本を購入するまでに、それほど時間はかからなかったし、朝は少し早めに家を出たおかげで午前中には、まだ余裕があった。
「いったん駅の方に戻るか」
トートバックに入れた本の重みを感じながら、来た道を戻る。徐々に駅に近づくと人の流れが増えてくる。ある角を曲がった瞬間、視界の端に見覚えのある輪郭が入った。背が高く、肩のラインが昔と変わらない。俺の胸の中で、大学時代の記憶がふっと立ち上がる。声を出す前に互いに気づき、2人とも驚いたように笑った。
「おおー!
「
声は自然に弾んだ。大学卒業以来の再会は、ぎこちなさよりも先に温度を取り戻す。目の前にいる男、
一輝は手に服屋の紙袋を提げていた。朝の混んでいない時間帯に服を買いに行っていたのであろう。一輝は学生時代から朝に強いタイプで、予定は午前中に済ませるタイプだった。それが社会人になった今でも変わらずなことに気づいて、少しだけ嬉しくなった。
俺たちは特に合図をすることもなく、会話を続けながら駅の方へと歩き始めた。
「何してたんだ? 今日は」
「古本屋に行ってたんだ。直観で1冊」
トートバッグから本を取り出し、表紙を見せる。すると一輝はそれを覗き込み、にやりと笑った。
「下調べしないで行くやつ、まだやってるのかよ。結構な頻度でハズレ引いてなかったか?」
「たまたまだよ。これは絶対に刺さる」
言葉の橋端に、昔の軽やかさが混じる。
「なあ、時間あるならちょっとコーヒーとかどうだ?」
「いいね、俺も誘おうと思っていたんだ」
一輝の提案で駅前の通りにあるカフェに行くことになった。せっかくの再開をそのままにしておくのは惜しいしな。
♢♢♢
駅前のカフェはすぐに入ることができ、俺たちは窓際の席に案内された。カフェの窓際席には、外の優しい光が入り込み、木でできたテーブルを艶やかに照らしていた。
席に着くと、1つのメニューを一輝と覗き合った。
「俺はブラックかな。航は?」
「俺も同じやつで」
店内を見渡し、手の空いてそうな店員を探す。個人的な意見なのだが、呼び鈴がない店はちょっと嫌になってしまうことがある…
一輝はあまりそういうのを気にしないため、学生時代はいつも一輝に任せていた。
一輝は店員と目が合ったのだろう。にこやかに小さく手を挙げて、注文をしたい意思を表す。
「ご注文でしょうか?」
「はい、オリジナルコーヒーのホットを2つ。砂糖とミルクは大丈夫です」
「かしこまりました!」
人当たりの良い女性店員がメモを取り、足早にキッチンの方に向かった。
「注文ありがとう」
「いいってもんよ」
注文を待つ間、窓の外を行き交う人々を眺める。休日の街は平日の慌ただしさを脱ぎ捨てており、人々の表情は心なしか柔らかく感じる。俺の受け取り方次第なのかもしれないけど。
俺の胸の中には、昨日の居酒屋での会話の余韻が残っていた。何か言葉にはしたいけれど、言葉で表現できない不思議な感覚がある。良くも悪くも何かつっかえがある感じだ。
コーヒーが運ばれてくると、一輝は口を開いた。
「卒業してからどうしてた?仕事とか順調?」
「まあ、ちゃんとやってはいるよ。任されることも多くなったし、1つ1つの業務の責任も大きくなってきたと思うし。ただ、まあ、自分の進む方向が分からなくなるときがあってね」
そうか、と言い一輝はコーヒーを一口すする。
「学生の頃ってさ、未来が漠然としていようが、友人が何をしていようが、あんまり気にならなかったけど、社会人になってからは、そういうのを気にするようになってさ」
「何、隣の芝が青く見え始めたのか?」
「ものすごく青いよ」
自嘲的な笑いで返す。
一輝は一瞬を目を見開いたが、すぐに視線を自分のコーヒーに移す。ゆらゆらと立ち上る湯気を見つめながら、少しずつ言葉を紡いでいく。
「ここで会ったのも何かの縁だよな、きっと」
「急にどしたんだよ」
「俺、いま転職活動してるんだよ」
「なんで?」その言葉を簡単に言っていいのかわからず、言葉に詰まる。だけど一輝の表情はいつもの優しいそれだった。何か問題があったわけではなく、前向きな転職なんだろうか。
「あれだよ、キャリアアップって感じでね」
「そっか、それならよかったよ。でもどうして?」
そうだなぁ、と一輝は次に口にする言葉を探していた。俺はその間にコーヒーを一口含む。俺がコーヒーの苦みを十分に味わっていると、一輝は再度言葉を紡ぎ始めた。
「航がいま悩んでること、俺も去年くらいに悩んでてさ。というのも付き合っていた彼女に振られてな…」
「え、佐藤さんと別れたのか?」
「うん」
大学時代、一輝は
「それ、理由とか聞いても?」
「この先どうなるのかわからなくなったって、将来を考えられなくなったって言われた」
「なんだそれは?」
「あはは、まあ変に長く付き合いすぎるもの良くないのかもしれない」
吹っ切れていないのだろう。一輝はさらっと言葉にしたが、なんとなく俺はそう感じた。
「その時に思ったんだよね。俺の人生ってなんだっけなって、何のために頑張って働いているんだっけって。彼女いたときは、彼女のために頑張ろうと思ってやってたけど、それがなくなると急に働くことが馬鹿馬鹿しくなったんだよ」
「それで転職しようと?」
「うん。働くのはどれも辛いことだし、せっかくならもっと人の役に立てることをしたいなって。そうすれば俺の頑張った意味も価値があるってもんじゃん?」
一輝はテーブルの木目をなぞりながら語る。木目は真っすぐではなく、波を打ち、分岐し、細くなったり太くなったり、木目という1つの単語で背負うには重すぎるくらい種類豊富であった。一輝はそれに自分の人生を重ねるかのようになぞっていた。
「頑張るなら誰かのために、か」
「そう、自分の将来に希望を持てない日が来ても、誰かのためって思って頑張ってたら、多少マシに生きられると思うんだ」
これが彼なりに見つけた答えだった。大きな器を持った男の考え方には、俺も憧れや感動、嫉妬、焦燥、割合はどうであれ色々な感情が湧いていた。学生時代は、互いにバカやっていた友人が1つのきっかけで大人になり、今では俺よりも1歩前を歩いている、そんな感覚があった。
「すごいな、一輝は」
「そんなことないよ」
ひねり出した言葉が称賛だった。よかった。
俺はひねくれているかもしれない。見ず知らずの人のために頑張っても、何か自分に返ってこないと続けられないんじゃないかって。結局人は利己的な生き物だ。いつかどこかで…
「俺も答えを見つけることができるかな」
「できるさ、きっと」
会話はいったん終了した。お互いに少しぬるくなったコーヒーを口に運ぶ。一口飲んで一輝はふと何かを思い出したかのように目を見開く。
「そうだ、気分転換になるかわからないけどさ、ここなんだけど」
そう言って、一輝はスマホを都市出して写真を見せる。そこには、小さな神社の鳥居と苔むした石段が写っていた。周囲は青々とした木々に囲まれており、木の葉の隙間から陽光が差し込んで、鳥居を照らしていた。
「ご利益があるって最近有名な場所でよ、俺もこの前行ってきたんだけどめっちゃ良かった。たまには違う景色を見るのもいいよ」
「神社か、たしかにそうかもな。あとで場所送っておいてくれない?
「いいよ、送っておく」
そこからの会話は他愛のないものたちばかりだった。最近の趣味や、この前見た映画はどうだったとか、あいつ結婚したらしいぞ、とか、そんなものたちばかり。しかし、学生時代の無邪気さが少し戻ったような気がしていて、心地の良い時間が流れた。
時間はゆっくりと流れ、気づけば太陽は俺たちの真上まで来ていた。俺たちは会話の余韻を胸に、立ち上がった。店の外は、午後特有の人の流れに代わっていた。日差しがまぶしい。手をかざして空を見上げていると、一輝は俺の方を軽く叩き、にやりと笑った。
「また飲みにいこう。そのときはお前の行きつけの店で」
「いいね、激推しの店紹介するよ」
別れ際、一輝は名残惜しそうに振り返り、改札の方へ歩き出した。俺は一輝の背中を見送りながら、さっきの会話を思い出していた。
― 自分の将来に希望を持てない日が来ても、誰かのためって思って頑張ってたら、多少マシに生きられると思うんだ。
一輝の背中が人ごみに飲み込まれると、俺はスマホをポケットから取り出し、さっき教えてくれた神社を検索する。
たまにはこういうのもいいか、時間を潰せる本もあるし。
この選択が何かを動かすきっかけになるだろうと、力強く一歩踏み出した。