとつ、貰おうか」
「あ、はい! すぐにお包みしますね!」
天理は手際よく花を選び、丁寧にリボンを巻いていく。
その背中を、山じいは幾多の激戦を潜り抜けてきたその瞳で見つめていた。
(……生きていてくれたか。ただの一人の人間として……穏やかに)
包みが完成し、天理は両手でそれを山じいに差し出した。
「お待たせいたしました! ……あの、お客様」
「……何じゃ」
天理は首をかしげ、少し困ったように、けれど心の底から懐かしそうな笑顔を浮かべた。
「あの……変なことを聞いてすみません。初対面……ですよね? なんだか、お客様を見ていると不思議と胸が温かくなるというか……」
「……?」
「もし僕に『おじいちゃん』がいたとしたら、きっとこんな感じの人だったのかなー……なんて。あはは、すみません! 見ず知らずのお客様にこんな無礼なこと言っちゃって……!」
天理は申し訳なさそうに頭を下げて恐縮した。
その瞬間——。
奥で紅茶を淹れようとしていた桃香(百花繚乱)の手から、カップが事の衝撃でカチャンと落ちかけた。
(天理……!? 記憶はすべて消えたはずなのに……貴方の魂の深い場所に、あのお方(総隊長)との絆が刻まれているというの……!?)
桃香は息をのんで二人を見つめた。
山じいは、天理の言葉を聞いたまま、しばらく微動だにしなかった。
そして——静かに、ゆっくりと目を閉じると、その深い皺の刻まれた頬を、一筋の涙がスーッと伝ってこぼれ落ちた。
千年間、護廷十三隊の絶対の柱として君臨し、どんな残酷な戦場でも決して涙を見せなかった「鬼の総隊長」が。
「……お客様……? 大丈夫ですか!?」
慌てる天理に対し、山じいは力強く、しかしこの上なく愛おしそうに、天理の頭にゴツゴツとした大きな手をそっと載せた。
「……いや。……ただ、初孫にそう言われたような気がしてな。……嬉しかっただけじゃ」
「あ……」
「……素晴らしい花だ。大切に飾らせてもらうぞ、天理」
「あ……はい! ありがとうございます……っ!」
山じいは深く一度だけ頷くと、花束を大切に抱え、静かに店を後にした。
その日の夕方。一番隊執務室。
山じいが自室の文机に、現世で買ってきた白い牡丹の花を大切そうに一輪挿しに生けていると、障子がスッと開いた。
「やあ、山じい。現世からお帰り〜」
隊長羽織を羽織った京楽春水が、菅笠を弄りながら入ってきた。
そして机の上の牡丹の花と、どこかすがすがしい顔をした山じいを見比べ、ふっと意地悪く笑った。
「……ふふ、噂は聞いてるよ。ギンちゃんを脅して天理君のところへ行ったんだって?」
山じいは鋭く一瞥をくれたが、京楽はへっちゃらな顔で話を続けた。
「しかも『おじいちゃんみたい』って言われて、あの山じいが泣いちゃったんだとか? ……いや〜、ずるいねぇ山じいだけ。僕だって天理君には『頼りになる親戚のおじさん』くらいには思われたいんだけどな」
「……戯言を言うな、春水」
山じいは厳かに茶を一口啜ると、生けられた牡丹の花を慈しむように見つめた。
「あの男は今、ただの人間として……何にも脅やかされることなく、幸せに生きておる。……それだけで十分だ」
「……ふふ、そうだね。まったく、同感だよ」
京楽も穏やかに目を細め、二人は静かに牡丹の花を眺めながら、現世の陽だまりの中にいる「大切な仲間」の幸せを、心から祈るのだった。