船が黒煙を吐いていた。
大陸と日本を結ぶ連絡船が、下関の港に横付けされていた。定刻より三時間の遅れである。
男にとってはひどい船旅だった。定期の船は故障で出ず、代船は旧式のレシプロ貨客船、おまけにそれも故障して帆走の羽目に。
ほかの一等、二等の旅客はとっとと降りてしまって、なにやら船下で駅員と揉めている。船では厳然たる序列がある。その連中がタラップを占領しているおかげで、男ら三等旅客は待ちぼうけを食らっているのだ。
焦りの雰囲気が広がる中、男は呑気にタバコを吹かしていた。通りがかりの船員に話を聞くと、これももうすぐ貨物専用に作り替えるらしい。
「ボロのレシプロですよ。神戸謹製のサラピンタービン船がもう十年前、予備とはいえよくも残してたもんです」
「旧式ならではの良さもあるさ」
「運用側からしちゃ、たまったもんじゃあないですよ。石炭は食う、煙は多い、人も貨物も乗りゃしない」
「……そんなもんですかね」
「そういえば……こう言っちゃ失礼ですが、珍しいですねお客さん。大陸から来たってのに、ほとんど手ぶらだ」
「旅には荷物を持ち歩かなくてね」
……持ってくる荷物も無かった。ほとんどは向こうでの調達品で、あらかた置いてきてしまった。荷物は手にしたトランク以外、ない。
「……列車は、接続取らんそうです」
船員の言葉に、男は無言で首をすくめた。
「下関からの連絡はまだか?」
「まだです」
その頃。府中のウマ娘学園では、大事になりつつあった。到着予定より二日も遅れている上に、何の連絡もない。要は行方不明だった。
「……やっぱり他の人員にしたほうが……」
「しかし、あれ以上の人員となると……」
事態が動いたのは、日の暮れかけた頃だった。
ようやく東京に着いた男は、公衆電話を探した。ボックスに入ると受話器を上げ、交換手を待った。
「お待たせいたしました。お繋ぎ先をどうぞ」
「市内23局、丸ビル三階……」
電話はすぐに繋がった。
「はい、府中ウマ娘学園電話交換室でございます」
「あ、どうも……奉天の長山ですけれども……」
長山は無事を伝えたあと、三十分後に折り返してほしいとの言を聞き、電話を切った。
後には暇だけが残った。
丸の内は賑わいを見せていた。勤め終わりのサラリーマンが列をなし、駅前ロータリーの交通を遮っている。
(俺には、ああはできん)
誰に言うともなく呟いた男は、ぼんやりとタバコを吹かした。
生まれてこの方流転続き、ひとところにたどり着かなかった男は、それの異常さを何よりよく分かっていた。
タバコ数本を灰にして、男は再び電話をかけた。
「府中へ参上せよとのことです」
「なるほど」
先ほどと同じ交換手だった。僅かに低音の女声が、受話器の向こうでちらついている。
「つきましてはご送迎をいたしますので、ご足労ですが丸ビルまで、お願いできますでしょうか」
「はあ」
電話を切って、ふと気づいた。普通は、迎えのものをよこします、となるはずだ。何故丸ビルまてこちらがゆくのか。
「……まあ、いいか」
……この選択が、その後の運命のきっかけになることを、男はまだ知らない。