「いらっしゃい、ゆっくりしてってなぁ」
管理人さんの部屋に上げられた。とは言っても全身びしょ濡れだから、玄関の土間でタオルを受け取っただけだ。
土間で身体を拭いて、傘を借りて大学に戻ろう。そう思っていたのに。
「? 何しとるん? シャワー浴びたらええよ」
管理人さんの真っ白な腕に引かれて、浴室に連れ込まれてしまった。
「下着だけ先に乾燥させておけば、シャワー浴びている間に乾く思うわ」
戸惑っているうちに管理人さんはさっさとシャワーと乾燥機の使い方を説明して、すたすたと浴室を出て行ってしまう。その後ろ姿を、僕は曖昧な返事をしながら見送るしかできなかった。
大丈夫です、の一言を言う暇もなかった。
管理人さんの中では僕がシャワーを浴びることは決定事項なのだった。仕方がないので言われた通りに濡れた服を乾燥機にかけ、シャワーから吹き出る温水を頭から浴びながら僕は考える。
なんで、管理人さんはあんなにも普通なんだろう。
今朝、管理人さんをおかずにしていることがばれたはずだ。もう合わせる顔なんてない醜態だ。そんな相手気持ち悪くてしょうがないだろうに、どうして普通の顔して接することができるんだ。
「着替えはここに置いとくからなー」
浴室のすりガラスの向こうから声をかけられた。
相変わらず普通だ。装っている風でもない。
隣の部屋の前で座る自分を無視すると角が立つから仕方なく、という感じでもなさそうだ。
混乱しながらシャワーを終えて、管理人さんが用意してくれていた着替えを纏う。
身に着けてから、このシャツとジャージが『あの人』のものである可能性に気づいた。
意味がわからなかった。
♂⇔♀⇔♂⇔♀⇔♂⇔♀⇔♂⇔♀⇔♂⇔♀⇔♂⇔♀⇔♂⇔♀
僕が浴室から出ると、それと入れ替わりに管理人さんがシャワーを浴び始めた。
その間僕はリビングのソファで待たされることになる。
自然と身体がそわそわと落ち着かない。
管理人さんの部屋は僕が借りている部屋よりかなり広かった。リビングは一辺に人が横になれるL字のソファが置かれても余裕がある広さだし、幅が1メートルはある水槽が置かれて小さな熱帯魚が優雅に泳いでいたりもする。
天井をよく見れば境目がうっすらとあって、つまり壁をぶち抜いて二つの部屋を一部屋にまとめた空間なんだろう。
手持無沙汰なせいで、部屋をジロジロと観てしまう。申し訳なさが優って、管理人さんが煎れてくれた暖かいコーヒーをすすって時間を潰した。
「待たせたなぁお隣さん」
管理人さんが戻ってきた。
お礼を言おうとそちらを向いて、すぐに僕は目を逸らしてしまった。
管理人さんの服装は黒い長袖のワイシャツと黒のハーフパンツ。眩しい腿も、薄い胸板も大きく露出していて、非常に目に毒だった。
「はあさっぱりした。裏の畑の雑草を抜いとったんよ。こんなじめじめしとる天気で畑仕事なんてやるもんやないなぁ、すっかり汗だくになってもうたわ」
普段は三つ編みにしている髪をタオルで拭いながら、管理人さんは僕の隣に腰を下ろした。
なぜ近くに。
ソファには座れるスペースがまだあるのに。
管理人さんの行動一つで、僕はこうも情けなく動揺してしまう。コーヒーカップを持ったまま銅像のように固まってしまう。管理人さんもただ髪を丁寧に拭っているだけで、部屋には時計と水槽のエアポンプの音が嫌に響く。
なんのつもりなんだろう。
これから僕を詰めるのだろうか。音を壁越しに聞いておかずにしていた件について。
小学生の頃、生徒相談室なる部屋で担任に山田と二人きりで椅子に座らされたときと同じ緊張を抱きながら、僕はちらりと、管理人さんを横目で見た。
シャツをラフに着ているので、首元が露出していた。
ところが管理人さんはいつもしているピアスは外しているのに、なぜか初めて見る太いチョーカーを首に巻いていた。
なぜこうも頑なに首を隠すのか。
そう思って視線を下にずらすと、ちらりと覗いていた右の脇腹におかしなものがあった。
赤いバラが、その白い腹部に描かれていた。
拳よりも二回りは大きな一輪のバラが、がっつりと彫り込まれていた。
それを凝視してしまっていると、管理人さんが僕の視線に気づいて、「あ……」とつぶやいた。その声に僕も管理人さんのバラに気づいたことを隠せなくなった。管理人さんはシャワーのせいだけでなく頬を染めながらシャツの裾を直してバラのタトゥーを隠した。その仕草すら色めかしくて、僕の顔も熱くなった。
「恥ずかしいなぁ。他の人には内緒にしといてくれる?」
ソファに身を乗り出して、しー、と指を口の前で立ててそんなことを言う。クッションの上で四つん這いになる管理人さんに迫られて、そのどこか縦長の瞳孔に意識が吸い寄せられる。
視線をわずかに下げれば、ゆるゆるなシャツの襟が大きく開いていて、その胸元には左右対称に絆創膏が2枚貼られていた。
なんだこれ。なんだこれ。なんだこれ。
「あっ」
管理人さんはすぐ僕から離れ、ソファの隅っこで僕に背を向けるようにしながらシャツのボタンを締め始めた。
襟を正しながら、恨みがましい目を僕に向けてくる。
絆創膏に気づいてしまったのも、僕の責任ではないと思うんですが。
「あーあ、いろんなこと知られてもうた! あー恥ずかし」
ひゃー、と管理人さんは両手で自分の頬を抑える。
対して僕は頭を抱えた。
バラのタトゥーとか胸の一部を隠す絆創膏とか、一体なんなんだ。頭がおかしくなりそうだ。
「このバラはな、『あの人』に言われて入れたんよ」
管理人さんは、バラのタトゥーが彫られている右の脇腹を、まるで我が子を抱く母親のようにうっとりとした笑顔で撫でた。