ヤニねこの大家さんはいかにして大家さんになったかの話 作:namamugi
「ああ、大家さん」
「うおっ」
アパートの庭を掃除中、階段から降りてきた辰野に話しかけられ、その異様な姿に、思わずおう也は一歩引いた。
髪はボサボサ、服はよれよれ。眼鏡にまでヒビが入っていそうなほど、全身から凄まじい負のオーラを放っている。
「ど、どうしたんだ先生? 何かあったのか?」
「ふふふ、何だと思います? ふふふふふ」
得体のしれない笑みを浮かべながら、フラフラと辰野が歩いてくる。
おう也は思わず更に一歩引いて、箒を取り落とした。
「だ、大丈夫か?」
「答えはね、何もないんですよ、ふふふ、何もなくなっちゃったんです、なーんにも。あははは」
「えーと……」
「打ち切られたにゃ」
いつの間にか同じく庭に出ていたヤニねこが、タバコを燻らせながら、あっけらかんと言った。
「おいヤニねこ、お前……」
いつものクセで公共スペースでタバコを吸うことを叱ろうとし……言われた言葉の内容を頭の中で反芻して、それどころではなさそうなことに気付く。
「……本当に打ち切られたのか?」
「クソ人気なくて打ち切りだにゃ。ニャンマガの編集部で、次はヤバいんじゃないかみたいな話をヒソヒソしてたにゃ」
「お、おう……」
「ふふふ、いいんですよ、大家さん。そうです。私は打ち切られた女です。ふふふふふ」
辰野がフラフラしながらより暗い笑みを浮かべる。現実に足がついていないような狂気的で不気味な笑みだ。そういうゾンビ物の映画だと言われたら信じてしまいそうな怖さがある。
「えーと……な、何か食べたいものとかあるか?」
「ふふふ……そうですねー、今ニャンマガトップの真賀里先生の爪の垢とか飲みたいですねー。飲んだほうがいいですよねー。だって真賀里先生大人気なのに、私打ち切られたんですもんねーあははは」
「にゃーは今日は肉が食いてえにゃ。いい肉買ってくるにゃ」
「お前にゃ言ってねえ」
後ろから言ってくるヤニねこにはビシッと言っておく。おう也はそのまま何と言おうか躊躇いつつ……。
「ええと、先生? そ、そうだ、気晴らしになんか飯でも行くか? 俺が奢るが……」
結局思い付いたのは似たようなことだった。こういう時は人を慰めた経験の少ない自分に腹が立つ。
だが、辰野はそれにも首を横に振った。
「いいんですよ、大家さん、止めてください。こんな打ち切られて収入の途絶えた人間、奢る価値なんてないですよ、ふふふふふ」
言いながら、身に纏うマイナスのオーラが一段と増したように感じる。
「にゃ、じゃあ焼肉行くにゃ。いいとこの肉奢れにゃ」
「お前には……」
後ろからヤニねこが言ってくるのを再び断ち切ろうとし……止める。気に入らない点はあるが、これも一つの手段だろう。
「い、いや、いい考えだな、ヤニねこ。そうだな、うん、焼肉行くか。ほら、先生も……」
「ダメですよ、大家さん。私なんかとご飯食べたら打ち切りが伝染りますよ!」
しかし、言ってもやはり、辰野の調子が変わらない。変わらずの暴走したテンションで続ける。
「ヤニねこちゃんも! こんなとこいちゃダメよ! 打ち切られ女と一緒にいたら打ち切りが伝染っちゃうよ! あっ私が消えればいいのか! 打ち切りだもんね!」
「にゃ……」
ヤニねこが、何か言うのも待たず、辰野はそのまま階段を上がり、バタンと自分の部屋の扉を閉めた。
しばらく、残されたおう也とヤニねこの間で沈黙が流れ……。
「……だいぶ応えてるな」
「昨日は頭抱えながら、もう漫画なんて描きたくないとか言ってたのに、わがままだにゃ」
「それは……まあ、難しいとこだわな……」
やりたくてやってるわけではないが、かと言ってなくなると、頭がおかしくなるくらいに困る。仕事とは大体そういうものだろう。
特に、漫画というのは極めて強力な才能の世界で、上はそれこそ御殿が建つが、下を見ればキリがないと聞いたことがある。会社勤めのおう也には想像もつかないような苦労があるに違いない。
「……おいヤニねこ、明日また先生誘ってどっか飯でも行ってやれ」
「にゃ?」
「今日は、もう下手に連れ出さない方がいいだろうが、ずっと引きこもってんのもよくねえだろ。俺は仕事でいねえから、代わりにお前が……」
「大家さん!」
前触れなく、バンッと階段の上から数段飛ばしで辰野が飛び降りてきた。
さっきまでの暗い雰囲気を通り越して、ブラックホールを背負ったような、得体のしれない力のある暗い笑いを浮かべている。
「ヤニねこちゃんって可愛いと思いません? 思いますよね? はい、思った!」
「ええと……」
「にゃーは可愛いと言うより美人だって妹ちゃんが言ってたにゃ」
「こんなに可愛いんだからつい襲いたくなりますよね? どうですか? 今から襲ってみませんか?」
「いや、先生?」
「私ね、分かったんですよ、やっぱり私の生きる道はエロ漫画なんだって。私にはまだエロ漫画があって、私にはもうエロ漫画しかないんだって。どうですか、リアル描写のリアル参考本になりませんか? 最早成人向け雑誌にしか私の漫画載りませんからね! ふふふふふふ」
「先生、落ち着いて……」
「あ、じゃあ代わりに私が襲うから大家さんスケッチしますか? 百合百合ものなら売れますよきっと」
「にゃっ」
ヤニねこが近づいて来ていた辰野の頭を横からはたいた。
「ぐふっ」
断末魔を上げながら、辰野がその場に崩れ落ちる。気絶したのか、それとも力尽きただけなのか、ぴくりとも動かない。
「お、おいヤニねこ、先生大丈夫なのか?」
「死んだにゃ」
「いや死んじゃいないだろうが……取り敢えず部屋まで運ぶか……」
言いつつ、辰野を背負って階段を上がる。
「はあ……。けどまあ、打ち切りか……。こればっかりは俺達にどうこう出来る話じゃねえな……」
「ニャーは、アシスタントのバイト代、支払い待ってやってるにゃ」
「そうか……偉いな……」
珍しくヤニねこの言うことに本当に心から偉いと思ったので、素直に言う。
そのまま辰野を部屋の布団に寝かせ、部屋から出るとおう也は財布を取り出した。三種の札が入った財布から躊躇わずに一番大きい紙幣を取り出すと、ヤニねこに差し出す。
「ほらよ、これ」
「にゃ? 金にゃ!」
「前払いだ。先生が元気出したらもう一万やる。さっきも言ったが、明日外に連れ出してやってくれ」
「にゃ! 任せるにゃ!」
結局、辰野が調子を取り戻したのは3日後だった。
ヤニねこに連れ出され、2日間の食事と喫煙所巡り(当然のように全額ヤニねこに経費として請求された)を経て、元気が出た(ヤニねこ談)とのことだった。
しかし後日、辰野に話を聞くと、エロ漫画の方の締め切りが近づいて来て、悩んでる場合じゃなくなってしまったのが実際のところだったらしい。
最終的にヤニねこに支払った金額は三万円を越えた。