『あの人』は、毎朝8時半に出勤する。
玄関扉を開けて、管理人さんの声が一言二言聞こえて、アパートの駐車場から白いハイブリッド車に乗って出勤する。
その自家用車の後ろ姿を、管理人さんはしばし、門柱から車の姿が消えるまで庇の下で見送るのだ。
先週『あの人』が出張とやらから帰ってきてから、僕は音を頼りに『あの人』を避けている。
ただ『あの人』が乗る車は排気音がほとんどしない。そのせいで『あの人』が本当に出社したのか、誤認してしまう可能性があった。
今日も、隣の部屋から扉の音がするのを待った。8時40分。今朝は普段より10分も遅れての出勤だった。昨夜も壁越しにずっとあの音がしていたし、そのせいだろう。『あの人』はなにも喋らない。管理人さんの「いってらっしゃい」の声だけがかろうじて聞こえる。
そのまま5分、待った。
まだ車の音は聞こえていない。
もう一度時計を見ても針は大して進んでいない。当たり前だ。
車の音を聞き逃したのだろうか。
まあ、さすがにもういないだろう。今日は車で出勤しなかったのかもしれない。いつも玄関横の棚に置いてあるはずの車のキーをなくしたとか、鞄に入れている財布ごと免許証をなくしたとか、事故を起こして免停になったとか。むしろそうであれ。そう考えながら僕は扉を開けた。
その時初めて僕は『あの人』の姿を見ることになった。
見えたのは『あの人』の後ろ姿だ。
玄関扉を開けたまま、『あの人』が、管理人さんに立ったままその細い腰に強く腕を回して覆いかぶさっていた。顔と顔が正面から密着していて、高等部で隠れているけれど二人のどこが接触しているのかは瞭然だった。その状態で、いつもより『あの人』が玄関先に長くとどまっていた。
『あの人』の背は管理人さんと大して変わらない。細身の身体に黒いスーツをピシっと纏っていて、後ろから見ても腰や足の細さがすぐ目に付いた。管理人さんと似た髪の色で、ただ管理人さんと違いショートカットだ。
『あの人』の肩ごしに、管理人さんと一瞬目が合った。
音を立てないように扉を閉めて、両手で口を抑えた。胃がひっくり返って、先に摂った朝食のアンパンと牛乳が飛び出してくるのを必死に耐えた。
気色の悪い酸味が口を満たす。勝手に痙攣する喉を抑え込んで無理やりに飲み込む。目尻に涙が浮かんで視界がぼやける。目にはぐちゃぐちゃに映る自分の部屋で僕は考える。
なんで、あんな場所で、あんなところで。僕が通学する時間なんてわかっているだろうに。
見られた。僕が二人の秘め事を見てしまったところを管理人さんに気付かれた。管理人さんは、ずっと目を開けていたのか。驚いた様子もなくそのまま『あの人』と続けていた。
『あの人』は、スマートな人だった。ただスーツ越しでは細身であることしかわからない。後ろ姿だけでは性別も同様だった。ひいては、管理人さんの性別も。ただ『あの人』の後ろ髪に一部隠れていたそのうなじや、顔を傾けて露になっていたその顎のラインの綺麗さは、もしかしたら女性なのかもしれない。その場合管理人さんは男性ということになって……いや、もしかしたら二人とも男性とか、逆にどちらも女性とか、そういう可能性もあるわけで。だからつまり、結局管理人さんが女性である可能性は50%のままだ。
ぐちゃぐちゃなまま思考に没頭しているうちに、どうにか嘔気が落ち着いた。
外から車の走る音がした。ようやく、『あの人』が出勤したらしい。玄関扉の覗き穴から車が出ていくのを、今度はしっかりと確認した。
涙をシャツの袖で拭って、僕は改めて扉を開ける。
管理人さんは、まだそこにいた。
「何してんのお隣さん」
開口一番で笑われてしまった。
僕が玄関から出て、すぐに引き返して、その後半泣きでまた出てきたのだから、そりゃあ管理人さんからすれば奇怪に映る謎行動だろう。
顔から火が出そうだ。
「それにしても、タイミング悪かったなぁ」
管理人さんのどことなく節立った、でもたおやかに長い指が管理人さん自身の唇に触れた。さっきまで『あの人』を交わしていた唇だ。それを強調するかのように触れながら僕を横目で見てくる。
睨めつける見上げてくるその目つきに、背筋がにゾクゾクとしたくすぐったさが走った。
「まさか見られちゃうなんてなぁ、恥ずかしいわあ」
口では恥じらうようなことを言いながら、その挑発的な流し目を弧に歪めている。口角も上がっていて、明らかに面白がっている。
きっと、僕が部屋から出発するまで『あの人』を引き留めていたのも管理人さんが主導でやっていたんじゃないだろうか。
「もう聞いてやお隣さん。あの人とはな、毎朝行ってきますと行ってらっしゃいの挨拶だけなんやけどな。今日はちょっと盛り上がってもうて、いつもよりもっと長くしたいっておねだりされてもうたんよ」
なぜ。
なぜその話を僕にするんだ。
嫉妬で頭がおかしくなりそうだ。まさかそれが管理人さんの狙いなのか。
「もう出勤前やし、他の住人にも見られちゃうやろって怒ったんやけど、あの顔でああやって強請られると断れないわなあ」
『あの人』は僕のしらない管理人さんを知っている。もちろん管理人さんの性別だって知っている。僕が知らない顔も、声も、床上でどんなことを言うのか、どんな声を上げるのか、どんな体をしているのか、『あの人』は全て知っている。
ずるい。僕だって。なんで僕ではだめなんだ。僕と『あの人』では何が違うんだ。
口をさらに開こうとした管理人さんの言葉はm同時に出てきたあくびにかき消された。
「ふぁ~あ。眠いわぁ」
そりゃ明け方まで起きていらしたものね。そんな嫌味を返そうとしたが、それは途中で飲み込んだ。
管理人さんが、朝日を浴びながら伸びをしていた。
「んっ、う、ふぅ……」
管理人さんの服は相変わらずの、ミルキーホワイトでまとめられたハイネックのノースリーブだ。
そんな服装で右手首を左手でつかんで、腕を引っ張るように大きく体を逸らす。
見てはいけないと、わかっているのに。薄いニットのノースリーブは管理人さんの身体によく張り付いている。それで体を思い切り逸らすのだから、その綺麗な脇とか、平坦な胸の輪郭が露になってしまっている。
見てはいけないのに、あまりの色気に視線が外せないことがみじめだった。
だって、僕が一日会えただけで、何度も思い返してしまうような人を、旦那さんは毎日のように見ているんだ。声を聞いて、表情を見て、手を伸ばせば触れられる距離にいる。昨夜には今着ているニットも暴いていたんだろう。
その事実を想像するだけで、息が詰まる。胸の奥に黒いものが溜まり、肺まで塞いでいくようだった。
「そういえばな?」
朝のストレッチに満足したのか、体を脱力させてすっきりした様子の管理人さんが世間話の延長のような口ぶりでこんなことを聞いてきた。
「君の声、毎晩聞こえてくるけど何してん?」
銃で撃たれたのかと思った。
それは、そうだ。
壁の向こうの音がこちらに聞こえるのなら、向こうからだってこちらの音は当然……。
答えあぐねているうちに、管理人さんはにやりと意地悪そうに右の口角だけ釣り上げて、
「君って以外と大胆なんやな」
ほら、もう行かんと一限に遅刻するで。と促されて、僕は弁解することも許されずにアパートを後にする羽目になった。