電柱から赤ん坊が現れてから早数分。
流石にその場に放置するのは危険というか、人道的にアウトであるため、ひとまず酒寄さんの部屋へ移動した。
初めて足を踏み入れた彼女の部屋は、綺麗に整頓され、まるでそれがこのアパートの一室におけるモデルケースであるかのようだった。
彼女らしさを示している物など、勉強机の上に並べられたエナジードリングの数々と、棚の上に置かれた月見ヤチヨのアクリルスタンドを祀った神棚くらいのものだろう。
「勢いで連れてきちゃったけど、これ、誘拐とかにならないよね!?」
抱いた赤子をあやしながら、酒寄さんは普段よりも興奮気味にそう俺に尋ねる。いかに完璧女子高生の酒寄彩葉でも、ここまでの異常はテンパってしまうらしい。
「流石に大丈夫だと思うけど……。親らしき人とかいなかったし」
強いて言うのならば、あの電柱が親なのかもしれないが。
「志貴はさっきからなんでそんな冷静なの!? 電柱から、赤ちゃんだよ!?」
「いや、なんていうか。……ぶっちゃけ、俺の遭遇する異常事態って大体、命に関わったからさ。電柱から赤ん坊が出てきても、『あー、今回は平和そうで良かったぁ』って感想が先に来てしまう」
「現代日本に住んでてどうやったらそんな達観できるの!?」
まぁ、現代って言うか俺にとっては未来の日本なんだが。そう言ってしまえば更に彼女を動転させてしまいそうだから、決して口にはしないけども。
どう転んだって、この赤ん坊が死徒や祖に並ぶほどの脅威として牙をむいてくるとは思えない。
見てみろ、この赤ん坊の笑顔を。こんな「にへぇ」とだらしなくも愛らしい笑顔を振りまいてくれている子が、まさか俺をバッドエンドに直行させ、あの教室へと連れ運ぶはずがない、……って、あれ?
「びぇえーーーッ!!!!」
赤ん坊の顔を見つめていると、最初は天使のような笑顔だったその顔は、次第に歪んでいき、気が付けば大声で泣き叫び始めてしまった。
「わーっ!? ど、どうしよっ。私、赤ちゃんを泣き止ませたことなんてないよ!?」
とりあえず、既存の知識で対処できないかと、抱いた赤ん坊を揺らしてみたり、軽く背をトントン、と叩いてみたり、ぐるぐると室内を回ってみる酒寄さん。
けれどもそれだけでは赤ん坊は満足できないらしく、未だその感情の猛りを部屋いっぱいに響かせる。
このアパート、壁が薄いから隣の部屋にこの泣き声は筒抜けになっていることだろう。
隣の部屋の住民が俺じゃなかったら、この泣き声で酒寄さんにクレームが入ってたかもしれない。
「ちょ、ちょっと志貴! ボーっとしてないで、何か案を出してよね!」
「あっ、悪い! えっと、赤ん坊が泣き止むことだろ? そうだな……」
ぐぐぐ、と二十年弱の間に培われているはずの、なけなしの子育て知識を振り絞ろうとする。
だが当然、育児の経験などない俺の脳みそをいくら絞ったところで、出てくる知識の雫などたかが知れていた。
しょうがないので、俺は俺の知識からではなく、俺の記憶からこの場の最適解を見つけ出すことに思考をチェンジする。
(俺が赤ん坊の頃、その頃はどうやって……、って、ダメだ!)
よく考えれば俺こと遠野志貴、そのあたりの記憶がまったくないし、そもそもの話だが、俺の育ちはとてもじゃないが一般的だなんて言えない。
有馬の家に預けられた頃は既に赤ん坊何て段階は過ぎ去っていたし、遠野の屋敷に居た頃だってある程度は既に育っていた。あてになる記憶がこれっぽっちも無いぞ。
しょうがない、この際だ……。
(今だけは頼む、槙久。俺に子育て知識を授けてくれ……!)
遠野家の養子である俺を赤子の頃から育てた経験はないだろうが、俺の妹、秋葉を赤子の頃から育てた経験はきっと槙久にはあるはずである。
ならばその知識の一片でもいいから、分けて欲しい。赤ん坊の頃の秋葉が泣いてしまったとき、槙久はどうやってあやしていたのか。
(……わからん)
当然、わかるはずもなかった。そもそも槙久に育児のイメージなど、ほとんどない。あの顔を思い出したとて、泣いた赤子の対処など連想できる筈も無し。
結局その場は、酒寄さんの機転による子守歌で事なきを得ることになるのだが。
俺はただただ、自身の子育て力のなさに絶望するのであった。
すぅ、すぅ、と小さな寝息が室内に満ちる。荒波は、過ぎ去ったのだ。
「……ふぅ、泣き止んでくれた。ヤチヨパワー、すごすぎ」
「お疲れ様です……。ごめん、酒寄さん。何の役にも立てなくて……」
「いや、まぁ、しょうがないって。結果的に泣き止んでくれたんだからさ、気にしないで」
酒寄さんのやさしさが身に染みて、ささくれ立った心が染み痛い。俺、この先、子供とかできてもなんも出来ない気しかしないんだが。
俺、もしや槙久をとやかく言えない位のダメ親父になったりしない、よな……?
「……にしても酒寄さん、やっぱり歌、上手だね。音楽の授業でもそう思ってたけど」
「いやぁ、別に普通だよ、私なんて。赤ちゃんが泣き止んでくれたのは、私の歌声ってより、ヤチヨの歌の力」
ふふん、と胸を張りそう主張する酒寄さんの顔はどことなく自慢げ。
確か、彼女が子守歌に歌ったのは月見ヤチヨの持ち曲の一つ、『Remember』のはず――少し前に彼女からプレイリストが大量に送られてきて、そこで知ったんだっけ――なんだけれども……。
赤ん坊に歌詞は伝わらないし、曲調は子守歌用に酒寄さんがアレンジしていたから、純粋に酒寄さんの歌の力だと思うんだが。
まあ、本人がそう言うならそれでもいいか。
「これ、警察とかに連絡しても真面目に取り合ってもらえるかな?」
携帯電話を片手に、警察署へと電話するか悩んでいる様子を見せる酒寄さん。
警察、警察か。どうなんだろうか。正直、電柱から赤ん坊が出てきた、って言って真面目に取り合ってくれる気はしない。せめて近くに防犯カメラとかがあってくれれば話は別なんだが、このボロアパートにそんな高価なものは取り付けられていないし。
「というか、警察に届け出たところで、って感じかな。よしんば引き取ってもらえても、親とかは多分出てこないだろうし」
「そうなったら、施設とかに送られるのかな……。あんまり詳しくないけど」
扱いとしては身元不明、両親不明の孤児の扱いになるのではないだろうか。
今は昔、それこそこの未来の世界ではさらに昔の話だが、駅のロッカーに赤ん坊が捨てられる、なんて事件がかつてはあったというが、今回の件はその類の事件だ。
「……」
酒寄さんは今後、この赤ん坊が今後、どのような人生を歩むことになるのかを想像したのだろう。
少し青ざめた表情で、じっ、と抱いている赤ん坊の寝顔を見つめている。
「……とりあえず、今夜はもう遅いし、警察に連絡するにしても明日にしようと思うんだけど」
どうかな、とこちらを見ながら彼女は尋ねてくる。
俺としてもその方針に異論はないので、こくりと首を一度縦に振って肯定の意を示した。
今夜はバイト上がりで、もうとっくに時刻は午後十時を回っているし、十一時すら顔をひょっこりと覗かせているような頃合いだ。
せっかく赤ん坊も眠ってくれたことだし、下手に動くよりも今夜はすぐに寝て、明日から今後の方針を決める方が建設的に思える。
「それじゃあ、一旦俺は自分の部屋に戻るから、何かあったら呼んでね」
「あ、うん、わかった……。おやすみ、志貴」
赤ん坊を起こさぬよう、抑えた声量でそう言って、俺は酒寄さんの部屋を出る。
きぃ、と音を立てながら開く扉は俺の部屋のそれとそっくりで、流石同じアパートの扉であると言わざるを得ない。
「……俺が転移させられたことに、関係しているのかな」
そう呟いて思い出すのは、憎きネコモドキの顔。
一体全体、何が始まったのかは今の俺では到底分かりっこないのだけれども。
それでも、何かしらの大きな運命が走り出したのではないか、と。そんな気がしてならない。
突如現れた電柱生まれの赤ん坊。それを発見した限界が近いハイスペック女子高生。
そしてその隣に急遽住むこととなった、この世界にとっては完全なるイレギュラー。
全てが誰かにとって都合よく組まれているとしか思えないこの状況、きっとそんなことをする奴がいるとするのならば、そんなのは決まりきっている。
――もしかしたら、この世界とのお別れもそう遠い事じゃないのかもしれない。
本当になんとなくだけれども、俺はそんな気がしたのだった。
「ありゃりゃ、志貴さんってばダメダメですねぇ。自分のお子様が生まれた時あれじゃあ、奥方が苦労されますよ」
「別に兄さんが子育てに精通している必要はありません。もし必要ならば、その時は乳母でも雇えばいいじゃないですか」
「おっふ、ナチュラルに子育て外注案が出てくるとは……。ダメですよー、秋葉様ー? 貴族的には百点でも、コンプライアンス的にはゼロ点です!」
「いーなー。私も志貴と赤ちゃん育てたいかもー。志貴がこっちに帰ってきたら、どうにかできないかなぁ」
「興味半分で生命を用意しようとしないでください。倫理観とかないんですか? ないですよね、真祖ですしね」
「何よ、喧嘩売ってるわけ? はーやだやだ、赤ん坊を見て怒っちゃうとか、シエルってばもう歳なんじゃないの?」
「貴女にだけは言われたくないんですけど!?」