未完   作:shok

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俺の一期一会

 土曜の朝は、平日よりもゆっくりと始まる。アラームを止めてからもう一度布団にもぐり、天井を眺めながら今日の予定をぼんやりと反芻する。

 

 「特に予定はないな…」

 

 腕を伸ばしてスマホを掴む。画面をスワイプして、ニュースアプリを立ち上げる。すると画面には朝のニュース見出しが羅列し、やれ税金が、やれ不倫だ、やれ事件だ、と嫌なニュースしか目に入ってこない。気になるものをいくつか目を通し、画面をSNSに移す。友人の何気ない投稿や芸能人、配信者の投稿を見て、時にはふっと笑ったり、真剣に文章を読んだり、ニュースを見ているよりも有意義に自分が欲しい情報だけを吟味していた。

 そんなことをしていると、やがて意識は覚醒し、ベッドから起き上がってみようという気持ちが湧いてくる。カーテンを開けると、日の光が部屋の中を一気に明るくする。俺は、ベッドから起き上がり、パジャマのままキッチンへと向かう。ポッドに水を入れて、湯を沸かす。その間、頭上の棚からインスタントのコーヒーを取り出し、カップに用意する。カチッとポッドが鳴れば、お湯の準備は完了。そして、湯がポットから注がれるときの蒸気を浴びながら、カップの中でコーヒーで生成していく。

 インスタントのコーヒーは手軽に淹れることができるから良い。俺は出来上がったコーヒーを持って、椅子に座る。カップに注いだコーヒーを一口含むと、苦みと温度が身体に染み渡り、頭のモヤが晴れていく。

 コーヒーを傾けながら、今日のことを考える。

 

 「久しぶりに本屋でも行こうかな」

 

 つぶやいても返事が来ることはないことくらいわかってはいるが、一人暮らしをしていると独り言が癖になってきてしまうのはあるあるだろう。

 俺は、下調べをせずに古本屋に行くのが好きだ。下調べをしないで直感で本を選ぶ、これはある種の出会いだと感じている。どんな本に出会えるかは行ってみないとわからない、そして一期一会とはこういうことだろうと考えているのだ。あくまで持論だが…

 ここ最近は仕事が忙しかったせいで、本屋に行けていなかったし、本を読む時間を確保できていなかった。休日は平日の疲れを癒すために、寝て過ごすことが多かったのも要因であろう。しかし、今日の俺は違った。篠原先輩にもらった言葉たちが、俺の中で上手く消化できたんだと思う。

 急遽、今日の予定ができたが、だからといって残ったコーヒーを一気に飲み干すことはしなかった。誰にも何にも急かされない土曜の午前中を十二分に楽しもうと思ったからだ。

 

♢♢♢

 

 軽く身支度を済ませ、外に出る準備をする。財布とスマホ、本を入れるための小さなトートバッグを手に取る。出かける前にもう一度スマホを覗き、何かメッセージが来ていないかだけ確認する。ショッピングサイトからの広告メールが2件来ていただけで、特に緊急のものはなかった。

 玄関のドアを開けると、朝の空気が肌に触れた。涼しくて心地よい空気だった。駅までの道を歩きながら、どんな本に出会えるのだろうかと心の中で小さな期待を膨らませる。目的の古本屋は電車で2駅先のところにある。いつも会社に行く方向とは逆方向の電車に乗ることになるため、見る景色はいつもとは違う。それが今日は休日であるという特別感を与えてくれるのだ。

 電車に乗ると、車内は休日らしいゆったりとした空気が流れていた。通勤ラッシュの押し合い・へし合いはなく、座席には新聞を広げる年配の人や、イヤホンで音楽を聴く若者がちらほらいる。また、立っている人もいるが、皆それぞれ、窓の外を眺めたり、スマホを弄ったりしており、目的地までの時間を楽しんでいた。俺は、吊革に軽く手をかけ、窓の外に流れる街並みをぼんやりと眺めていた。車窓の景色は、住宅街の屋根や小さな公園、通り沿いにある小さな店などが流れていく。窓ガラスに写る自分は少し眠たげに見えたが、それも悪くないなんて思ってしまう。

 

 目的の駅に着くと、俺と同じように休日を楽しむ人たちの流れがあった。ベビーカーを押す親子や朝からイチャイチャしながら歩くカップル、買い物袋を提げた年配の夫婦など、通勤時間の喧騒と比べると、非常にゆったりとした余裕のある時間が流れている。

 古本屋へ向かう道は、メインの通りから少し離れる。細い路地を抜けた先にあるのだ。俺は、迷うことなく古本屋へと歩みを進めた。空気は涼しく歩いているだけで汗ばむことはない。時折、そよそよと吹く風が、パン屋の窓から焼きたての匂いを引き連れてくる。思わず足を止めてしまいそうになるが、今日は本との出会いを優先する。

 駅から15分くらい歩けば、行きつけの古本屋が見えてくる。特に綺麗な店というわけではないのだが、むしろ趣があって良いと思っている。また、この店は昔からあるみたいで、この付近に引っ越してきたときに古本屋をネットで探していたら、高評価な口コミが多い店として出てきたくらいだった。色々な種類の本が見つかるし、状態も良い、そして安いということで人気の店なのだ。しかし、近年のデジタル化の影響で本を購入する人が減ってきているせいか、混んでいるということはない。経営破綻しなければいいんだけどと、来るたびに思う。

 

♢♢♢

 

 扉を押すと、外の涼しさとは別の、時間の濃度がぎゅっと詰まった空気が広がった。棚と棚の間にできた細い通路を歩くと、どこか懐かしい紙の独特な匂いが鼻腔を満たす。店主は奥のカウンターに座り、分厚い本をめくっている。客が入ると軽く会釈をするだけで余計な声はかけない。寡黙が性格な店主は、顔つきは固いのだが、目尻に優しさが滲んでいるのがわかる。固い顔つきの裏にある優しさを、ここに来る客はみんな知っており、それがこの店の人気の一因でもあるのだと思う。

 俺は、ゆっくりと棚の間を巡る。タイトル、背表紙の色、表紙が見えるように置かれている本に関しては表紙のイラストが、様々な要素が私を選んでくれと、アピールしているように感じる。

 ある棚の前で立ち止まり、手を伸ばす。裏表紙に書かれている「あらすじ」を読む。簡潔にそして興味をそそるような文章が、俺の脳内にこの小説の世界観をイメージさせる。

 

 ― 疲れた心にやさしさが染み入る。

 

 どうやらこの本は、人情系の物語らしい。

 昔は、推理小説やSF系のワクワクするものを好んでいたが、ある時から心温まる日常系・人情系の物語を好むようになっていった。確かな人とのつながりを、物語を通して感じたいからなのかもしれない。

 

 店内の照明は柔らかい。

 隣の棚からは別の客のページをめくる音が聞こえ、遠くでは店主が静かに椅子を引く音がする。1つ1つの微かな音さえも、この店内では1.5倍に聞こえてしまう。俺は、先ほど手にした本を抱えて、なるべく足音がならないように注意しながら、別の棚へと歩みを進めた。

 別のところでも、目に留まった本が1冊あった。古びた布張りの表紙は色あせており、角は擦り切れている。とてもじゃないが、良い状態の本とは言えなかった。興味本位で表紙をめくると、内側にはかすれた鉛筆の線で何かが走り書きされていた。しかし、文字が乱雑に書かれているせいで読めない。

 その本は随想集で、著者は数学の魅力を語っていた。学術書のような堅苦しさはなく、小話や経験談、ちょっとした雑学を交えながら、数学を知ると世界の見え方が変わると説いていた。ページをめくっていくと、色々なところにメモ書きが残されていた。その筆跡は、整ったものもあれば、急いで書かれた乱暴なものもあり、日本語として原型を保っていないものもあった。この本自体の内容は面白そうではあったものの、ページ端に書かれている主張の強いメモ書きたちが、本の世界への集中を妨げてしまうのだ。

 

 「さすがに読めないな…」

 

 胸裏でつぶやき、その本を元あった場所に戻した。

 結局俺は、最初に手にした本だけを買うことにした。レジの前で本を差し出すと、店主はゆっくりと本を受け取り、指先で表紙の角を確かめるように撫でた。きっと最終確認なのだろう。

 今時代、キャッシュレスが進んでいる中で、この店は現金支払いのみ対応だった。俺は財布から小銭を出し、トレイに置く。財布を閉じると、店主は顔を上げて、いつものように穏やかな目でこちらを見た。

 

 「また、いらっしゃい」

 

 店主は低い声でぽつりと言った。

 言葉は短いが、優しさたっぷりの声音だった。俺は自然と笑みを返し、軽く会釈する。店主はそれに小さくうなずき、再び分厚い本に目を落とした。受け取った本を肩にかけているトートバッグに入れ、店の扉を押す。すると、外の涼しい空気が迎えてくれた。

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