小説を書くのは初めてですが、自分の生きた証を何かに残したくて、活動を始めてみました。
不定期な更新にはなってしまいますが、ご興味持っていただけたら幸いです。
何でもそうだろう。
我々、人は気づかぬうちになくしている。買い溜めしておいたゴミ袋も、交通系ICの残高も、ワイヤレスイヤホンの充電も、時間さえも。
ただ、大抵のものはどれだけ消費したところで、お金を使えば元に戻るから、誰だって忘れられぬ後悔はしないし、消費すること自体気にすることもない。次は気を付けてみよう、そんな明日にでも忘れる教訓をせいぜい頭の端っこで考えるだけだ。だから同じようなミスをするのだ。まあ、そんなことに脳のリソースを割けるほど、暇な人生を歩んでいない証拠だろう。
後悔をした経験はあるだろうか。きっと大半の後悔がお金があってもどうすることもできないものであろう。もっと言うと、時間や愛情、人間関係など無形のものばかりが対象だと思う。一方で有形のものだってある、という主張に対しては、そのモノに込められた思い出や歴史という時間が後悔の念を生み出していると考えると、根本は無形物であるとお答えしたい。
代表的な後悔と言えば、「もっと学生時代に遊んでおけばよかった」だろう。社会人になりたての人は皆、口を揃えて不満をこぼす。別に社会人の方が自由に使えるお金はあるし、宿題なんてものはないから、休日は自由に時間を使えることを考えると、むしろ学生時代より自由度は高いはずなのに、なぜか後悔するのだ。もっと言うと、高校生の頃がよかった、中学生の頃は楽しかったなどと、どんどん過去に遡っていく人が多数いるのだ。不自由で何もなかったあの頃に思いを馳せてしまう。今なら気にせず好きなゲームを買えるけれど過去の自分はどのゲームを買うか、貯金箱の中身と睨めっこしながら買ったものだろう。
この先に手にするものと、この先失っていくもの、どちらの価値が高いだろうか?
きっと後者だ。私たちはそれを知っている。もっと良いもの手にしてやると奮起できるものが成功者になれるのだと私は思う。いや、もう一要素必要だ。なぜ失ってしまったのか、その過ちを認め、失敗から学び、それを活かして、前を向けるものが成功者になるのであろう。
例えばだが、上司が自分の武勇伝を語るというイベントを皆は経験したことがあるだろうか。私はこう思うのだ。
― この人は成功者ではない
たしかに聞き手、例えば新入社員だとすると、自分がその時代のときは、と比較対象として同じ時間軸に話を持って行くのは妥当だと思う。ただ時代背景も違えば、流行だって違うだろう。何か問題を起こせばすぐさまSNSに上げられ、炎上する世の中ではなかっただろう?
そうであれば、今のあなたの話をするべきではないだろうかと思うのだ。同じ時間軸で上司として、あなたはどういう心意気で社会と闘っているのか、何を問題として、何を解決したいと願って働いているのか。それを伝える方が、新入社員によっては、有意義な時間になるだろう。自分の上司が何を目指しているのかが明確になれば、おのずと働く意味を見つけやすくなるものだ。
だけど、今をあるいは未来を語らず、過去を語ってしまうというのは、やはりこの人も過去に生きている証なのだ。この上司にとっては、「がむしゃらに猪突猛進で働いていた頃の自分」が一番輝いていて、ある意味、青春と呼べるような大切な時間だったのだろう。取り戻せない初々しい時間に今でもふけってしまう、それが原因なのだ。つまり、上司の武勇伝は、考え方によっては、大学生が高校生を羨むのと全く一緒であり、そう考えると少しだけ面白い話に思えてくるかもしれない。
ただ一つコメントをするのであれば、立場が上になった今の方が絶対に責任の大きな仕事をして、昔の自分以上に踏ん張っていて、誇らしいことをしているはずなのに、どうして過去を語ってしまうのかと、声を大にして言ってやりたいと考えてしまう。
そんなことはさて置き、おそらくこのイベントは多くの人が体験していることのはず。その数だけ、過去に生きている人がいるということだ。中には未来を語る人もいると思うが、そういう人は大切にした方が良い。
私たち人間は時間の後悔以上に、人間関係で大きな後悔をする。友人、親友、恋人、家族と色々な形の関係性があるが、伝えられなかった、渡せなかった、触れられなかった、謝れなかった、向き合えなかった、多くのできなかったが我々に大きな後悔の念を産み付け、まるで呪いかのごとく、胸を締め付け、離さない。人類が誕生してからどれだけ時間が経とうとも、どの年代においても、この呪いは存在し、今もなお残り続けているのは、おかしな話だ。進化の中で、環境に対して最適化されてきたはずなのに、この呪いだけは淘汰されなかったのだ。特効薬があるわけでもないのに。
極論、誰とも関わらなければ、呪いに侵される心配はない。皆がそれを知っているはずなのに、関係性を築き続け、果てには何十億人とまで増加し続けた人類は、最も弱い生物であろう。たまたまヒエラルキーの頂点になれただけで、世の中には独りでも生きていける生物だっている。本当に情けない。
ここまで人類が多くなっていったのには理由はある。縄文時代、人は狩りをして生きていきた。狩りの対象は猪や熊などの「人」よりも強い生物が相手だった。1体1では勝機は薄い。だからあの時代の人たちは共に協力し合って生きてきたのだ。ある人は狩りの共闘者として、ある人は木の実などの採取者として、互いに協力し合うことで当時は低いヒエラルキーだった人類は生き延びてきたのだ。だから、人の多さは出来ることの可能性に直結していたため重要であったのだ。しかし、ヒエラルキーの頂点となった今は、互いに蹴落とし合うことが効率的であると考え、自分たちの利益のためだけに「人」を消費することが正義であると考える人が出てきてしまったのだ。本当にくそったれな世界である。いっそのこと、人類よりも高次の生き物が出てくれば、少しかはマシな社会ができるのかもしれないと思ってしまう。本当に嫌になってしまうな…
私は…
いや、俺は…
こんなことを考えるために生まれてきたわけではない。世界に絶望するために生まれてきたわけではないのだ。
好きな人と共に時間を過ごして、苦楽を共にして、小さな幸せを十二分に分かち合う。そんな人生を歩みたかったのだ。誰かに「ありがとう」を言われたくて、誰かに必要とされたくて、誰かを必要としたい、そんなキラキラとした人生に…
モノトーンの世界を少しでも色付けたいと、諦めの悪い俺は今日も、同じドアを開けて同じ道を通り、同じ電車に乗る。ため息だらけの密室は今日も俺を少しずつ蝕んでいくれけど、イヤホンを耳にはめて、鼓膜を好きな音で振動させることで、着実に己を蝕んでいく、微かな音を聞かないようにするのだ。