ヤニねこの大家さんはいかにして大家さんになったかの話 作:namamugi
「海外出張……ですか」
「ああ。上の方針でな。今度、海外に新規の販売拠点を立ち上げようって話になってな。立ち上げチームのメンバーとして、うちからはお前らが推薦された」
神妙な様子で目の前の男……おう也の上司が返してきた。隣の、おう也と同様に呼び出された同気が頷く。
「なるほど。俺らってことは販売の基幹システム選定や、業務の仕組みづくりからってことですね」
「ああ。通れば、暫くはプロジェクトチームの方が主な業務になる。で、たぶん早々に海外出張の予定が入ることになる」
「期間とかはまだ?」
おう也が尋ねる。あまり長くなるようなら、色々と考えなければならないことが増えてくる。
上司はパソコンを操作しながら答えた。
「ああ。まだメンバー集めてる段階だからな。とはいえ、これが今、温度がかなり高い案件で、下手すりゃ来週から海外に行ってこいってことにもなりかねない感じだ。で、今のうちに出張無理なタイミングは伝えておきたくてな。この日は外せない、みたいな日付があったら教えてくれ。そこは外すように伝えるから」
「家族に相談してからでも?」
同気が尋ねる。独身のおう也とは違い、結婚していて子供もいる同気は一人で予定を決めることは出来ないのだろう。
「ああ、今すぐってわけじゃない。まあ、予定を組む都合、なるべく早けりゃ助かるが」
「俺もちょっと相談してから返答にさせて下さい」
おう也も同様に返す。アパートを経営している身では、やはり即答は難しい。
上司は頷いて答えた。
「勿論だ。急で悪いが、二人ともよろしく頼む」
それから一週間後。おう也はヤクねこの部屋を訪ねていた
「ヤク、いるか?」
「っす。大家さん、どうしたんすか?」
「お前、ちょっとバイトしないか?」
急な申し出に、ヤクが驚いたように表情を変えた。
「バイト……っすか?」
「ああ。急遽、来週から2週間出張することになってな。代わりにアパートの掃除したり、キャベツの世話してくれるやつが必要なんだ」
「じ、自分でいいんすか?」
ヤクが自らを指差して不安の滲んだ表情で言ってくる。おう也は安心させるように、大きく頷いて返した。
「他には任せられん。先生は締め切りでヤバそうだし、カンサイもバイトが忙しそうでな。ハメねこも補習の方に集中させてやりたい。お前は夏休みだから、ちょうどいいかと思ってな」
「や、ヤニねこ先輩とかは?」
「俺の目が黒いうちはあいつにこのアパートは任せん」
「あ、あはは……」
おう也の断固とした姿勢に、ヤクが思わずといった様子で苦笑する。
「で、どうだ? バイト代は2週間でこれだけ出すが……」
「こ、こんなに!? いいんすか、本当に!?」
「ああ。出張中はそこそこ日当が出るからな。ちょっと羽振り良くなるんだ」
本当のところ、提示したバイト代を払うと出張の日当だけでは多少足が出るのだが、それは黙っておく。無駄に気を遣わせても仕方がないだろう。
ヤクはしきりに感心した様子で頷いた。
「はー、流石っすね」
「だが……一応言っておくが、そんな容易い仕事じゃないぞ」
「そ、そうなんすか?」
慌てた様子で聞き返すヤクに大いに頷いて返す。そのまま指を1本立てて、厳かな調子で言う。
「ああ。なにせ……タイミング的に、ヤニねこのやつから家賃を取り立てなきゃならん。他のやつはまだ素直に払ってくれるが、あいつだけはいつも第一声が『金がねえ』だからな」
「せ、先輩から、家賃を……」
戦慄した様子でヤクの表情が固まった。
先輩先輩と慕っていた相手だ。いかにそれが困難なミッションなのかを、否応なく察したのだろう。
「ああ。だから、難しいと思ったら断ってくれていい。アパート内は無理だが、そうなったらよそを当たってみるつもりだ」
「い、いや、大丈夫っす。大家さん、自分にやらせて下さい!」
ヤクが、強い勢いで言い切った。
実際のところ、本当にヤニねこから取り立てられることを期待してるわけではなかった(おう也自身ですら苦戦するものを期待するのは酷だろう)が、そう言ってやる気を示してくれたヤクに、おう也は安心した仕草で頷いた。
「そうか。よし、じゃあ任せたぞ」
この分は前払いだ、と言って紙幣を一枚握らせ、扉を閉め、ふう、と息をつく。
別に、ヤクが夏休みに入ってからずっとバイトの面接に落ち続けていることも、食費を切り詰め、タバコまで我慢していることも関係ない。
ただ、本当に任せられる相手が他にいなかっただけだ。
――そう、ヤクには思ってもらえただろうか。
おう也は自分の演技が上手くいったことを祈りながら、ヤクの部屋を後にした。