春が立っていたのかと思った。
大学の入学式を来週に控え、僕は地図アプリを片手に、契約したアパートに向かっていた。
通学の利便性を第一に考えた1Kの格安学生向けアパート。部屋を決める前に一度見学に来たけれど、部屋はともかく立地はかなり良い。大学に近いだけあって周辺に学生向けの店やスーパーが充実している。地図アプリはもう『気になる場所』のピンでいっぱいだ。
それに、アパート周りに並んでいる桜並木も僕は好きだ。
北陸の地元と違い、まだ3月なのに桜が咲き始めている。風も強いから、花びらがアスファルトを踊るように降り注いでいる。
自然と足取りが軽くなる。
角を曲がり、塀を伝って歩けば目的地のアパートが見えた。大学まで徒歩でおおよそ5分。信号がよければ3分で行ける距離。
あそこが僕の新生活の拠点となる城なのだ。
鼻歌でも歌ってやろうかと思った直後、綺麗な歌声が、塀の向こうから聞こえてきた。
誰かいる。
こんなに陽気な天気なのだから、そりゃあ歌も歌いたくなるよね。僕も今鼻歌を奏でるところだった。
アパートの出入り口となる塀の間口から顔を覗かせると、歌声の主はアパートの前庭、一本だけ植えられている桜の木の真下にいた。
春のように綺麗な人が、舞い散る桜の中に立っていた。
陽光を背負うその横顔がやけに鮮明に見えた。桜を見上げる顔に、睫毛の細い影が落ちている。ゆるくまとめられた三つ編みが、肩から薄い身体へと滑らかに垂れ下がり風に揺れていた。よく見れば、その腕には古びた竹ぼうきが抱えられていた。
ふと歌が途切れ、その人がこちらを振り向いた。
目が合った。
その瞬間、胸の奥が跳ねた。
視線を外したいのに、その細長な瞳に吸い寄せられて目が離せない。
どうしよう。
何か言わないと。……何を? いきなりの遭遇に脳みそが麻痺して、あ、とか、お、とか。そんな意味のないうめき声しか口から洩れてこない。
「今日からうちに住まわれる予定の方、やんね?」
そんな僕を見かねてか、その人は箒を抱えたまま僕へと歩みより、柔和な笑みで超えをかけてくれた。
関西弁だ。生で聞いたのは初めてだった。もっと威圧的なものだと思っていたのに、この人の言葉が鼓膜を撫でると不思議と緊張がほぐれる、低めの不思議な声だった。
塀越しに聞こえた歌声は、綺麗な高温だったけれど。
僕は一歩分もない距離からの問いかけに何度もうなずき、それからようやくはじめまして、とまともな日本語を口にした。
「そかそか。今日からお隣さんやなぁ。あ、ボクはここの管理人やらせてもらってます。よろしゅうなあ」
管理人さん、なのか。お隣、というのは?
「管理人もアパートに住み込みなんよ。管理人室が101号室、君が契約したんは102やろ? だから、お隣さん」
ラッキー、と僕はその時呑気に思ってしまった。こんな美人さんがいるアパートに住めるなんて、すごい僥倖だと。それもこんな優しそうな人だ。にやけそうになる頬に力をこめて無理やり無表情を保つ。
春の日差しのようにニコニコと嬉しそうな管理人さん。細い目がさらに細まって弧を描く。風になびいてふわりと淡く香るのは香水なのか、服に付いた洗剤の香りか。それをかいでいることにも罪悪感を覚えてしまい、目を合わせたままではまた緊張がぶり返して、つい僕は視線を下げてしまう。
目から白い頬、桃色の唇を通過し、そこからさらに首元へと。
ここで僕は違和感を覚えた。
この人は、どちらだ? と。
管理人さんは薄い身体にハイネックのノースリーブニットを纏っている。ハイネックであるためその喉は全く露出していない。
箒を握る白い手は、女性にしては筋張っている……ように見える。これ、僕の手より大きいのではないだろうか。それに露出している肩のラインも少し厳つい。礼服を着たとき肩パッドが不要な程度には。
さらに失礼ながら、本当に失礼ながら、胸元はその……真っ平だ。平坦であった。女性らしさというものは、管理人さんのその部位からは全くと言ってよいほど感じられない。
とはいえ、じゃあ男なのかと言われればそれもよくわからない。タイトなクロップドパンツが張り付く足はほっそりとしていて、そこから覗く踝にも色気を覚えてしまう。体毛は男性ホルモンが枯渇しているのかというほど全くない。
なにより、こんなに柔らかい笑顔を見せる人が男だなんてあり得るだろうか。
声は女性でも男性でも通りそうな心地よい低さ。身長も170センチの僕より頭半分低い程度で、男性としては小さいけど女性としては高めだ。どれも決め手にならない。
この人は、どっちなんだろう。
……いや。初対面で何を観察しているんだ、僕は。ぶしつけにもほどがある。
「……どっちやと思う?」
管理人さんがわずかに首を傾けた。見上げてくる視線にまっすぐ射抜かれて息が詰まる。
見透かされた。
まずい、と罪悪感が沸き上がって、僕はつい謝ってしまった。
「なんで謝るん?」
声がさっきより間近に聞こえた。半歩、管理人さんが僕に近づいていた。ほんの少し身を寄せられただけなのに、狼に追われる小動物のような心細さを感じる。
「ふふっ」
……笑った。むしろ笑われた。吐息の混じった笑い声が、風にかき消されずに僕の耳まで届いた。
「緊張しとる? さっきから、ずーっと顔こわばっとるけど」
恥ずかしい。でもそれを認めるのも悔しくてその言葉を否定してしまった。
「ほんま? んなら、なんでそんな耳赤いん? かーわいらしいなぁ」
クスクスと、管理人さんはまた笑う。
その声を聞くたび、胸の奥がくすぐったくなる。やめてくれ。そんな優しい顔で笑わないでくれと、僕の中で何かが悲鳴を上げた。羞恥と、くすぐったさでどうにかなってしまいそうだ。
その声でかわいい、なんて言われたら、僕はどうすればいいんだ。
耳の奥に、その言葉がいつまでも残った。近すぎる声の余韻に引っ張られるみたいに、心臓がいつまでも静まらない。
「言うたらあかんかった? ああ、男の子やもんな、かわいい言われるんは嫌やんな? ごめんな、ボク、思ったことがすぐ口にでてまうんよ」
管理人さんはウインクをして、右手で謝罪のジェスチャーを見せた。
ずるい。完全にこっちが振り回されている。
初対面なのに、いろんな感情が見透かされている。
「まぁ、これから隣同士やし。仲良うしてな?」
そう言って、管理人さんはまた笑う。優しく、柔らかな木漏れ日のように、あるいは得物を見定めた肉食獣のように。
相反する印象を突き付けてくる笑みを見て、僕の耳だけでなく体の内側までじわじわ熱くなる。
「ほらこっちおいで? 部屋とかゴミ捨て場とか場所教えたるから」
竹箒を桜の木に立てかけて、管理人さんは軽い足取りでアパートに向かっていく。
「あ、それから」
と、数歩のところで管理人さんは振り向いた。
「ボク、管理人さんとかさん付けで呼ばれるの好きじゃないんよ。と言っても管理人て呼び捨てにしろってわけでもなくてな?」
じゃあ、なんと呼べというのか。
「苗字の五木だとあの人と被るし……うん、つかさくんて呼んでくれる?」
五木つかさ、というのか。いきなり名前を知れた喜びを噛み締めながら、僕は頷いた。
「よろしい」
管理人さん……つかさくんは、うきうきと鼻歌を奏でながらまたアパートへと向かう。そのうしろ姿を見送ってから、僕は慌ててその跡を追った。
……駄目だ。
心臓、うるさすぎる。
男なのか女なのかも分からないのに。半分の確立で男なのに。
それでもひとつ、確かなことがある。
僕。
男かもしれないこの人のこと、めちゃくちゃ気になっている。