静寂に包まれた一番隊庁舎。その奥深くに位置する総隊長室の重厚な扉が、静かに開いた。
「——失礼いたします、総隊長殿」
執務机で筆を走らせていた山本元柳斎重國が眼を向けると、そこには長らく前線を離れ、静養を続けていた副隊長・雀部長次郎忠息の姿があった。
「長次郎か……。その足取り、その霊圧の澄み渡りよう……体の具合は、もう良いのだな?」
「はい。七瀬殿の残された生命の奇跡と、皆様のおかげをもちまして、隊務は、まだ無理ですが回復いたしました。本日より、再び総隊長殿のお傍にて事務処理をメインにお仕えさせていただきます」
長次郎が深々と頭を下げると、元柳斎は静かに眼を閉じ、胸の底から重厚な息を吐き出した。
(……おお、神仏よ……よくぞ長次郎を返してくれた……)
千年以上もの刻(とき)を共に歩み、ただ一人己の影として添い遂げてくれた唯一無二の腹心。たとえ護廷の第一線に復帰できずとも、こうして無事に息災でいてくれること——それだけで、千年の孤独を背負う老将の心は、深く、深く安堵で満たされていた。
二人の間に流れる、静かで温かな感動の時間。
……だが。
その感動の余韻も冷めやらぬうちに、長次郎は極めて冷静に、何の感情も交えず口を開いた。
「つきましては総隊長殿。現世の『百花園』を拝察いたしました折、小耳に挟みました事実を、一報告としてお耳に入れておきたく存じます」
「む……? 何事だ」
「はい。市丸ギン隊長、および朽木ルキア隊員の両名が、店主不在の折、以下のような趣旨の発言を口にしておりました」
長次郎の語り口は、恐ろしいほどに淡々としていた。
一切の主観も、自身の怒りも交えず、まるで客観的な記録映像を再生するかのように、事実だけを寸分違わず述べていく。
『……そもそも山本総隊長が! しっかり護廷の手綱を握っとらんからなんや!!』
『そ、その通りだ!! 山本総隊長がビシッと隊長格を統制しておらんから、我らがこのような理不尽な目に遭うのだ!! 全ては総隊長の過失と言っても過言ではない!!』
「——以上でございます」
「………………」
一番隊総隊長室の空気が、絶無の無へと落ちた。
元柳斎は表面上、眉一つ動かさず、静かに腕を組んでいた。
だが、余計な感情を一切挟まず「ただ事実のみ」を克明に報告する長次郎の態度こそが、かえってその発言の100%の真実味を物語っていた。
脳裏に浮かぶのは、ヘラヘラと狐のような笑みを浮かべる市丸ギンと、調子に乗って青筋を立てている朽木ルキアの顔面。
……ピキッ。
元柳斎の隆々たるおでこに、極太の青筋が一本、鮮烈に浮かび上がった。
「……長次郎よ」
「は」
「退出する前に……一つ、頼まれてはくれぬか?」
元柳斎の声は、恐ろしいほどに低く、静かであった。だがその声の裏には、三界を焼き尽くす流刃若火の猛火すら生温く思えるほどの、圧倒的な憤怒が渦巻いていた。
「『護廷の教育が行き届いておらぬ』……『手綱が緩い』……。ふむ、確かに護廷を預かる総隊長として、儂の責任でもあるのかもしれんのう」
「…………」
「儂はこれより、一番隊の『特別特訓室』にて待つ。……ゆえに長次郎、あの二人の顔を、今すぐそこへ呼び出してはくれまいか?」
長次郎は、その命令の意図を完璧に理解し、静かに深々と一礼した。
「ハッ。謹んで、引き受け仕り候」
静かに部屋を辞していく長次郎の背中を見送りながら、元柳斎はゆっくりと立ち上がった。
その頃、十番隊庁舎付近の廊下で「いや〜今日はええケーキも食べられたし、すっきりしたわぁ」「うむ、たまには言いたいことを言うのも精神衛生上良いことだな!」などと気楽に談笑していた市丸ギンと朽木ルキア。
二人はまだ、何も知らなかった。
先週末に味わった四番隊地下室の「地獄の片道チケット」や、浦原地下室の「絶対先制の無限地獄」など、今から始まる「煉獄」の恐怖に比べれば、ただの準備運動に過ぎなかったということを——。「市丸隊長、朽木隊員」
静かな、しかし凛とした声が十番隊近くの廊下に響いた。
振り返った市丸ギンと朽木ルキアの目の前に立っていたのは、一番隊副隊長・雀部長次郎忠息であった。
「……ッ!? 雀部副隊長……!?」
「おお……! 体調はもうよろしいのですか!?」
二人は目を丸くしたあと、パッと表情を輝かせた。
かつて先代の戦争で深手を負い、長く前線を離れていた長次郎の無事な姿に、心からの喜びがこみ上げてきたのだ。
「ええ、ありがとうございます。護廷の任務へ完全に復帰することは叶いませんが……日常生活には何ら支障もございません」
長次郎は穏やかに頭を下げた。二人は「それは良かった……!」と胸を撫でおろす。
……だが、長次郎の次の言葉で、現場の空気は一瞬で氷点下へと叩き落とされた。
「ところで……お二人にお伝えせねばならぬことがございます。総隊長殿が、一番隊の『特別特訓室』にてお二人をお待ちです」
「……え?」
「……『特別特訓室』……?」
「特」という字が二つも重なる、一番隊で最も恐れられている地下施設。
その名を聞いた瞬間、二人の脳裏に「なぜバレた!?」という絶望的な問いが疾風のごとく駆け巡った。
(アカンアカンアカン!! 百花園での愚痴がもう山じいに届いてる!? 誰が!? 影か!? 影におったんか!?)
(ば、馬鹿な……! 我らはただの世間話の延長で……! 待て、特別特訓室だと!? あそこは生きて帰れた者がおらんという……!!)
「……あ、あのう、雀部副隊長? 僕はちょっと急な書類仕事が——」
「わ、私も十三番隊で緊急の巡回任務が——」
二人は冷や汗を滝のように流しながら、じりじりと後ずさりを始めた。完全に逃走モードである。
(……やれやれ。流石にこのままでは逃げ出しますか)
長次郎は心の中で小さく溜め息をつくと、顔一つ変えずにスーッと目を細め、至極滑らかな口調で一計を案じた。
「……ふむ。お二人とも、何か勘違いをされておられませんか?」
「「え……?」」
「総隊長殿は大変感銘を受けておられましたよ。『あのアホ……ゲホン、あの二人のおかげで、長年失っていた“大切なこと”を思い出させてもらった』と……万感の思いだと仰っておりました」
(※万感どころか、卍解(残火の太刀)を出す気満々ですがね)
長次郎の言葉に、二人は「えっ!?」と足を止めた。
「総隊長殿は、お二人のその並々ならぬ『忠義』に深く感謝し、特別に褒美をとらすと仰っておられます。しかしながら、これは個人的な労いでございます。他の隊員の示しがつかぬため、人目のつかぬ特別特訓室でお渡ししたい……とのことです」
(※嘘偽りは何一つ申しておりませんよ。私は事実の言い回しを変えて述べているだけです)
長次郎の恐ろしいまでに堂々としたブラフ。
純粋(?)な二人の脳内で、一瞬にして都合の良い解釈が組み上がっていった。
「な、なんや〜〜〜っ!! 脅かすんといてよ雀部副隊長!! 『手綱を締め直してくれた』っていう僕らの深い忠義が、山じいに伝わっとったんや!!」
「う、む!! さすがは山本総隊長殿! 我らの真意(※ただの愚痴)を見抜き、褒美を下さるとは! いやはや、疑ってしまって申し訳ないことをした!」
単純すぎる二人は、すっかり恐怖を忘れて「褒美って何やろな? 高級なお茶菓子かな?」「名刀かもしれんぞ!」と喜び勇み、スキップ混じりの足取りで一番隊の『特別特訓室』へと向かって走っていった。
その楽しげな背中を、長次郎は静かに見送った。
「……フッ。お気をつけて」
一番隊地下深部——『特別特訓室』。
重厚な鉄の扉を押し開けた二人は、一瞬で「自分たちがとんでもない罠に飛び込んだ」ことを悟った。
ズゥゥゥゥン…………ッ!!!!
部屋の中は、息をすることすら困難な灼熱の重圧(霊圧)で満たされていた。
中央に佇むのは、眼光をギラつかせ、今にも『流刃若火』を抜き放とうとしている山本元柳斎重國。
「よお来たのう……市丸、朽木。護廷の手綱が緩いと教えてくれたお主らに……特大の『褒美』をやろうぞ……!!」
「「ひ、ひえぇぇぇぇえええええっ!!!???」」
あまりの恐怖に泡を吹いて倒れそうになる二人。
そして、逃げ出そうと振り返った二人の目に飛び込んできたのは、部屋の隅に笑顔で待機している四番隊隊長・卯ノ花烈の姿であった。
「あらあら、いらっしゃいませ。どうぞご安心くださいね。どれほど燃やされても、私が何度でも『元通り』にして差し上げますから……ふふふ」
地獄の業火で焼き尽くさんとする総隊長と、絶対に死なせないために極上の回道を用意して微笑む四番隊隊長。
「「ぎゃあああああああああああッ!!!!」」
絶叫が地下室に響き渡り、瀞霊廷の歴史に残る「煉獄の特訓(※正座説教&炎の鉄拳)」が幕を開けたのだった。
その頃——現世の『百花園』。
「あ、百花! このショートケーキ、いちごがすっごく甘くて美味しいよ!」
「ふふ、主様がお気に召したなら何よりですわ」
平和なお茶会を楽しむ二人の耳に、遠くソウル・ソサエティから届くはずもない悲鳴が届くことは、決してなかったのであった。
煉獄の説教部屋の開幕です。しばしお付き合いを(笑)