無間の闇の中。
縛鎖に繋がれ、無限の静寂に身を置く藍染惣右介の前に、のんきな足音が響いた。
「やあ、藍染隊長。相変わらず退屈そうな顔してはりますねぇ」
市丸ギンが、いつものぬるりとした笑みを浮かべて闇の中から姿を現した。
「……何をしに来た、市丸」
「いやぁ、ちょっと自慢しに来たんですわ。ボクら生存者はね、現世で転生してただの人間になった天理はんに……いつでも会いに行けるんです」
藍染の眼光が冷たく光る。ギンは糸目をさらに細め、心底楽しそうに言葉を続けた。
「うらやましいやろ〜? 藍染はんはここでずっと一人ぼっちやけど、ボクも、あの山じいですら現世で天理はんの買うた花を愛でて会話してはるんやで。天理はん、相変わらず優しくてなぁ……」
「…………」
無言のまま目を閉じる藍染。だが、その胸の奥でかつて見たことのない「完璧なイラつき」が爆発していた。
(……この私が、蚊帳の外だと? あの世界の理を超越した男の『新しい生』を、貴様らごときが享受しているというのか……)
市丸が去った後、無間の暗闇で藍染の瞳が静かに、そして圧倒的な圧をもって輝いた。
「不可能なことなど、私には存在しない」
藍染は体内に宿る崩玉の力をフル稼働させた。
監視の霊圧を完全に欺き、存在そのものを世界の認識から消失させる。さらに『鏡花水月』の完全催眠を極限まで展開し、護廷十三隊の誰一人として……たとえ山本元柳斎重國であっても察知できぬ「完璧な無音の脱獄」を果たしたのだ。
目的はただ一つ。現世・『百花園』。
カランカラン——♪
昼下がりの花屋に、一人の男が足を踏み入れた。
眼鏡を外し、髪を上げた優雅で圧倒的な威厳を纏う男——藍染惣右介である。
奥からお茶を運んでこようとした百花(百花繚乱)は、その姿を見た瞬間、手にしたトレーを落としそうになった。
(あ……藍染惣右介……!? なぜ無間にいるはずの男がここに……っ!? 天理、危険——)
桃香が霊力を練り上げようとしたその時、奥から天理が明るい声で出てきた。
「いらっしゃいませー! あ、新しいお客様ですね!」
死神としての記憶も、かつて藍染の工作を陰からことごとく粉砕したことも、すべてを忘れた天理が、屈託のない笑顔で藍染の前に立った。
藍染は静かに天理を見つめた。
かつて己の完璧な計画をことごとく先制破折し、世界の不条理を一人で背負って消えた男。今の彼には何の霊力もなく、ただの儚い人間としてそこに存在している。
「……何かお探しでしょうか、お客様?」
天理は藍染の顔をじっと見つめた。
その直前まで圧倒的な支配者として君臨していた藍染の空気が、天理の瞳に射抜かれた瞬間、わずかに揺らぐ。
天理は首をかしげ、ふっと楽しそうに笑った。
「あはは、すみません。なんだか……お客様を見ていると不思議な感覚になるんです」
「……ほう。どのような感覚だね?」
藍染が低く静かな声で問う。
天理は少し困ったように頭を掻きながら、心底温かい眼差しを藍染に向けた。
「なんだか……手のかかる弟みたいだなぁ、なんて」
「……ッ!?」
その場の空気が凍りついた。
背後で見ていた百花が白目を剥きそうなほど驚愕し、そして——あの藍染惣右介が、息を呑んで目を見開いた。
手のかかる、弟。
かつて神になろうとし、世界を統べるべく孤高の頂を目指した己を……。
この男は、記憶を失ってなお、魂の最奥で「手のかかる身内」として包み込み、見守っていたというのか。
(……私の企みも、私の孤独も、私のすべてを……最初からこの男は『手のかかる弟の悪戯』程度にしか思っていなかったというのか……!)
藍染の身体が、震えた。
それは屈辱でも怒りでもない。自身の理を遥かに凌駕する天理の「魂の格」と、その中に確かに自分が存在していたことに対する、身震いするほどの感動だった。
「……クック……フフフ……ハハハハハ……!!」
藍染は口元を手で覆い、抑えきれない笑みを漏らした。
「そうか……『手のかかる弟』か。……素晴らしいな、七瀬天理」
藍染は店内の指し示せる限りの極上の花々を見渡し、爽やかに言い放った。
「ここにある花を、すべて貰おう。包んでくれたまえ」
「えっ!? す、すべてですか!? ありがとうございます……っ!」
大喜びで花を包み始める天理。藍染は大量の最高級の花束を抱え、満足気な笑みを浮かべたまんまと無間の闇へと姿を消したのだった。
数日後。再び無間を訪れた市丸ギン。
「やあやあ藍染隊長。今日も退屈しのぎに会話に付き合ってあげます——って、えぇぇぇぇっ!?!?」
ギンの目が珍しくカッと見開かれた。
無間の薄暗い暗闇の中、藍染の周囲には……豪華爛漫な「季節の花束」が百花繚乱と生けられ、まるで無間が華やかな温室のようになっていたのだ。
「な……なんですかコレ!? どこから持って来たんですか!?」
縛鎖に繋がれたまま、どこか誇らしげに花々に囲まれる藍染は、哀れみすら籠もった優越感に満ちた笑みをギンに向けた。
「やあ、市丸。相変わらず哀れな顔をしているね」
「は……?」
「先日、現世の『百花園』に赴いてね。天理と心地よい歓談を楽しんできたところだ。彼は私の顔を見るなり言っていたよ……『手のかかる弟のようだ』とな」
「……はぁぁぁぁぁっ!??!?」
絶句するギンに対し、藍染は眼鏡を押し上げる仕草(の真似)をしながら、勝利者の笑みを浮かべた。
「私と彼の魂の深さにおける絆は、君たち浅薄な死神どもが足元にも及ぶものではない。……帰るといい、市丸。私には今、彼から買ってきたこの花々を愛でる忙しい時間があるのだからね」
「………………」
完璧に返り討ちに遭い、ぐうの音も出なくなった市丸ギンは、花香る無間の闇の中に一人残され、ただ呆然と立ち尽くすしかなかったのだった。