「それじゃあ、行くよ……」
酒寄さんのその言葉を合図に俺たちは一斉に仮想空間ツクヨミへのログインを試みる。
俺の場合はスマートシートの視界の隅にあるログインボタンを視線で押下だ。
――ぱしゃん。
瞬間、視界内に広がる、深い海を潜るようなエフェクト。イメージするは竜宮の城。虐められている亀を助けて潜る海。
その水一滴一滴に至るまで、神聖さを覚えさせるほどの存在感。
その水を掻き分けて、青い水面に沈み込み、底から湧き上がる気泡とは逆行して、下へ下へと下っていく……。
底へ、底へ、さらに底へ。見果てぬ底を一身に目指し、意識も並行して現実世界から離反し沈み込む。
時間にしては一瞬の、けれども体感としては万年の潜行を続けて。
そして、視線の先に明るい底が見えてきた。
海の先はあの世の世界。山門異界とは、少し違う。
古来よりあの世とこの世とを仕切る一つの境界線とされる母なる海だが、まさしくこの潜行を終えて俺は異界へとやって来た。
水面を抜ける、意識を浮上させる、その世界に自己を確立させる。
水圧であやふやとなった自意識は、鈴を転がしたような甘く、それでいて冷ややかな声に引き戻された。
「――太陽は沈み、夜がやってきます」
気が付けば俺は先ほどまで居たはずのアパートの一室ではなく、あの大きな鳥居が特徴的なツクヨミのログイン入口へと立っていた。
果てない夜空、数えきれない満天の星、視界の遠方にはネオンに照らされた歴史的建造物風のアレコレ。
それと……
「今日もログインありがとー!」
鳥居の前に立つ、和服に身を包んだ白髪の少女……、ログインユーザーの見送り様の月見ヤチヨの分身の一つが手を振っていた。
最初の頃はこういう仕様があるのか、と驚いたものだが、流石に二か月も経つともはや日常風景と言っても過言ではないその光景を尻目に、俺は脳波による操作でその場から進み、眼前の大きな鳥居を潜り抜けた。
「いってらっしゃーい!」
あのカフェでの騒動の後は、それはまぁ大荒れであった。
そもそもの外出禁止令があったというのに、それを破ってしまった、というのも理由の一つではあるのだが、それ以上に、あの少女はとんでもない爆弾を用意していたのだ。
なんでも彼女は湧き出る自身の好奇心を抑えきれず、酒寄さんの部屋にあったスマコンに興味を抱き、それをインターネットの通販で購入してしまった。
もちろん、数日前まで赤ん坊であった彼女に所持金などと言う概念はない。その購入に用いられたのは酒寄さんの通帳の残高である。
さらにはオムライスなどなどの食事にたいそう興味をお持ちになったらしいお姫様は、料理という概念自体にも同じくらいの関心を抱かれたらしく……、近隣のスーパーや八百屋、肉屋などで食材を買い漁り、そして初めての料理を行ってもいた。
もちろん、それらの購入に用いられたのも酒寄さんの残高である。本人曰く、それらの購入により、貯金残高は驚異の四桁を切ってしまったらしい。
この暴挙には当然、普段は温厚な酒寄さんも激怒……するかと思われたが、そもそも数日前まで赤ん坊であったということと、少女の作った料理が想像を絶する美味さであったこととで、その怒りは爆発することなく終わった。
叱りはしたが、怒鳴りはしない。
渦中の二人のやりとりを基本的に遠巻きで見ていた――もちろん、学校で少女と合流してからストーキングをするまでのことについては俺もこってり絞られたが――俺であったが、その俺から見て、酒寄さんの善性はちょっと度が過ぎているレベルで振り切っている。
普通に考えて、少女のやった行動は無知が故、とはいえ思わず手が出ても誰も文句を言わない程のものだった。特に、苦学生である酒寄さんにとっては人並み以上の衝撃であったはず。
だというのに彼女は少女を追い出すこともせず、それどころか買ったものはしょうがない、とばかりにツクヨミの世界を案内しようというのだから……。
そりゃあ諌山さんたちが半ば過保護気味に酒寄さんを守ろうとするのも納得の話だ。
彼女は自分が限界でありながら、それでも他人のため、それで喜んでもらえるなら、とさらに自分を切り詰められるような人だった。
自身の身体を構成する金や宝石を燕に運ばせた像の話があるが、その擬人化とでも言うべきか。
流石に残高が四桁を切っているのは大問題だろう、と今回の支払いの半額を俺が賄うことにしたが、それも大分彼女は渋っていた。
赤ん坊を拾ったときに一緒に居たことと、少女の作った夕飯を一緒に食べたから、とという二つの理由を武器に、どうにか彼女を説き伏せれたのだが……。
それだけの武器を用意したってのに、ギリギリの勝負になったのは俺が情けないのか、それとも彼女が凄すぎるのか。
彼女の母親は凄腕の弁護士らしいが、その片鱗を垣間見た気がする。
……なんて、そんな怒涛の騒動の末、俺たちは三人でツクヨミの世界へとやって来たのだが。
「……かぐや、遅いね」
「まぁ、俺と違ってチュートリアルとか好きそうだしね」
抜けた鳥居の足元で俺は、iroこと酒寄さんと落ちあい、三人目の登場を待つ。
かぐや、というのは酒寄さんがカフェにて諌山さんたちの前に出た少女にとっさに付けた名前であり、ついでに言うと出身は築地ということになっていた。
迷わず月から来た、と言った少女こと、かぐやちゃんのフォローで生じた真っ赤な嘘である。
「七夜は本当に一瞬で出てきたしね。顔とかリアルのまんまで来たから、「こいつ、ネットリテラシーとかないの?」って思ったし」
「あの頃はこっちの常識とか全く知らなかったしなぁ。今思うと、まぁヤバいよね」
「それをヤバい、って思えるようになっただけでこの二か月は有意義だったんじゃない? まぁそれで言うんなら、さっさと顔の辺りをリメイクしてリアルから遠ざければ? とも思うけど」
「いやぁ、おっしゃる通りなんだけどさ。まぁこの天狗の面だけで事足りてるし、いいかなー、って」
「甘いなぁ……。身バレとかしても知らないよ?」
はぁ、とあきれ気味に顔を振る酒寄さん。頭の上に付けた狐の耳が、ひょこひょこと動いている。
ちょっと触ってみたい気もするが、明らかにセクハラになるので口にはしない。いかに同級生相手であっても、捕まるときは捕まるのだ。
「それにしても、やっぱりログインしてすぐにヤチヨが待ち受けてるってのは凄いよね。ツクヨミに来る人って、その何割かはヤチヨ目当てだったりするんでしょ?」
「らしいね。まぁ、私もその手のタイプだったから気持ちはわかる。至近距離で推しと出会える、なんて幾ら出しても安いからね」
あの演出自体、慣れはしたが、それはそれとして魅入ってしまうことに変わりはない。
富士の御山や京の神社仏閣なんかと同じで、見飽きるほどに見たとしても、その荘厳さに陰りは出ないのだ。
「それにログイン用のヤチヨってたまにレアヤチヨが居て、その時は普段とは全然ちがうんだよね。めっちゃ話しかけてきたりしてくれるし、普段よりスキンシップも多め。アレを一度味わったら、もうツクヨミからは離れられんね」
「へー、そんなのあるんだ。知らなかった」
まだツクヨミ歴二か月の俺はそんなの見たことが無いのだが、酒寄さんレベルの歴ともなるとそう言う低確率の演出も何度か出会えたりするのか。
ツクヨミという世界は奥が深い。
「二か月やっててレア演出がゼロ、ってのも珍しいと思うけどね? 私の体感だけど、一、二週間に一回くらいは引くし」
「昔から決して運は良いタイプじゃなかったしなぁ」
というか、運が良かったと思うような機械など一切なかった気もする。
大きな事故にあったが生きていた、というのは幸運と言っていいのかもしれないが、その代償が虚弱体質と養子縁組、それとおまけにこの眼ときたものだから、流石にお釣りの方がデカすぎる。
……などと、下らない会話を続けていると。
「あ、来たね」
ほわ、と鳥居の先が薄く光った。
俺と酒寄さんは待ち人の到来を感じ取り、少しだけ場所を移動し、鳥居の前へと並び立つ。
「――ぶへっ!?」
そして、一つの金色の影が鳥居の間から勢いよく飛び出し、勢いそのまま石畳の道へと転げ落ちていった。
ばしゃり、と足首辺りまでの高さの水面を弾けさせ、大きく水しぶきを弾き出す影。
「っぷ、ふふ!」
その様子がおかしかったのか、思わず吹き出す酒寄さん。
笑われて恥ずかしかったのか、影はぐ、と地面に倒れ伏しながら顔を見上げ、むぅ、と彼女を頬を膨らませながら睨みつける。
が、どんなに凄んでも恰好が格好なので、まったくもって恐ろしくはない。むしろ愛らしい、と見る人によっては感じるような様だ。
「金髪……、ギャルいかぐや姫って……!」
「あの酒寄さんって娘、いい子過ぎません……? 私、見てて心配になるんですけど」
「確かに、今時珍しい方だとは思います。……とは言え、自身の限界を無視してまで他者に尽くすなど、私から言わせれば甘いとしか言いようがありませんが。そう言った事は、余裕があるものにのみ許された振る舞いです」
「ありゃりゃ、秋葉様ってばお厳しい。いいじゃないですかー、あぁいうのもある種の青春ですよ! 失って初めて気が付く、みたいな?」
「姉さんの方がよっぽど酷いのでは……?」
「何度見てもいいわよねー、アレ。私もツクヨミ、行ってみたいなー」
「確かに何度見ても凄まじい映像ですね。遠野君がゲームをしているところを見せてもらったことがありますが、こちらの世界のそれとはレベルが大きく離れています」
「志貴ってば自分で戦うのは嫌だ、って言うくせに、ゲームだと人と人が戦うやつが好きなの、変わってるわよねー」
「乾君とは泊りがけでよくその手のゲームで夜通し遊ぶらしいですね。この間、学校で聞きました」