恥ずかしくて自殺すら考えた。
自分の夜の秘密が、その相手にばれていた。
ああそうさ、認めよう。あんな色気を振りまくような人が、無防備なノースリーブにショートのジーンズで毎朝挨拶してくれるんだ。少し骨ばっている肩とか、大理石のようにきれいな脇とか、朝日を照り返してまぶしい太ももとか、腰の括れから尻にかけた曲線の煽情的なラインとか。
そんなものを毎日見せつけられて、10代の男が狂わないわけないじゃないか。
相手が50%の可能性で男かもしれないことが、少しづつどうでもよくなっている自分がいる。管理人さんと会うたび、言葉を交わすたびにその傾向が増している。
ああ、もしかしたら自分は、男性相手に発情して自分を慰めていることになっているのか。
本当に死んでしまいたい。二重の恥で死ねてしまう。
富士の樹海に裸のまま目をつぶって力の限り走り続けて野垂れ死んでしまいたかった。僕の死体は動物と微生物に食い散らかされて、僕という存在は樹海の土に還り、地球の一部として永遠を過ごしたい。
羞恥心のせいでそんなことばかり考えている。波のある羞恥心の周期がきつい。羞恥のピークがくると体の内側にとどめておくことができなくてその度にあああああああ! とうめき声が漏れる。講義中でも食堂でもひっきりなしに呻いてしまうものだから、僕の周りからは人が消えた。いつもは混んでいる食堂なのに、広々とした6人掛けのテーブルで今日はとても快適だった。悲しくなんかない。
そんな一日を終え、名簿に名前を書いただけの漫画サークルにも行く気にならず、僕は昼一の講義を終えてすぐ帰路に着いた。
構内から出た時点で、霧雨のようなあいにくの天気だった。歩いて5分の距離だ、わざわざコンビニで傘を買うのももったいない。僕は霧雨の中を駆け出した。
あっという間に土砂降りになった。
シャツや靴下までびしょ濡れになって、靴の内側が水でがぽがぽして気色悪い。砂や小石まで混ざって不快極まりない。ここまで濡れてしまえばもうどれだけ濡れても同じだと半ばヤケになって、あえてゆっくり歩く。
前髪から垂れる水滴が目に入っていらいらする。
今日は泣きっぱなしだ。管理人さんに見抜かれた後通学中に恥ずかしさに涙があふれたし、授業中だって羞恥の爆発で目尻をぬぐう手が止まらなかった。
牛歩で進むアパートまでの帰り道、雨水が全身にたっぷりしみ込んで、張り付いたジーンズのポケットをあされば、そこにはあるはずの部屋の鍵がなかった。
そういえば、ポケットに入っているのが気になって、講義中だけと思って鍵とキーホルダーを教室の机の中に入れてしまったのだった。
全身から力が抜けた。
今日はだめな日だ。一から十まで何をしてもだめな日だ。
何もかもが面倒になって、自分の部屋の前で蹲ってしまった。鍵を回収しに大学に戻るなんて殊勝な気持ちなんて欠片もわかなかった。
思考が落ち込むと、考えることがさらにそちらに引きづりこまれてしまうのは人の常だ。
ダメダメでずぶぬれな今日という日を過ごしてべこべこになっている僕が思うことは、『あの人』のことだった。
『あの人』が羨ましい。
管理人さんと生活を共にして、いってらっしゃいとお帰りの挨拶があって、管理人さんの手料理を毎日食べることができて、夜にはあれだ。
羨ましい、なんて言葉じゃ収まらない。
嫉妬している。『あの人』に対して、妬んでいる。管理人さんを独占していることが妬ましくて仕方がない。
でも、僕にそんな感情を持つ資格なんてあるのか。
これ以上管理人さんの近くに踏み込むことができるのか。
管理人さんは、男かもしれないのに。
そう。僕は未だに管理人さんが男か女かが気になっている。男である可能性がありつつも性的な魅力を感じているけれど、では関係を進めることができるのかと問われれば、どうしても僕は二の足を踏んでしまう。
『あの人』は、どうだったのだろう。
男か女かわからない相手に、プロポーズしたのだろうか。
管理人さんのことだ、『あの人』に対しても同じように性別を隠したまま関わり、関係を深め、最後に踏み込ませたんだろう。
そこまでの覚悟が僕にあるのか。
仮に管理人さんが男性だったとして、僕は今まで通りに管理人さんを思うことができるのか。
わからない。
せめて性別がどちらかわかれば、なんて考えている時点で僕は『あの人』に遠く及ばないんだ。
それがあまりにも悔しくて、妬ましくて、なにより自分に対しての失望感がひどかった。
毎晩の音を聞かされる度に、踏み込めない僕の劣等さを『あの人』に見せつけられている。
それでも、苦痛であるとわかっていても、僕は隣室から響く軋り音を聞くことをやめられないのだった。
我ながら気持ち悪い。盗み聞きじゃないか。盗聴となにが違うのか。それを聞くことに必死になって、一晩中覚醒して、授業中に寝てしまうこともしばしばだった。最近ではノートもろくに取れていない。ノートや出題範囲の過去問を教えてくれる友達がいない僕はテストなんて致命的だろう。
引っ越そう。
このアパートにいてはだめになる。ぐちゃぐちゃになって、管理人さんと『あの人』のことでいっぱいになって、大学の単位も取れず留年しかねない。
管理人さんから離れないと、僕はきっと、
「お隣さん?」
優しい声が、僕の頭上から落とされた。
見上げると、そこには管理人さんがいた。
傘をさして、両手には軍手がはめられている。どこかで作業をしていたのだろうか。
「なにしてるん、君。こんな雨の中で傘も持たんと」
いつものハイネックなノースリーブで、まるでしなを作るような前かがみで蹲る僕を覗き込んでいる。
「は? 鍵なくしたんか。それは災難やなあ。あ、場所の検討はついとるん? そりゃ幸いやな。でもそんなびしょ濡れでおったら風邪ひいてまうやろ、ほれ立ちいや」
管理人さんは僕の両腕を掴んで、蹲る僕を強引に引き起こした。
「部屋帰れんなら、ボクの部屋においでや? シャワーあびんとホンマ風邪ひくで」
僕は抵抗した。当たり前だ。シャワーを浴びている間に『あの人』が帰ってきて鉢合わせなんてやらかした日には地獄がこのアパートに降臨する。そんなことを言葉を変えながら管理人さんに幾通りも伝えた。
が、管理人さんは怪しげな笑みを僕に向けて、言った。
「なあ聞いて、あの人、数日帰ってきいへんねんて」
その笑みは、今まで僕が見たものとも、『あの人』に向けていたものとも違う、身の危険を感じるほどに蠱惑的な笑みだった。