放課後。夕暮れ時の空座町。
黒崎一護は、昨日市丸ギンに言われた言葉がどうにも頭から離れず、私服に着替えて再び『百花園』の前にやってきていた。
(……別に市丸に言われたからじゃねえ。ただ……あいつが元気にしてるなら、客として普通に花の一本でも買っていこうと思っただけだ)
店に入ろうかどうしようか、店頭に並べられた鉢植えの前でウロウロと腕を組み、真剣な顔で悩んでいると——。
「ほう……? 一護ではないか。こんなところで何を難しい顔をしておるのだ?」
聞き覚えのある声に振り返ると、そこには現世の制服を着た朽木ルキアが立っていた。黒崎家に遊びに行く途中で、偶然一護を見かけたらしい。
「ルキア!? お前、なんでここに……」
「それはこちらの台詞だ。あの鈍感なお前が、柄にもなく花屋の前で思い詰めた顔をして佇んでいるとはな……」
ルキアはニヤニヤとニヒルな笑みを浮かべ、一護の顔を覗き込んできた。
「フッ……なるほどな! とうとう一護にも『春』が来たというわけか! 織姫にでも贈るつもりか? それとも別の女子か? 正直に言ってみろ!」
「ち、ちげーよ! 変な冷やかしすんじゃねえ!!」
「何を隠すことがある! 青春ではないか! どれ、私が一護の青臭い初恋を影ながら応援してやろう!」
ルキアが面白がってドカドカと店内に足を踏み入れた、その時だった。
「はーい、いらっしゃいませ! ……あ、一護さん! 来てくれたんですね!」
奥の作業場から、エプロン姿の天理が花ハサミを手に出てきた。
「……ッ!????????」
ルキアの動きが、完全にフリーズした。
目を見開き、金縛りに遭ったかのようにガタガタと震え始める。
(な……ななな……七瀬どの……!? なぜ……なぜ七瀬どのが現世のこんな花屋でエプロンをつけて笑っておられるのだ!? 記憶では……あの最終決戦で、世界の理を守るために消滅されたはずでは……っ!?)
ルキアの霊圧が一瞬で乱れ、大混乱に陥る。
その混乱を察知した一護は、間一髪でルキアの襟首をガシッと掴んだ。
「おい、ルキア! ちょっと外出ろ!!」
「ひ、一護!? 離せ! あれは七瀬どの……むぐっ!?」
「すませーん天理さん! こいつちょっと知り合いで頭冷やしてきます!!」
「え? あ、はい……? お知り合いですか?」
天理がきょとんとして見送る中、一護は叫びそうになるルキアの口を力づくで塞ぎ、ズルズルと店外へ引きずり出したのだった。
裏路地に放り出されたルキアは、息を荒らげながら一護の胸ぐらを掴み上げた。
「一護ーっ!! どういうことだの説明しろ!! なぜ七瀬どのがあそこに居られる!? まさか、あの御方の偽物か!? それとも藍染の残党の罠か!?」
「落ち着けってルキア! 偽物じゃねえよ! 本物の天理さんだ!」
「本物だと!? ではなぜあのように普通の人間として暮らしておられる!? 死神の力はどうなった!? 十三番隊への復帰は!?」
混乱を極めるルキアの背後から、静かで清らかな声が響いた。
「落ち着いてください、ルキア様」
「……っ!?」
振り返ると、そこには美しい着物の上にエプロンを羽織った百花(百花繚乱)が立っていた。
「ひ……『百花繚乱』……殿! あなたまでなぜここに……!」
桃香は静かに首を振り、切なくも温かい笑みを浮かべた。
「ルキア様。あの大戦の最後、天理は自らの魂魄と霊力をすべて引き換えにして、世界の崩壊を食い止めました。そして……その奇跡の代償として、死神としてのすべての記憶と霊力を失い、ただの『人間』としてこの現世に生まれ変わったのです」
「記憶と霊力を……すべて……?」
ルキアは絶句した。
かつて十三番隊の平隊員として、自分を密かに影から守り、海燕様を救い、山本総隊長や護廷十三隊の誰もが命を救われたあの絶対の存在。
「今の天理には、十三番隊のことも、自分の斬魄刀であった私のことも、世界の危機を救ったことも……何一つ記憶に残っていません。ただ、現世の花屋『百花園』の店主として、穏やかな日々を送っています」
「そんな……。では、十三番隊の皆は……兄様や浮竹隊長はこれを知っておられるのか!?」
一護が腕を組みながら口挟んだ。
「おう。市丸も山じいも京楽さんも、みんな知ってるぜ。……山じいなんて、こっそり現世に来て天理さんから花買っていったらしいからな」
「総隊長殿が……自ら現世へ……!?」
ルキアは驚愕のあまり開いた口が塞がらなかった。あの厳格な山本総隊長が、一人の元・平隊員のために現世にお忍びで訪れていたとは。
百花はルキアの前に歩み寄り、そっとその手に自分の手を重ねた。
「ルキア様。天理が命を懸けて勝ち取ったのは、誰に脅かされることもない、この静かで温かな『日常』なのです。……どうか、彼を戦いと歪みの世界に引き戻さず、このまま一人の人間として生かしてはいただけないでしょうか」
ルキアはぎゅっと拳を握りしめ、目を閉じた。
胸の奥から溢れ出る感謝と、寂しさと、そして深い敬意。
「……そうか。……そうだったのだな」
ゆっくりと目を開けたルキアの瞳には、一切の迷いは消えていた。
「分かった。私が愚かであった。……七瀬どのが命を賭して守り抜いたその平穏を、壊すような真似は絶対にせん」
「感謝いたします、ルキア様」
桃香が深々と頭を下げる。ルキアはふっと表情を緩めると、一護の肩を叩いた。
「よし! 一護、店に戻るぞ!」
「はぁ!? お前、大丈夫なのかよ?」
「当たり前だ! 私は『初対面の客』として、七瀬どのの店で最高の花束を買っていくのだ! そして……影ながら十三番隊を、この世界を救ってくれた感謝を、心の中で伝えるのだ!」
「……へっ、最初からそう言えよ」
一護もニッと笑い、三人は夕陽が差し込む『百花園』の入口へと、ゆっくり歩き出すのだった。