市丸ギンとの接触、そして幾度となく発生する「計算の狂い」。
藍染惣右介の頭脳は、瀞霊廷の暗部に潜む一つの「不確定要素」を、ついに完全な特記事項として割り出しつつあった。
1. 完璧な実験と「0.00%」の誤差
五番隊執務室。深夜。
藍染は卓上に広げられた膨大な「死亡・重傷者報告書」と「霊力観測データ」を検分していた。
「……おかしいね、ギン」
羽織を羽織り直しながら、藍染は背後に立つ市丸ギンへ静かに問いかけた。
「過去五十年における、隊員たちの『事故死』および『虚との遭遇率』。私の配置した下級虚や実験体による致死率は、概ね計算通りだ。……ただ一点、特定の空間においてのみ、致致率が完璧な『ゼロ』を推移している」
「へえ……? そりゃ偶然の幸運ちゅうやつと違いますか、藍染様」
ギンは口元に薄笑いを浮かべたままだが、内心では背筋を冷や汗が伝っていた。
「偶然で片付けるには、回数が多すぎる。……そして何より、その現場には必ず『彼』がいる」
藍染が提示した一枚の書類。そこには、主人公の顔写真と質素な経歴が記されていた。
所属:一番隊(あるいは全隊雑務係)。
霊圧測定値:最下位クラス。
特記事項:特になし。
「天理……。霊圧も薄く、存在感もないただの平隊員。ですがね、ギン。彼が視界に入っている戦闘において、私の意図した『致死の瞬間』が一度も成立していない」
藍染の眼光が、冷たく冴え渡る。
「私の『鏡花水月』は完璧だ。……だが、彼を認識した瞬間に、私の脳が『攻撃の選択』を無意識に避けているような感覚がある。……まるで、我が本能が『関わるな』と叫んでいるかのように」
2. 五番隊舎での「観察」という罠
数日後。藍染は天理を五番隊舎の庭園清掃という名目で呼び出した。
直接的な攻撃ではなく、「観察と環境負荷による心理的・霊的反応の測定」を試みるためだ。
「やあ、来てくれましたね」
柔らかな笑みをたたえ、眼鏡を押し上げる藍染。
主人公は竹箒を手に、深々と頭を下げた。
「五番隊隊長閣下。雑務の言い渡しと聞き、参上いたしました」
「ええ。この庭園の落ち葉拾いをお願いしたいのです。……ああ、気にせず作業を続けてください」
藍染は庭園の縁側に腰を下ろし、静かに茶を啜り始めた。
一見すれば、穏やかな隊長と勤勉な平隊員の長閑な風景。
だが、空間の緊張感は異様だった。
藍染は、天理の「一挙一動」を観察していた。
筋肉の弛緩、呼吸の周期、重心の移動、そして霊力の微小な揺らぎ。
さらに藍染は、密かに庭園の隅に「極小の試作型・下級虚」を潜ませていた。
(……さて、試させてもらいましょう。君がただの無能か、それとも……)
藍染が指先で微かな霊圧の合図を送る。
潜ませていた虚が、天理の背後から完璧な無音で爪を振り下ろす手はずだった。
3. 破綻する試み
虚が影から躍り出ようとした、そのコンマ一秒前。
主人公は、ただ黙々と落ち葉を箒で集めていた。
振り返りもしない。刀に手をかけることもない。
ただ、落ち葉の山の先を、静かに「見つめた」。
カツンッ……!!
澄んだ、小さな打撃音。
次の瞬間、影の中に潜んでいた下級虚の頭部と核(コア)が、現れる前に内側から粉々に爆砕した。
空気の振動すら発生せず、ただ「存在そのものが潰された」かのように、影の中で虚の霊圧が霧散する。
「……っ!?」
藍染の手にあった茶呑みが、微かに揺れた。
(……見えなかった。……いや、違う。『攻撃動作』すら存在しなかった。……虚が攻撃を仕掛けようとした瞬間以前に、すでに『撃滅の事実』が確定していた……!?)
藍染の脳内で、築き上げてきた論理と計算が激しく摩擦を起こす。
(催眠ではない。空間転移でもない。……『視線』か? いや、視認した瞬間に『絶対に先制して事象を破砕する』理(ことわり)そのもの……!?)
藍染の視線が、ゆっくりと立ち上がった天理へと注がれる。
主人公は箒を叩き、静かに言った。
「……失礼いたしました。庭の隅にムカデがおりましたので、駆除いたしました」
「……ああ。……手際が良いですね」
藍染の額に、誰も気づかないレベルの微かな冷や汗が浮かんでいた。
(……この男は、私を殺そうとしてはいない。……だが、私が彼に『害』を及ぼそうとした瞬間、あるいは彼の『平穏』を脅かした瞬間……私は『鏡花水月』を抜く前に物理的に砕かれる……!)
4. 静かなる「詰み」の確認
藍染はゆっくりと立ち上がり、天理の元へと歩み寄った。
間合い、わずか二歩。
藍染がここで刀を抜けば、瀞霊廷の半分を吹き飛ばす死闘が始まる——あるいは、藍染が一方的に打ち倒される。
「……天理君」
「はい、藍染隊長」
二人の視線が交錯する。
藍染の完璧な知性と絶対のプライド。
主人公の、どこまでも深く、何も映さない凪いだ瞳。
藍染は、自身の体内の崩玉が、この平隊員の存在に対して「拒絶反応」に近い異様な霊圧の揺らぎを見せていることに気づいた。崩玉すらも、この男を「進化の対象」ではなく「絶対の天敵」と認識しているのだ。
(……なるほど。私という『神』に至る存在の前に打ち立てられた、理外の絶対障壁……。これが……君という存在か)
藍染は口元に、いつもの穏やかな、しかしどこか引きつった笑みを浮かべた。
「……素晴らしい掃除の手際だ。……君のような優秀な平隊員がいてくれて、五番隊も助かります」
「もったいないお言葉です。……では、私は次の掃除場所へ参ります」
天理は一礼すると、竹箒を抱えて静かに去っていった。
その背中を見送りながら、藍染惣右介は静かに刀の柄から手を離した。
(……触れてはならない。……私の計画が完成し、天の座に就くその瞬間まで……あの男には一切の手を出してはならない)
藍染は悟ったのだ。
あの平隊員を排除しようと試みることこそが、自らの計画を最も急速に破綻させる「最大の罠」であると。
「……面白い」
藍染は眼鏡を押し上げ、静かに独りごちた。
「世界には……私の計算を嘲笑う『無』が存在するということか……」
絶対の謀略家が、生涯で唯一「手出しを諦めた」瞬間であった。