夕暮れ時。学校帰りの黒崎一護は、いつもの通学路を歩いていた。
「……ん? なんだあいつ……」
ふと視線の先に留まったのは、街角にひっそりと佇む洒落た花屋『百花園』。その店先に立っていたのは、見間違いようもない独特の銀髪と、市松模様の羽織を脱ぎ着物姿になった男——市丸ギンだった。
(な、なんで市丸がこんな現世の普通の街角で……しかも花屋なんかに……!?)
一護が呆然と立ち尽くしていると、店の奥から明るい声が響いた。
「いらっしゃいませ! あ、いつもありがとうございます!」
奥から笑顔で出てきた青年の顔を見て、一護は目を見開いた。
「……!? て、天理……さん!?」
そこにいたのは、死神としての記憶も霊力もすべて失い、現世で穏やかに暮らしているはずの七瀬天理だった。天理は手際よく季節の花をまとめ、ギンに手渡している。
「今日は百合ですね! お部屋に飾られるんですか?」
「ええ、部屋がパッと明るくなりますさかい。天理くんの選ぶ花はいつも持ちがええねぇ」
「はは、そう言っていただけると嬉しいです!」
死神界の最凶の毒針と呼ばれた男と、世界を救って記憶を失った元・最強の平死神。
あまりにも浮世離れした二人が、現世の日常の光景としてにこやかに談笑している。その光景の異様さに、一護は耐えきれず店内に踏み込んだ。
「おいっ……!! 市丸!! 天理さん!! なんだコレはどういう状況だ!? なんで市丸が天理さんの花屋で普通に買い物してんだよ!?」
「おや、一護くん。大声出したら近所迷惑やで?」
ギンはぬるりと振り返り、いつもの糸目を緩めた。
「ちょっと待て天理さん! こいつのこと覚えてねえのか!? こいつは——」
天理はきょとんとした顔で、一護とギンを交互に見比べた。
「あの……お客様? もしかして、この方(ギンさん)のお知り合いですか? こちらのギンさんは、うちの常連さんでいつもお世話になってる方ですよ?」
「常連……!? こいつが!?」
天理にとって市丸ギンは、ただの「花好きな常連客」でしかなかったのだ。天理のその屈託のない笑顔に、一護は言葉を詰まらせた。
「まあまあ、一護くん。野暮な問いただしはナシにしようか。天理くん、今日もおおきに。また来るわね」
「はい! ありがとうございました!」
「おい待て市丸っ!」
逃がすまいと詰め寄る一護だったが、ギンは一護の肩をすれ違いざまにポンと叩くと、首根っこを掴むようにして強引に店の外へと連れ出した。
「離せよ市丸! 一体どうなってんだ! 天理さんの記憶が戻ってねぇのは分かるが、なんでお前が普通にお客さんやってんだよ! 山じいや京楽さんたちは知ってんのか!?」
路地裏まで連れ出された一護が噛みつくと、ギンはひらひらと手を振った。
「落ち着きぃな、一護くん。僕が天理くんの店にお邪魔しとるのは、総隊長殿かて公認のことやで?」
「山じいが……!? マジかよ……」
「そりゃそうや。天理くんは命を賭してボクらの世界を守り、今はこうしてただの人間として幸せに生きてはる。ボクらはその『日常』を遠くから見守る権利くらいはあるやろ?」
そこへ、路地裏の影から人影がスッと姿を現した。
エプロン姿の美しい女性——天理と共に店を営む、かつての斬魄刀『百花繚乱』である百花(ももか)だった。
「あら、やっぱり一護くんだったのね。店の中で大きな声が聞こえたから追ってきたわ」
「百花繚乱……! いや、百花さん! これ、どういうことなんだ? 市丸が店に来てるの、あんたも知ってたのか?」
桃香はふっと柔らかく微笑み、小さく頷いた。
「ええ。市丸様だけじゃないわ。…時には総隊長様まで、様子を見に来てくださっているのよ」
「山じいまで来てんのかよ……!?」
一護は頭を抱えた。護廷十三隊のトップたちが、現世の小さな花屋にこぞって極秘来店している図を想像してクラクラしてきた。
「天理さんの記憶は、本当に……何一つ残ってないのか?」
一護の問いに、百花繚乱は静かに店内の方へと視線を向けた。
「ええ、死神としての記憶も、世界を救ったことも、すべて綺麗に消えているわ。でもね……それでいいの。今の天理さんは、毎朝咲く花を愛でて、お買い物に来るお客様と笑い合って、とても穏やかに暮らしているの」
ギンも珍しく穏やかな眼差しで言葉を重ねた。
「ボクらが戦火の中に引きずり戻す必要なんてどこにもない。……あの人が命を懸けて取り戻した『青空』の下で、あいつ自身が幸せでいること。それが、ボクら生存者の使命みたいなもんや」
「…………」
一護はぎゅっと拳を握りしめ、それからゆっくりと息を吐き出した。
「……そうか。そうだよな。天理さんが命がけで手に入れた平穏なんだもんな……」
「分かってくれたならええんや」
ギンはクスリと笑うと、買っていった白い百合の花束を一護の鼻先に突きつけた。
「一護くんも、たまには花でも買って帰りぃな。天理くん、君が来たらすっごく嬉しそうな顔すると思うよ。『なんだか懐かしい気がする』ってね」
「……言われなくても、今度制服じゃなくて私服の時に買いに行くよ。……じゃあな」
一護は照れくさそうに頭を掻きながら、鞄を担ぎ直して夕暮れの街へと歩き出した。
その背中を見送りながら、ギンと桃香は顔を見合わせ、温かな夕陽に包まれた『百花園』へと静かに戻っていくのだった。