入学式までの一週間の間、僕は隣の性別不明な管理人さんとたくさん顔を合わせることができた。
ゴミ捨てのタイミングが一緒だったり、買い物に出かけるときに管理人さんと扉を開けるのが同時だったり。それに管理人さんはアパートの管理人だから、前庭の掃除や切れた電球の交換のような雑用を笑顔でしてくれるような人だった。作業中の管理人さんと出くわすことも何度かあり、その度に僕は手伝いを申し出た。
その積み重ねで、少しずつ管理人さんと仲良くなれてきたんじゃないかなと思う。
昨日なんて、作りすぎたからなんて言って鍋半分を占めている肉じゃがを持ってきてくれたし。
「もう冷蔵庫がタッパでいっぱいやねん。それにじゃがいもってな、冷蔵庫に入れておくと食感がグニャグニャになってまうから日持ちせんのよ」
そうなんだ、と僕は関心しながらありがたく管理人さんの手料理を戴くことにした。
肉にも芋にも味が染みていて大変美味だった。
管理人さんは以前飲食店のキッチンでバイトをしていたそうで、料理は得意なんだとか。
炊いた米に肉じゃがを載せて口に運びながら、僕は思う。
管理人さんとは仲良くなれている、と思う。
それでも、管理人さんの性別はいまだにわからない。
せめて喉仏の有無でも確認できないかと思っているのだけれど、管理人さんはいつもハイネックを着こなしているものだから結局直接見ることもできないままでいる。
だから、管理人さんと仲良くなって、お酒も一緒に飲めるようになったら、お酒の勢いでどちらなのか聞いてみようという魂胆なのである。
そんな目論見で、桜も散り始め、大学の授業も始まったある日。
近所の生協で買い物しているときにたまたま管理人さんと出くわして、帰るタイミングも被ったから、ついでだからと管理人さんの荷物を持って一緒に帰ることとなった。
桜が並ぶ道を歩きながら、口下手な僕に管理人さんはいろんな話題を振ってくれた。
「実家はどちらなん?」
「入学準備は進んどる?」
「サークルは何に入ろう思うとるの?」
質問には無難な答えを返せたと思う。
その時僕は、管理人さんと並んで歩くことにまた緊張してしまっていた。会話自体は慣れたと思っていたのに、管理人さんとアパートの外を歩くというイベントでは、僕が1週間で貯めた付け焼刃な経験値なんて全く無意味だった。
ちらちらと隣を歩く管理人さんに視線が行く。
横から見ると鼻の高さや形の良さがよくわかる。僕の視線はさらに下がって、ほっそりした顎のラインと通過して喉に集中する。
管理人さんはいつもハイネックを着ている。今日は風が強めだったからか、ノースリーブではなく七分丈のサマーセーターだ。身体のラインが浮き出るタイトなデザインなのに、喉の隆起は真横から見ても曖昧なままだ。そしてやはり胸は相変わらずなだらかだ。
「なにかいらんこと考えとらん?」
咄嗟に視線を逸らして、僕はなるべく自然な話題を求め、天気が良いことを殊更に主張することにした。
「何言うてんの……」
呆れられてしまった。
管理人さんは鋭い。僕が口にしていないことも、表情や目線で察してくれる。口下手な僕にはありがたいけれど、こういう時はごまかしが効かなくて少し困ってしまう。
申し訳ない気持ちのまま、僕らはアパートに帰り着いてしまった。もっと話を続けたかったのが本音だけど、まさか管理人さんを部屋に招き入れてお茶でもしませんか、なんて誘うほどにまでは関係は進展していない。
互いの部屋に入る直前に管理人さんの買い物袋を返すとき、それに気づいた。
嵩張るエコバッグを抱えて管理人さんに渡す。その時、僕の右手が管理人さんの左手に触れたのだ。
それだけなら何のことはない出来事だ。どぎまぎしながら、やっぱり管理人さんの手って僕より大きいかも、なんて思ったくらいだ。
ただ僕の爪が、冷たく金属らしい硬質な何かに当たった。
はっとして管理人さんの指を見る。
その薬指には銀色の指輪がついていた。
身体が硬直してしまう。え、管理人さんって、結婚していたの? あれ、でも指輪なんて今までつけていたっけ?
「ん? どうかしたん、惚けた顔して。指輪なんて今までもしとったやろ」
そう、だったっけ。失礼な気がして、そこまでまじまじと指を見たわけじゃないけど……。
「荷物重かったやろ? ありがとなぁここまで持ってもろて」
管理人さんは、僕の戸惑いなんて素知らぬ顔で、荷物を受け取ってそのまま部屋へと入ろうとしていた。
そのまま見送るなんてできず、僕は思わず声をかけた。あの、と。質問にもなっていないただの声かけ。
管理人さんは僕の声に振り向いた。
その時の管理人さんは、この1週間かそこらでは見たことがない笑みを浮かべていた。頬を薄く染め、舌をちろりと出した笑み。それは、男だとか女だとか、そういった疑問がどうでもよくなるような妖艶さだった。
「『あの人』、今日出張から帰ってくるんよお。いつも僕のために頑張ってくれとるから、今夜はたくさんおいしいもの作ってお出迎えすんねん」
両腕に抱えたエコバッグを軽く持ち上げて、管理人さんはそんなことを嬉しそうに、本当に嬉しそうに笑みを浮かべながら言った。
あれは、僕がここまで持ってきたバッグだ。
エコバッグの中には蠣やあさり、うなぎに山芋といった、精が付くと言われる食材がこれでもかと詰め込まれていた。他にも日本酒やワイン瓶なんかも包まれていて、腕がしびれるくらいには重かった。僕は、管理人さんが旦那さんに食べさせるそれらを、ここまで嬉しそうに運んできたのだった。
「それじゃあなぁお隣さん。荷物ありがとなぁ」
管理人さんは僕にその左手を振りながら、部屋へと消えていこうとする。そのまま見送ることなんてできずに、僕はとっさにこんなことを聞いてしまった。
『あの人』って、男?
管理人さんは一瞬きょとんと呆けた表情をみせた。その後クスリと笑って、指を口の前に立てて一言。
「どっちやと思う?」