鍵をかけた玄関扉に寄りかかって、僕はどれだけ茫然としていたんだろう。
脚から力が抜けて、扉に背をもたれたまま半畳ほどの土間に尻もちをつく。
体からも力が入らなくなり、体が勝手に傾いて、勢いよく側頭部が壁に打ち付けられた。
なかなかいい音がした。
痛みはある。でもそれを気にする気力も湧かなかった。
たった1週間だけど、管理人さんとは仲良くなれていると思っていた。向こうから挨拶してくれるし、僕のつまらない話にも笑ってくれるし。肉じゃがをおすそわけしてくれたし。
もしかしたら自分に気があるかも、なんて舞い上がっていた。性別のことなんて気にしないふりをして。
恥ずかしい勘違いだと、今は思う。
春のような笑顔の人だと思っていた。陽だまりのように暖かくて、桜のように儚げで。あの優しい笑顔と落ち着いた声で話しかけられるだけで僕の心臓は跳ね、全身の血が熱くなった。
けれど、その実、あんなにも艶のある表情をする人なのだと今日初めて知った。
桜を思わせる儚さとは真逆の、近づけば傷を負ってしまいそうで、それでも手を伸ばさざるを得ない、薔薇のような笑顔だった。
ため息が出る。
僕は、管理人さんのことを何も知らない。
『あの人』のことを思うだけであんな妖しい笑みを作る人だったなんて知りもしなかった。
『あの人』とは、どんな人なんだろう。旦那さんなのか、奥さんなのか。それすらわからない。
玄関で蹲ったまま、部屋はすっかり暗くなってしまった。
今頃管理人さんは、『あの人』のために食事を作っているんだろう。僕は管理人さんの代わりにえっちらおっちらと破婚だあの食材で。
僕が頭を抱えて懊悩としていると。
ガチャン、と。
鍵が回される音が外から響いた。隣の、管理人さんの部屋の扉だ。
身じろぎ一つせず、僕は息を詰める。全神経がたまたま壁に引っ付いている右耳に集中してしまう。
安普請の薄っぺらい壁越しに、かすかに声が聞こえる。ぼそぼそとした声ではっきりとは聞こえない。相手の声が高いか低いかもわからなかった。
壁からの声が途切れ、僕は止まっていた呼吸を大きく再開する。
何を話しているんだろう。
僕には向けてくれなかったあの顔で、『あの人』を出迎えているのだろうか。
体を起こし、リビングに向かおうと立ち上がる。
めまいがした。
壁に手をつきながら、ふらつく足を引きずってベッドまで向かう。食欲なんて湧くはずもなく、昼に管理人さんと買ったものも冷蔵庫にしまう気になれず、ビニール袋のまま玄関に置きっぱなしだ。
管理人さんと『あの人』のやりとりを想像するだけで、息が浅くなる。バクバクと暴れる胸をシャツの上から抑えるも、心臓はまったく収まってくれない。
自分の身体の反応が、意味がわからなかった。
どうして、こんな、まるで──嫉妬のような。
真っ暗な寝室にたどり着き、投身自殺じみたやけっぱちさで僕は新品のベッドに身を投げた。
そんな筋合いはないとわかっている。
だって僕と管理人さんが初めて会ったのは10日前かそこらだ。知っていることなんて隣の部屋に住んでいる、いつもハイネックを着ている、やたら物腰が柔らかくて、料理がうまい。その程度だ。
そして、僕と知り合う前から管理人さんは結婚していた。
ただ同じアパートに住んでいるだけという関係で嫉妬だなんて、おこがましいにもほどがある。
それでも。
それでも僕は、顔も知らない『あの人』が、ずるいと思ってしまった。
うつ伏せになっていた体を転がして仰向けになる。暗闇に慣れた両目に映る天井の広さに心細さを感じる。
静寂が耳を打つ。
もうこのまま寝てしまおうか、そんな誘惑に駆られて目を閉じたとき。
ギシッ、と。
何かが大きくきしむ音がした。
それは、壁の向こうから聞こえてきている。
声はしない。ただの物音だ。家鳴りと言っても通じるようなかすかな音。しかしその軋む音は規則的で、少しずつ激しくなっている。
吐き気がした。
耳を抑えたかった。
聞いていられない。涙まで滲んできた。こんな音、聞かなければいいに決まっているのに、なんならコンビニに行くなりしてしまえばこんな音聞かなくて済むのに。
それなのに僕は、ベッドの上で身動き一つできなかった。
盗み聞きしているわけではない。たまたま。寝室の壁が薄かっただけ。そう自分に言い訳して。僕は明け方までその音を聞き続けた。
♂⇔♀⇔♂⇔♀⇔♂⇔♀⇔♂⇔♀⇔♂⇔♀⇔♂⇔♀⇔♂⇔♀
「おはよ、お隣さん」
翌朝。
管理人さんの部屋から響く物音に、結局僕は一睡もできず。眠気が染みる頭に喝を入れてどうにか1限目の授業に出席すべく玄関の扉を開けた。
今日もまた良い天気だった。早朝の湿度を孕む涼し気な空気が心地よかった。
日当たりのよい前庭とアパートの境界に、箒を持つ管理人さんが、優しい笑みを浮かべて立っていた。
開ける前に管理人さんがいないことは確認していたのに。扉の覗き穴からちゃんと確かめたのに、どうして。
「今日は朝から大学やろ? 昨日はよく眠れた?」
どきりとした。眠れなかった原因その人が、それを見透かしたような言葉を投げつけてくるのだから。果たして今僕はどんな顔をしているんだろう。
「その様子やと寝不足みたいやな。……なんか、ごめんな?」
困ったように眉尻を下げて、右手で謝罪の意を示してくる。ごめんな、なんて。僕がなんで眠れなかったのか、やっぱりわかっていて言っているんだ、この人は。
恥ずかしさに顔が熱くなる。管理人さんの顔をまともに見ることができなくて、僕はふてくされた子供みたいな態度で目をそらしてしまった。
「そう言えばな、君のこと、『あの人』に話してん」
……え?
「新しくアパートに入居したかわいい子がいるってな。そしたらあの人、君のことずいぶん警戒してもうて。せやからあの人に見つかる前にはよ大学に行った方がええよ」
なんで、そんな、まるで僕が間男みたいな。
「それに僕も、君と仲良うしとるとこ見られたらまた怒られてまうわ」
また夕方な、と急かされて、僕は駆け足で大学へと向かった。
少しほっとしている。
あのまま管理人さんと話していれば、もしかしたら管理人さんの言う『あの人』がどんな人か、男か女かくらいは知ることができたかもしれないのに。
……いや、知ったところでなんだって話だけれど。
おかしな話だと我ながら思う。
管理人さんの相手の性別を知ることで、僕は何を期待しているんだろう。
女だと知れれば、僕にも希望があると喜ぶのだろうか。既婚者なのに。
逆に男だと知れれば、僕はこの人を意識することをやめられるんだろうか。同性だからと。
たぶん、無理だ。
男でも、女でも。僕は、あの人が笑うたびに嬉しくなって、呼びかけられるたびに胸を高鳴らしてしまう。
性別を知らない現時点でももう、僕はあの人をすでに選んでしまっていた。
自分ではもうどうしようもなくて、だから、答えを知るのが怖い。
知った瞬間に、僕の中の常識が音を立てて崩れてしまう気がする。「既婚者だから諦める」だとか、「同性だから対象にならない」だとか、そんな当たり前の判断ができるかどうか、僕は自分に自信が持てない。
経験上、管理人さんに対して抱いている感情のままに過ちを犯すに決まっているんだ。
明日もきっと、僕は管理人さんを目で追ってしまうだろうし、声が聞こえたら振り向いてしまうだろう。
だから、管理人さんの性別は、はっきりさせるべきではないと思う。
もちろん知りたい。知りたくてたまらない。性別だけではなく、管理人さんの全てを知りたいとすら思う。知りたくて、近づきたくて、その衝動に叫びが今にも溢れてしまいそうなほどに。
でも管理人さんは、知ろうと近づけば間違いなく僕自身を傷つける。それでも手を伸ばさずにはいられない。
あの人の本質は、桜じゃなくて薔薇なんだ。