篠原先輩に促されて入ったのは、会社の近くにあるいつもの行きつけの居酒屋『
外観は古く、木の引き戸は何度も擦れた跡があり、暖簾は色褪せている。中はお世辞にも広いとは言えず、カウンター席5つとテーブル席4つが備わっている。照明は柔らかく、店内の壁にはメニューの書かれた紙がいくつも貼られており、入り口近くの壁には芸能人の色紙とお店に訪ねてきた時の写真が飾られている。俺はこの雰囲気がとても好きで、この店内だけ時間がゆっくりと流れているような安心感を抱いてしまうのだ。
篠原先輩と俺はカウンター席に腰を下ろした。カウンター越しに見える厨房では、年配のご主人が手際よく鍋を返していた。そして、出来上がった料理を女将が丁寧に小皿に盛り付けていた。この店は個人で営んでおり、今目の前にいる老夫婦2人で切り盛りしている。バイトも雇ってはいるらしいのだが、2、3人しか雇っておらず、その日誰も手が空いていなければ、完全に2人でお店を回しているのだ。
女将が俺たちの来店に気づいたみたいで、いらっしゃいと、にこやかに挨拶をしてくれた。
「取り敢えず、生2つお願いします」
篠原先輩は、女将の笑顔に返すように、右手で「2」を示しながら、柔らかな笑顔で注文した。外行きの笑顔ではない、本当に身体の奥底から湧いて出てきた幸福感から来る笑顔だったので、この店の雰囲気にすでにあてられているのであろう。
注文してから少し経って、女将はお通しと一緒にビールを運んできた。お通しは素朴なの煮物。湯気がふわりと立ち上る。このシンプルさが却って食欲をそそる。
「ひとまず乾杯しちゃおうか」
「そうですね」
互いにジョッキを当てて、コツンと鳴らす。
ビールの泡を一口含むと、喉の奥がすっと緩む。お互いにビールで食事の開始を身体に伝えると、早速、お通しの煮物を口に運ぶ。煮物の具材はとてもシンプルで、大根、人参、こんにゃく、鶏肉だ。どれもこれもしっかりと味が染み込んでいて美味しい。噛むたびに、煮汁がじゅわりと染み出し、喉の奥まで優しく落ちていく。まだまだジャンキーな食べ物を好む年頃ではあるが、この煮物は別だ。
篠原先輩は箸を止めずにこちらを見て軽く笑った。
「ここの店の煮物はやっぱり美味いよな」
その声に女将が奥から、「嬉しいこと言うわね」と照れくさそうに返す。
「この優しい味が仕事終わりに染みるんですよ!」
俺もこの暖かい輪に入りたくて大根を頬張りながら続く。
一人暮らしをしていると、こういうやり取りが本当に嬉しく思う。誰かと会話をしながら、温かい食事を食べる、そんな当たり前の幸せに気づくまでに20年以上もかかってしまったけれど、これが大人になることなんだと思う。
お通しの煮物は一瞬でなくなってしまった。箸を置くと、器の底に残った煮汁が光を反射していた。小さな一皿ではあるが、今日の疲れを吹き飛ばすには十分すぎる一品であった。
その後は、ビールを1杯、2杯と飲みながら、串や揚げ物、サラダなど、1つ1つ昔ながらの味付けを楽しみながらお腹を満たしていった。
いい感じにお腹も満たされ、酔いが回ってきた頃に、篠原先輩は仕事の話をぽつりと切り出した。最初は、互いに仕事の愚痴を言い合っていた。あそこの対応は悪いだの、上司はああだの、俺たちのストレスの矛先はあらゆる方向に向かっていった。仕事のできる篠原先輩でさえも、色々なことを溜めているんだなと思うと、少しだけ安堵するのだ。どんな人でも完璧ではないんだと。
「んで、安田は何を悩んでいるんだ?」
やがて話題は本日のメイントピックである俺の悩みへと移っていった。急に話題を振られたものだから、心拍が一瞬早くなった。それを落ち着かせるために俺はビールを一口、身体に流し込んだ。ビールジョッキを置くと同時に俺は少しだけ息を吐いた。篠原先輩の方を見ると、先輩の視線は穏やかで、アルコールのせいか頬が赤くなっていた。
「自分の選択は正しかったのかなって最近思うんですよね」
「選択?」
「はい、もしあの時別の選択をしていたらどうなっていたんだろうとか、これが最善の選択だったんだろうかとか、今に不満があるわけではないんですけど、満足もしていなくて」
そう、決して今に不満があるわけではないのだ。こうして尊敬できる先輩に出会えて、行きつけの居酒屋だってある。働くことは大変だけれど、自分なりにやりがいを見つけているし、そもそも大学を卒業して、真っ当に社会人として頑張れていることを誇りに思っている。
しかしその一方で、もっと良い生き方があるのではないか、自分に取っての幸せは別のところにあるのではないか、もっと自分を必要としてくれる人がどこかにいるのではないか、と考えてしまう。
最終的には、働くことの意味はなんだろうと悩む日もあった。生きるために働く、これも立派な理由だと思う。しかし、俺はそれだけでは働けなかった。
― 誰かの役に立ちたい。
直接ではなくていい、自分の頑張りが誰かの役に立てばと思って、常日頃働いているのだ。しかし、特定の誰でもない、もやっとしたどこの誰かもわからない相手の役に立ちたいなんて、抽象的すぎてモチベーションの維持に役に立たなかった。
1、2年目の頃は、仕事を覚えなくてはいけないという大きなミッションがあったから、がむしゃらに頑張ることができた。これが誰かの役に立つんだと、信じて疑っていなかった。しかし、少し仕事に慣れ始めると、他のことを考えられる余裕が生まれる。そこに付け入るように、
― こんなに頑張っているけれど、お前の幸せはどうした?
― 誰かのためと言っているけれど、その誰かはお前の頑張りを知らないんだぞ?
もし、恋人の1人や2人がいれば、その人のためにと奮起するんだろう。しかし、あいにく俺にはそんな相手はいない。
「人生についての悩みか…」
なるほどなぁ…と右手を顎にあてて、次の言葉を探していた。
先輩の言葉を待たずに俺はさらに続ける。
「大学とか高校の友達のSNSを見ると、楽しそうな写真ばかりアップされていて、それに比べると自分は本当に平凡な生活を送っているなって思っちゃうんですよね。地元に残った友達で、早い人はもう結婚したりとか…」
旅行に行った、ライブに行った、彼女・彼氏とデートをしたなど、挙げればキリがないのだが、俺のスマホの画面にはキラキラとしたみんなの思い出が流れてくる。
俺はアクティブな方ではない。休日は家にいて、映画を観たり、読書をしたり、ゲームしたり、基本的にインドアな方なのだ。だから、SNSを見なければ俺だって充実した日々を過ごしているのだ。けれども、暇さえあればスマホと睨めっこし、気づけばSNSを見ている。そんなアプリ消してしまえと思うけれども、社会人となった今、日本中に散らばった友達と唯一繋がれるのはSNS上のみであろう。
「まあ、人と比べるなって言われても無意識に比べちゃうよな」
「はい…」
「選択っていうのは、もし安田も別の選択をしていたら、SNSに写真を挙げている側になれたかもしれないってことか」
「そうです。キラキラした生活が全てではないんですけど、自分にとっての幸せって何だろうなって思うんですよ」
篠原先輩は、安易に言葉を発さなかった。
カウンターの向こうからは鍋をかき混ぜる音が聞こえてくるが、この間を満たすには十分なBGMだった。
何か自分の中で考えがまとまったのか、篠原先輩はビールの残りを一気に飲み干し、俺の顔を見た。
「ある程度進まないと、それが正解だったかなんてわからないし、どれだけ進めばいいのかすらもわからないからな」
そう言って、篠原先輩は「女将さん、水2つもらっていいですか?」と最初にビールを頼んだ時と同じく、右手で「2」を示しながら注文をする。ただ違うところは、声のトーンが1段階下がったくらいだろうか。
「俺も入社したときは、ああこの仕事自分には向いていないかもなって悩んだもんな。それこそ何でこの会社を選んだって自分を責めたことだってある」
そんなこともあったな、なんて小さく微笑みながら言う。
「たしかに、あの時今の仕事をやめて、別の道を選んでいたらと思うときはあるさ。でも、今の道でしか得られなかったものだってたくさんある。この店に出会えたこともそうだし、お前に出会えたこともだ」
そのとき、女将がそっと水を差しだす。篠原先輩はそれを受け取りながら、ふと笑って続ける。
「たらればの未来って、良いことばかりしか考えられていないんだ。自分の望みを叶うことしかな。でも実際は違うだろ? 色んな困難がその道中にあるだろうし、最悪、望みが叶わないかもしれない。過程をすっ飛ばしているんだよ。今俺たちが進んでいる道も、たらればの道も結局は不確定なことばかりなんだ。だったら、たらればを考え続けるより、俺たちの歩いている道の延長上に、望みが叶う未来を描いていた方が良いと思うんだ。その方が少しかはマシな人生になるんだと思う」
どこまでも穏やかに、ゆっくりな口調で、まるで自分にも言い聞かせているかのように、篠原先輩は言葉を紡いでいく。俺が先輩に出会ったころには、すでに仕事のできる頼れる先輩だった。しかし、その背景にはきっと悩みや葛藤、悲しみや苦しみがあったのだろう。だからこそ、自分の中で答えが出ているのだ。
「でも、まあ、言っていることは自分の面倒は自分で見ろよってことなんだよなぁ。お前が選んだ道なんだから責任持って、それが正しかったと証明をしていくことが人生なんだと思う」
「自由って本当に贅沢な悩みですね」
「たしかにそうだな」
互いに苦笑してしまう。
「まあ、あれだ。安田が今感じていることはちゃんと意味があるさ。焦って前に進む必要はないし、立ち止まってじっくり考えることも大切なんだよ。そして、その悩んだ経験は自分のためにもなるし、いつか同じ悩みを抱えた人に出会ったときには助けになってあげられる。安田は優しくて強い人間になれるよ」
― 優しくて強い人間になれる
そんな先輩からの言葉に、少しだけ胸の淀みが解けていく感覚があった。この悩みはネガティブなものだと思っていたけど、見方を変えればそのようにも見えるのかと、もう少しだけ楽観的に考えてみてもいいのかもしれない。
2人とも酔い覚ましのための水を飲み干し、会計を済ませて店を出た。
店を出ると、夜風が頬を撫でた。心地の良い風だった。すでに日は沈み、街灯が夜の街を照らしていた。
「それじゃあ、帰るかぁ!」
真面目な話をしていたせいで、身体が変に固まっている。それをほぐすためか篠原先輩は両腕を挙げて身体を伸ばす。
俺と先輩は並んで歩く。街路樹の葉が夜風に揺れて、葉擦れの音が小さなリズムを作る。コンビニを横切るとき、自動ドアが開いた。店内から明かりが漏れ、買い物袋を提げた人が出てくる。同時に遠くの方で車のクラクションが聞こえた。しかしすぐに夜の静けさに溶けて行ってしまった。
交差点を渡ると、駅が見えてくる。駅前に近づくと、徐々に人の流れが多くなっていくのを感じた。仕事帰りのサラリーマン、大きなリュックを背負っている学生、スマホを見ながらも器用に人を避けて歩く若者、それぞれの足取りが交叉して、駅前は賑やかな雑踏を作っている。
駅内に入ると、流れはさらに濃くなる。改札は次から次へと来る多くの人を捌いていた。俺も先輩も人の流れに沿って、ICカードを介して改札を通る。
「俺はこっちだから」
「あ、はい! 今日は色々とありがとうございました」
「いいって、また飲みに付き合ってくれ」
「こちらこそ!」
使っている路線が異なるため、ここで別れることになる。先輩は優しい笑顔で「また、明日な」と言って、目的の路線まで歩き出した。
俺は先輩の背中を見送ることにした。心臓のあたりが僅かに温かい。問題は解決してはいない。けれども、今日は先輩と飲みに行ってよかったと心底感じている。
先輩を見送ったあと、俺は背筋を伸ばして、自分のホームへと向けて歩き出した。